機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
《51》命の誕生と家族の完成(U.C.0085 1月〜3月)
宇宙世紀〇〇八五年の幕開けは、地方都市をすっぽりと覆い隠す深い雪とともに訪れた。
シイコの胎内に宿った新しい命はすでに臨月を迎え、小柄な身体には不釣り合いなほどに大きく、そして重く成長していた。
暖炉の火が静かに爆ぜる居間である。
シイコは揺り椅子に深く腰掛けながら、自らの両手をじっと見つめていた。
彼女のその手は、鋼の機体の操縦桿をミリ単位の精度で操作し、敵の操縦席を至近距離で焼き切るためだけに存在していた。
真空の宇宙に散る血の匂い、金属が焼け焦げる匂いだけが深く染み付いていると、彼女自身が誰よりも固く信じて疑わなかった。
だが今、淡いクリーム色の柔らかな毛糸を握り、編み棒をゆっくりと動かしている。
決して器用な手つきではない。
時折編み目を間違えてはほどき、不揃いになった結び目を指先でそっと撫でる。
(……不思議なものね)
かつて、ほんの一瞬の遅れが自らの死に直結する極限の戦場において、彼女の手は「命を物理的な無へと還元する」という任務を完璧にこなす機械の一部であった。
感情という雑音を完全に遮断し、敵兵が恐怖に顔を歪める光景すらも、ただの標的の数値変化として処理していたのだ。
しかし、今編んでいるこの小さな産着の網目の一つ一つには、「機能」や「効率」といったものを超えた、不確かで温かな祈りが込められていた。
生まれてくる子供が、決して寒くないように。
柔らかく包まれるように、と。
彼女が編み棒を動かすたび、下腹部の奥深くで、赤ん坊がそれに応えるかのようにポコッと小さな胎動を返す。
そのたびに、シイコの唇からは自然と柔らかな笑みがこぼれた。
「ふふ……起きたの? 今日は雪が降っているのよ。
外はとても冷たいけれど、ここは暖かいから、安心してね」
かつての氷のように冷たく無機質であった声帯から、これほどまでに甘く、温もりを帯びた音声が紡ぎ出されることに自分自身で驚きながらも、柔らかな変化を静かに受け入れていたのである。
『
『記録日時:UC〇〇八五年 一月某日』
窓の外には、しんしんと雪が降り積もっています。
世界中のすべての音を吸い込んでしまうような、静かで深い冬の夜です。
私は珈琲を淹れながら、居間のストーブの前でベビー服を編む彼女の横顔を、ずっと見つめていました。
彼女の横顔には、もはやあの暗く冷たい宇宙の底を彷徨っていた、過去の死神のような影はありません。
お見合いの席で初めて顔合わせした時、彼女は「決して触れてはならない冷たい刃物」のようでした。
周りに冷たい防護壁を張り巡らし、私の手を拒絶しようとしていました。
夜中に過去の記憶にうなされ、血に塗れたご自身の手を呪い、激しい過呼吸に陥っていたあの日々が、まるで遠い昔の幻のようです。
「男の子かしら、女の子かしら」
編み物の手を止め、大きなお腹を愛おしそうに撫でながら、彼女が私の方を振り返って問いかけてきます。
その声は、春の陽だまりのように柔らかく、そして穏やかでした。
「どちらでも、シイコに似てくれたら嬉しいよ」
と私が答えると、彼女は少し恥ずかしそうに目を伏せ、「あなたに似て、優しい子になってほしいわ」と笑ってくれました。
彼女の声は、私がこの世界で知る、どの音よりも温かく、美しいのです。
彼女がどれほどご自身の過去を呪い、自分には命を創る資格がないと苦しんできたかを知っているからこそ、自らの胎内に宿る命に語りかけるその声の響きが、奇跡のように尊く感じられるのです。
もうすぐ、私たちの家族が増えます。
彼女の心の底に残っていた最後の氷は、生まれてくるこの子自身の持つ光によって、今、完全に融け去ろうとしています。
宇宙世紀〇〇八五年、二月。
出産予定日が近づくにつれ、夫の実家である義父母が、産後の手伝いや身の回りの世話をするために、頻繁に新居を訪れるようになっていた。
シイコにとって、「義理の家族」という存在は、結婚当初、極めて処理の難しい対象であった。
彼らは軍の指揮系統には存在しない不規則な他者であり、嫁としていかに振る舞うべきかという手順を構築する際、彼女の思考回路はしばしば破綻をきたしていたからである。
とりわけ義母は、新婚当初のシイコの、機械のようで感情の欠落した姿に、言葉にはできない戸惑いと不気味さを抱いていた。
だが、季節が巡り、再び冬を迎えた今。
