機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】   作:王子の犬

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《53》宇宙への旅立ちと運命の出会い(7月〜9月)【アマテ・ユズリハ】

 

 

 

 夏の陽射しが、地方都市の木々の緑を色濃く染め上げていた。

 シイコの宇宙への同行が決まり、夫婦は渡航に向けた準備に追われていた。

 しかし、彼らの前には乗り越えねばならない一つの大きな壁があった。

 生後数ヶ月の長男である。

 大気圏離脱時の強烈な重力加速度や、慣れない無重力環境、そしてコロニーの人工的な空気は、まだ首のすわったばかりの赤ん坊にとってあまりにも過酷な負担となる。

 夫婦は苦渋の決断の末、4カ月間の赴任の間、息子を夫の実家である義父母の元へ預けることを決めたのである。

 かつて、シイコにとって「分離」や「喪失」という事象は、何ら心を動かすものではなかった。

 部隊の再編や味方の死も、すべてはシステム上のデータの書き換えに過ぎなかったからだ。

 だが、今の彼女にとって、自らの身体から生み出したこの温かな命と引き離されることは、文字通り身を裂かれるような痛みを伴うものであった。

 出発の数日前から、シイコは少しでも長く息子の匂いを自分の中に留めようとするかのように、片時も赤ん坊を離そうとしなかった。

 授乳を終えても、おむつを替えても、彼女は息子を胸に抱きしめ、その柔らかな髪に何度も頬ずりをした。

 

義母(夫の母)の日記』

『記録日時:UC〇〇八五年 七月下旬』

 

 シイコさんたちが出発する前日の夕方、私たちは二人を実家に迎え入れました。

 ベビーベッドの横で、シイコさんはずっと孫の小さな手を握りしめていらっしゃいました。

 荷造りもほとんど終わっているというのに、彼女はただ黙って、眠っている孫の顔を飽かず見つめていたのです。

 私は、声をかけるのを躊躇(ためら)ってしまいました。

 あの、嫁いできた頃の氷のように冷たくて、感情というものをいっさい持っていなかった彼女が、今はこんなにも切なく、愛おしげな顔で一つの命を見つめているのですから。

 

「ごめんね……少しの間だけ、お留守番していてね。

 すぐに、すぐに帰ってくるからね」

 

 孫の耳元で小さな声で囁くのを聞いて、私は胸が締め付けられるような思いがいたしました。

 何度も何度も孫の頭の匂いを嗅ぎ、その温もりを身体に刻み込もうとしているようでした。

 いよいよ玄関で別れを告げる時のこと。

 シイコさんは、私に深く頭を下げて「この子を、どうかよろしくお願いします」と。

 こぼれ落ちそうな涙が瞳一杯に溜まっていたのです。

 夫である息子に肩を抱かれてドアを出て行く時、彼女は何度も何度も振り返り、泣きそうな顔で孫の姿を探していました。

 その後ろ髪を引かれるような、小さく震える背中を見て、私は確信しました。

 自らの痛みを押し殺してでも、一つの命を愛し抜く、強くて優しい、立派な母親なのだと。

 私は、玄関のドアが閉まった後、静かに祈りました。

 あの二人が、無事に宇宙から帰ってきて、再びこの子をその腕に抱ける日が一日も早く訪れることを。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八五年、八月。

 

 息を呑むような轟音と共に、地球連邦軍の連絡船が大気圏を突き抜け、宇宙空間へと飛び出した。

 青く輝く地球の輪郭が眼下に広がり、そして周囲を圧倒的な暗黒の真空が包み込む。

 シイコにとって、この「宇宙(そら)」こそが、かつて自らの精神を殺戮機械へと最適化し、無数の命を十字の鋼線で処理し続けた巨大な死の舞台であった。

 船の推進力が絞られ、船内が完全な無重力状態へと移行した瞬間。

 シイコの身体が、安全帯に固定されたまま、微かに、しかし確かにこわばった。

 

(……匂い)

 

 人工的に循環される乾燥した空気。

 微かな機械油とオゾンの匂い。

 それらは、かつて彼女が乗っていた漆黒の特務機体「ウィッチズ・ブルーム」の操縦席に漂っていた匂いと、寸分違わず重なり合っていたのである。

 彼女の脳内に、封印されていたはずの分厚い防護壁を突き破り、鮮烈な記憶のノイズが逆流を開始する。

 暗礁宙域の暗い残骸の帯。

 音もなく推進器を切り、鋼線の張力だけで死角を跳躍する自機の感覚。

 照準器の奥で恐怖に顔を歪める敵兵の映像。

 

『来るな! 俺を盾にするなァァッ!』

 

 高圧電流が機体を焼き切る閃光。

 命が「無」へと還元された瞬間の、あの完璧な静寂。

 シイコの瞳孔が開き、その黒い瞳の奥に、絶対零度の虚無の底を覗き込むような、かつての魔女の冷酷な眼差しが一瞬だけ蘇った。

 彼女の手が、無意識のうちに座席の肘掛けを握りしめる。

 それは、操縦桿を握り、次なる標的の操縦席を正確に撃ち抜くための、狂気じみた精度を持つ手の形であった。

 

「シイコ」

 

 その時である。

 隣の席から伸びてきた大きく温かい手が、彼女のその白く強張った手を、そっと、しかし力強く包み込んだ。

 

「大丈夫だよ。僕がここにいる」

 

 夫の穏やかで静かな声が、彼女の耳に届いた。

 その声と、彼の手のひらから伝わる確かな人間の体温が、シイコを過去の暗黒の宙域から、現在の客室へと一瞬にして引き戻した。

 彼女は、ハッと息を呑み、瞬きを数回繰り返した。

 

