機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】   作:王子の犬

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《52》母としての平穏と宇宙への帰還決意(4月〜6月)

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八五年、四月。

 

 退院して自宅に戻ったシイコの前に立ち塞がったのは、彼女がこれまでの生涯において一度も経験したことのない、全く未知の「極限状態」であった。

 深夜二時。

 静まり返った寝室の空気を裂くように、ベビーベッドから激しい泣き声が上がった。

 シイコは、弾かれたように跳ね起きる。

 戦場で、敵機の接近を告げる警報にコンマ数秒で反応していた彼女の神経系は、今や赤ん坊の泣き声に対してのみ、最も鋭敏に反応するように組み替えられていた。

 しかし、戦場と育児との決定的な違いは、「最適な答えが用意されていない」という点にあった。

 

(……おむつの不快感か。空腹か。

 それとも、室温の異常か)

 

 シイコは、薄暗い豆電球の光を頼りに、泣き叫ぶ長男をそっと抱き上げる。

 これが敵の機体であれば、様子や推進器の光から次の動作を完璧に予測し、物理的に制圧することができた。

 だが、腕の中で手足をばたつかせて泣き叫ぶこの小さな命は、自らの要求を言葉にすることも、論理的な数値として出力することもしない。

 戦場と育児の決定的な違い——それは、「最適な答えが用意されていない」という残酷な事実であった。

 それゆえ、彼女の思考回路は、赤ん坊の不規則な泣き声の前には全く役に立たず、しばしば凍りついたように止まってしまうのだった。

 

「よしよし、大丈夫よ。

 お腹が空いたのね」

 

 シイコは、自分でも驚くほど甘く、震える声で語りかけながら、急いで台所へ向かう。

 哺乳瓶に粉ミルクを入れ、適温の湯を注ぐ。

 操縦桿をミリ単位で操作し、巨大な機体の死角を無音で跳躍していた彼女の手が、今は哺乳瓶の目盛りを合わせることにひどく悪戦苦闘している。

 流水で瓶を冷やし、乳の温度を確かめるために、手首の内側に数滴を落とす。

 

(……熱すぎない。冷たすぎない。

 ……人肌の、温度)

 

 喉を火傷させないよう、ただひたすらに「人肌の温もり」を正確に測り取ろうと、全神経を集中させた。

 彼女の額には、戦場での冷や汗とは異なる、焦りと疲労が入り混じった汗がじわりと滲んでいた。

 

青年()の日記』

『記録日時:UC〇〇八五年 四月某日』

 

 退院してからの数週間、私たちの家はまるで野戦病院のような慌ただしさです。

 夜泣きが酷く、彼女は目の下にうっすらと暗い隈を作っています。

 私が代わろうとしても、「あなたは明日もお仕事があるのだから、休んでいて」と、彼女は頑なに首を縦に振りません。

 昨夜、ふと目を覚まして台所を覗くと、彼女が一人でミルクを作っていました。

 私は、その背中を見て、胸が締め付けられるような、そして泣きたくなるほど愛おしい気持ちになりました。

 泣き叫ぶ息子を抱きしめながら、「ごめんね、待たせちゃってごめんね」と何度も謝りながらミルクを含ませる彼女の姿は、ひどくいじらしいものでした。

 不器用で、一生懸命な私の妻。

 彼女は、立派な母親です。

 過去の亡霊たちに怯え、自分には命を創る資格がないと泣き崩れていたあの日の彼女に、今のこの美しい姿を見せてやりたいと、心からそう思いました。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八五年、五月。

 

 季節は春から初夏へと移り変わり、地方都市は眩しい新緑と暖かな陽射しに包まれていた。

 シイコは、気候が良くなったのを機に、長男を乳母車(ベビーカー)に乗せて近所の大きな公園へ散歩に出かけることを日課とするようになっていた。

 公園の芝生広場には、同じように小さな子供を連れた母親たちの姿が多く見受けられた。

 かつての彼女にとって、「ご近所付き合い」や「母親同士の交流」というものは、最も難解な手順に感じられたものであったはずだ。

 しかし、自らを縛っていた虚無の氷を融かし去ったことで、驚くほど自然に、「生者の共同体」の中へと溶け込んでいった。

 

「あら、スガイさん。

 今日もいいお天気ねえ」

「ええ、本当に。

 日差しが暖かくて、この子も気持ちよさそうにしています」

 

 ベンチの隣に座った年上の主婦に声をかけられ、シイコは柔らかな笑顔で応える。

 彼女の視線は、乳母車の中で健やかに眠る息子の、小さな手に向けられていた。

 目の前の小さな命を慈しみ、守り抜こうとする、一人の母親としての純粋な光だけがあった。

 息子が少しでも身じろぎをすれば、すぐに日除けの角度を調整し、上掛けを掛け直す。

 無駄のない、しかし愛情に満ちた所作は、周囲の母親たちの目にも、とても美しく、微笑ましいものとして映っていた。

 