義母がシイコに向ける眼差しは、かつての警戒と不安から、深い慈愛と安堵へと完全に変容していたのである。
『
『記録日時:UC〇〇八五年 二月中旬』
前略、寒さもひとしお厳しい折ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
先日も、息子の家へおかずの作り置きを届けに行ってまいりました。
いよいよ来月には初孫の顔が見られると思うと、私も夫も今から落ち着かない日々を過ごしております。
……実は、私が一番安心し、そして嬉しく思っているのは、シイコさんの変化なのです。
嫁いできたばかりの頃のシイコさんは、なんと言いますか、まるで感情を持たない精巧なお人形のようで、少し不気味に感じてしまうほどでした。
お料理も家事も完璧にこなされるのですが、声を出して笑うこともなく、ただ淡々と、どこか遠くの虚空を見つめているような……ガラス細工のように危うく冷たい面影があったのです。
息子から「彼女は戦争で深い傷を負っているから、ゆっくり待ってやってほしい」と言われてはいたものの、この二人が本当に温かい家庭を築けるのか、親としては不安でなりませんでした。
ですが、お腹に新しい命を宿してからのシイコさんは、本当に、すっかり丸く、優しくなられました。
私が玄関を開けると、「お義母さん、いつもすみません」と、ふわりと花が咲くような笑顔で迎えてくれます。
台所で二人並んで野菜を切っている時も、彼女の方から「赤ちゃんが動くと、なんだかお腹の中からくすぐられているみたいで、つい笑ってしまうんです」と、嬉しそうに話しかけてくれるようになりました。
ソファに座り、大きなお腹を両手で愛おしそうに撫でる彼女の姿は、どこからどう見ても、これから母親になろうとする一人の立派な女性の姿です。
あの頃の、氷のように冷たくて触れがたかった彼女の影は、もうどこにもありません。
先日、彼女が私の手を取って、「私、お義母さんたちの本当の家族になれるでしょうか」と涙ぐんで聞いてきたことがありました。
私は思わず彼女を抱きしめて、
「馬鹿なことを言わないの。
あなたはもう、私たちの大切な、本当の娘よ」
と言って、二人で泣いてしまいました。
私はようやく、本当の娘ができたのだと実感しています。
あの子が過去にどんな辛い思いをしてきたとしても、これからは私たちが、息子と一緒にあの子を温かく守ってやろうと、心からそう思えるのです。
春が来て、無事に元気な赤ちゃんが産まれることを、ただただ祈るばかりです。
血塗られた魔女は、もはや忌むべき異物でも、処理の難しい不具合でもなかった。
彼女は、義母の確かな「人間の体温」と受容によって、家族という名の最も強固な生者の共同体へと、完全に根を下ろしつつあった。
宇宙世紀〇〇八五年、三月半ば。
運命の月が訪れた。
冬の寒さがようやく緩み、街の街路樹が微かな春の芽吹きを見せ始めた頃、シイコは産院の分娩室で、かつて経験したことのない種類の「痛み」と闘っていた。
(……痛い。息が、できない)
陣痛の波が押し寄せるたび、彼女の身体は内側から引き裂かれるような激痛に見舞われた。
かつて戦場において、操縦席の中で強烈な重力に押し潰されそうになった時や、機体が被弾して装甲の破片が身体を掠めた時にも、痛みはあった。
しかし、それは「自らの身体機能が損なわれる」という警告信号であり、冷徹な論理で抑え込むことができたのである。
だが、この痛みは違った。
自分自身の命を削り、別の新しい命を世界へと押し出そうとする、根源的で圧倒的な「生」のエネルギーの奔流であった。
「シイコさん、頑張って! 僕がついてる、息を吐いて!」
分娩台の傍らで、防護服を身につけた夫が手をきつく握り締め、必死に励ましている。
シイコは、汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔で、夫の手を骨が軋むほどの力で握り返した。
痛みの極限のただなかで、彼女の脳裏に、ほんの一瞬だけ過去の幻影がよぎった。
暗闇の宇宙。
十字の鋼線。
爆散する敵機。
『お前のような人殺しに、命を産み出す資格があるのか』
過去の死者たちの呪詛が、耳元で囁くような気がした。
血に塗れた自分の手が、生まれてくる無垢な命を汚してしまうのではないかという、かつて過呼吸にまで追い込んだあの恐ろしい強迫観念である。
だが、次の瞬間、その幻影を自らの意志で完全に断ち切った。
(……違う。
私はもう、命を奪うための機械じゃない。
私は、この子のお母さんになるの!)