「……あなた」

 

 シイコは、自分を包み込んでくれる夫の手を見つめ、やがてゆっくりとその指を握り返した。

 彼女の瞳から、刃物のような冷たい光がスッと消え去り、そこには再び、地球で息子を愛おしそうに見つめていた、優しく穏やかな妻の顔が戻っていた。

 

「ごめんなさい。

 少し……思い出しただけよ」

 

 シイコは、小さく微笑んで言った。

 

「でも、もう大丈夫。

 あなたが隣にいてくれるもの」

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八五年、九月。

 

 連絡船は無事に目的のスペースコロニー『イズマ・コロニー』へと到着した。

 シイコと夫は、用意された官舎へと入り、短期赴任生活をスタートさせた。

 コロニーの人工的な空と、円筒形の壁面に広がる街の風景。

 それは地球とは異なる閉鎖空間ではあったが、シイコにとっては、もはや戦場ではなく、夫と共に過ごす平穏な日常の延長線上でしかなかった。

 赴任から数週間が経過したある週末。

 スガイ夫婦は、コロニー内の高級な料理店で開かれた、ささやかな食事会に招かれていた。

 相手は、夫の業務上の繋がりで知り合った、地サイド6会計監査局の官僚であるタマキ・ユズリハとその家族であった。

 個室に案内されたシイコは、タマキと挨拶を交わした。

 タマキ・ユズリハは、仕立ての良い衣服を着こなした、知的で隙のない大人の女性であった。

 予算の監査を担当する彼女の目は、常に物事の本質と人間の価値を冷徹に見定める厳しさを持っていた。

 だが、そのタマキの目が、シイコを一目見た瞬間、わずかに驚きに見開かれたのである。

 

『タマキ・ユズリハの手記(私用端末)』

『記録日時:UC〇〇八五年 九月下旬』

 

『赴任先で業務をご一緒しているスガイ君。

 彼が妻を同伴していると聞き、週末の食事会に招待しました。

 今日、初めてお会いしたその奥様……シイコさんは、本当に穏やかで物静かな、品の良い方でした。

 ですが、私が驚いたのは、彼女の所作の美しさです。

 グラスを手に取る動作。

 椅子に座る姿勢。

 ナイフとフォークを扱う手つき。

 その一つ一つに、全く無駄がありません。

 極限まで洗練され、不必要な力みがいっさい削ぎ落とされているのです。

 単なる作法教室で習い覚えたような付け焼き刃のものではありません。

 もっと根本的な、肉体の重心移動から最適化されたような、凛とした美しさなのです。

 それでいて、決して出しゃばらず、夫であるスガイ君を静かに立てる控えめな態度も非常に好ましいものでした。

 地方公務員である彼が、どこでこれほど完成された伴侶を得たのでしょうか。

 素晴らしい伴侶を得たスガイ君が、少し羨ましいくらいです。』

 

 タマキが無意識のうちに見出した、極限の機体制御技術の残滓——。

 その同じテーブルには、もう一人、退屈そうにジュースのストローを弄っている少女がいた。

 タマキの娘、()()()()()()()()である。

 年齢は十七歳。

 コロニー内の学校に通う彼女は、母親の厳格な教育や、コロニー特有の息苦しい規則(ルール)という名の重力に、強い反発と退屈を感じている年頃であった。

 

「初めまして、アマテさん。

 シイコです」

 

 シイコが穏やかに微笑みかけると、アマテは気だるげに顔を上げ、「あ、どうも」とぶっきらぼうに答えた。

 だが、アマテの視線がシイコの瞳と交差した瞬間、彼女の手はピタリと止まった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 その鋭敏な感覚が、目の前で優しく微笑む小柄な女性の「奥底」にあるものへ、強烈に反応したのだ。

 

(……なんだ、この人)

 

 アマテは、内心でひどく混乱していた。

 目の前で上品に笑っているこの奥さんは、母親のタマキが好むような「完璧に調教された大人」に見える。

 だが、アマテの直感は、彼女の表面を覆う穏やかな空気の下に、恐ろしいほどの静寂と虚無の空間が広がっているのを嗅ぎ取っていた。

 

(この人、お母さんみたいな重力に縛られたつまんない大人じゃない。

 ……もっと巨大で冷たい、()()()()()()()()

 

 アマテは、まるで危険な猛獣の檻を覗き込んでしまったような戦慄と、同時に、自分と同じように世界を斜めに見ている同類を見つけたような、奇妙な高揚感を覚えていた。

 食事会が終わり、別れの挨拶を交わす際のことである。

 アマテは、シイコに向かって、それまでの退屈そうな態度とは打って変わった、どこか挑戦的で、それでいて興味に満ちた笑みを浮かべて言った。

 

「ねえ、シイコおば……お姉さん。

 コロニーにいる間、また会える?」

 

 シイコは、少し驚いたように瞬きをしたものの、すぐに優しく微笑み返した。

 

「ええ、もちろん。

 お時間が合えば、ぜひ」

 

 のちに宇宙世紀の裏面をかき回すことになるアマテ・ユズリハ。

 そして、かつて「喪服の魔女」として地獄を生き抜き、今は生者の世界へと帰還したシイコ・スガイ。

 二人の魔女の、運命的で静かな邂逅の瞬間であった。

 この出会いが、やがて宇宙世紀の歴史にどのような波紋を投げかけるのか、この時の彼女たちには、まだ知る由もなかった。

 

 

 

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