『近所の主婦から、夫への立ち話』

『記録日時:UC〇〇八五年 五月下旬・夕刻』

 

「あ、ご主人。

 お帰りなさい、お仕事お疲れ様です」

「そうそう、今日もスガイさんの奥さん、公園にいらしてましたよ。

 最近、毎日お見かけするから、私たちともすっかり顔なじみになってね」

「スガイさんの奥さん、いつも公園で優しく笑ってらして、本当に素敵なお母様ね」

「引っ越して来られたばかりの頃は、なんだかとても物静かで、話しかけづらい雰囲気の時もあったでしょう?

 でも、赤ちゃんが産まれてからは、すっかり変わられたわ」

「眠っている赤ちゃんを見る目が、本当に慈愛に満ちていてね。

 時々、愛おしそうにほっぺたを指でツンツンと突っついては、ご自分でもふふって笑ってらして。

 あの優しいお顔を見ていると、なんだかこちらまで幸せな気分になるのよ」

「『うちの子、夜泣きが酷くて、主人に迷惑ばかりかけているんです』なんてご謙遜されていたけれど、ご主人、奥様のこと、本当に大事にしてあげてね。

 あんなに綺麗で、一生懸命なお母さん、なかなかいないわよ」

 

 近所の主婦の屈託のない言葉に、帰宅途中の青年は、何度も深く頭を下げて礼を言った。

 軍産複合企業(アナハイム・エレクトロニクス社)、そしてティターンズに、感情を持たない狂犬として飼い殺されるはずだった魔女。

 権力闘争の損切りによって社会へと放逐された魔女は、一人の青年の愛によって、ごくありふれた、平凡で幸せな主婦へと生まれ変わっていた。

 彼女のささやかな日常は今、完璧な平和という名の防衛線によって、固く守られている。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八五年、六月。

 

 しかし、宇宙世紀の歴史は、シイコを永遠に重力の下の平穏に留め置くことは許さなかった。

 梅雨の湿気が街を覆い始めた頃。

 夫の勤める役所を通じて、ある辞令が下された。

 四カ月の間、地球連邦政府およびサイド6の関連事業の視察と業務支援のため、宇宙のコロニー群への短期赴任が命じられたのである。

 その夜。

 息子がベビーベッドで寝静まった後、夫は、食卓で麦茶を飲んでいるシイコに、重い口を開いた。

 

「シイコ……実は今日、仕事で、宇宙へ赴任するよう辞令が出たんだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、シイコの麦茶の杯を持つ手が、ピタリと止まった。

 

宇宙(そら)……」

 

 シイコは、その単語を、口の中で確かめるように静かに呟いた。

 夫は、彼女のわずかな反応を見逃さなかった。

 一年戦争とデラーズ紛争において、シイコが宇宙という場所でどれほどの地獄を見てきたかを知っている。

 暗黒の真空。

 飛び交うメガ粒子砲の閃光。

 血と金属の焦げる匂い。

 あの空間は、彼女にとって「死」と「狂気」の同義語であり、決して癒えることのない深い傷の温床であるはずだ。

 

「だから、今回は僕一人で、単身赴任で行こうと思っている」

 

 夫は、彼女の不安を取り除くように、急いで言葉を継いだ。

 

「四ヶ月間だし、君と息子を置いていくのは寂しいけれど……君を、あの宇宙へ連れて行くわけにはいかない。君には、ここで安心して待っていてほしいんだ」

 ようやく手に入れたこの地球での穏やかな日々を、冷たい暗黒によって再び壊させはしない。

 そんな夫の切実な庇護の願いを真っ直ぐに受け止めながら——シイコは杯を卓に置き、彼の目を見つめ返した。

 かつて彼を拒絶しようとした虚無は存在しなかった。

 瞳の奥にあるのは、確固たる意志と、彼に対する深く静かな信頼の光であった。

 シイコは、小さく、悪戯っぽく笑みを浮かべた。

 

「……私は一人でお留守番? それは駄目よ」

 

 夫は驚いて目を丸くした。

 

「シイコ、でも……宇宙だよ?

 君にとって、あの場所は……」

 

 シイコは立ち上がり、夫の隣に歩み寄ると、その大きな手を両手でしっかりと包み込んだ。

 それはかつて、彼が震える彼女の冷たい手を包み込んでくれた時と同じ、温かさに満ちた仕草だった。

 

「もう、宇宙は怖くないわ」

 

 シイコは、夫の目を見つめ返し、はっきりと告げた。

 

「あなたが、隣にいてくれるのだから」

 

 

 

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