「あァァァァッ!!」
シイコは、残されたすべての生命力を振り絞り、渾身の力を込めて新しい命を暗闇から光の射す場所へと押し出した。
直後。
分娩室の空気を切り裂くように、甲高く、力強い産声が響き渡った。
「オギャア! オギャア!」
「産まれましたよ! 元気な男の子です!」
助産師の明るい声が聞こえ、シイコは荒い呼吸を繰り返しながら、天井の眩しい照明を見つめた。
視界が涙で滲む中、温かいお湯で血を拭われた小さな赤ん坊が、ゆっくりと彼女の胸の上へと乗せられた。
その瞬間。
シイコの細胞の隅々にまで、言葉にならない衝撃と、絶対的な「熱」が走った。
重い。
そして、熱い。
小さな心臓が、トクトクと、信じられないほどの速さと力強さで彼女の胸を打っている。
これまでに触れてきたどんなものとも違っていた。
敵機の金属的な冷たさでもなく、血の生臭さでもない。
純粋な、ただただ愛おしい、命そのものの重さと温もりであった。
「……あたたかい」
シイコは、震える両手で、胸の上の小さな命をそっと、壊れないように抱きしめた。
百を超える棺桶を作ってきた血塗られた手が、今、新しい命の温もりに包まれている。
ずっと縛り続けていた「自分には命を創る資格がない」という強迫観念と過去の呪縛が、赤ん坊の体温によって音を立てて崩れ去り、宇宙の彼方へと完全に消え去っていくのを感じた。
「この子は……こんなにあたたかいのね……!」
シイコは、赤ん坊の小さな頭に頬をすり寄せ、子供のように声を上げて泣いた。
自己嫌悪の涙でも、恐怖の涙でもない。
自らが完全に「生者の側」へと還ってきたことを祝福する、魂の底からの歓喜の涙であった。
『産院での言葉(夫の手記より抜粋)』
『記録日時:UC〇〇八五年 三月某日』
彼女は、胸の上に置かれた赤ん坊を抱きしめ、子供のように声を上げて泣きました。
「あたたかい……この子は、こんなにあたたかいのね」と。
その言葉を聞いた瞬間、私の目からも堪えきれない涙が溢れ出しました。
一根戦争の泥沼から、彼女はどれほどの死の冷たさの中を一人で歩き続けてきたのでしょうか。
誰も信じられず、自分自身すらも憎み、機械のように振る舞うことでしか生き延びられなかった一人の少女が、今、母親として、新しい命の温もりに触れて泣いているのです。
その涙は、彼女がこれまで背負ってきた宇宙世紀のすべての罪と痛みを洗い流し、彼女を本当の意味で「人間」へと生まれ変わらせる、奇跡の滴でした。
私は、声を上げて泣き続ける彼女の頬の涙を指でそっと拭い、彼女と、彼女の胸で泣いている小さな赤ん坊を、両腕で力強く抱きしめました。
心の中で、深く、絶対に破ることのない誓いを立てました。
私の命に代えても、この二人を……私の世界のすべてであるこの温かな命たちを、必ず守り抜いてみせると。
宇宙世紀〇〇八五年、三月。
雪解けと共に、長男が誕生しました。
私たちの家に、そしてシイコの魂に、本当の春が訪れた日でした。