機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
宇宙世紀〇〇八五年、一〇月。
秋の気配が色濃くなり始めたコロニーの港湾区画である。
民間用の小型作業機が並ぶ貸出区画の片隅。
シイコは、操縦席に乗り込んだ十七歳の少女、アマテ・ユズリハの横に立ち、その手元を静かに見つめていた。
アマテは、コロニー特有の息苦しい日常を持て余し、何か「外の世界」へと繋がる刺激を渇望している年頃であった。
彼女のその無邪気で危うい好奇心の矛先が、たまたま港湾作業用の小型機へと向いたのは、必然だったのかもしれない。
「違うわ、アマテちゃん。
操縦桿を握り込まないで。
手首の力を抜いて、指の腹で添えるだけよ」
シイコは、柔らかな声で注意を促し、アマテの手にそっと自分の手を重ねた。
「機体の重心は、足元じゃない。
あなたの腰と、座席が接している部分にあるの。
推進器を吹かす時は、頭で計算するよりも先に、腰の重心がどう動くかを『感じる』のよ」
シイコが教えているのは、機体操縦の最も根本的であり、かつ最も奥深い「基礎」だ。
操縦桿の握り方、重心の移動、推進器の繊細な出力調整。
これらはかつて、シイコ自身が一年戦争の泥沼や暗礁宙域の暗黒の中で、コンマ数秒の遅れが自らの死に直結する極限状態において、生き残るためだけに骨身に刻み込んだ「生存の技術」そのものであった。
敵の死角へと音もなく滑り込み、十字の鋼線を正確に打ち込むための、血の滲むような反復練習と実践によってのみ培われた、殺戮のための極限の制御である。
(不思議ね……)
シイコは、目を輝かせながら小型機の操縦桿を操作するアマテを見つめながら、内心で微かな感慨を覚えていた。
かつては他者の命を「無」へと還元するためだけに使われていた彼女の技術が、今は、一人の少女の無垢な好奇心を満たし、その可能性の翼を広げるために使われている。
自分が教える通りに機体が滞りなく動いた瞬間、アマテは「すごい! 動いた!」と歓声を上げ、満面の笑みでシイコを振り返る。
その屈託のない笑顔を見ていると、シイコは、自らの心の中に、長らく忘れ去られていた「ある感覚」が蘇ってくるのを感じた。
「そう、その調子。
次はもう少しだけ出力を上げてみましょうか。
怖がらなくていいわ、私がついているから」
シイコは、自然と相好を崩し、アマテの頭を優しく撫でた。
それは、血塗られた魔女としての地獄を経験する前の、宇宙世紀〇〇七八年当時の彼女……面倒見が良く、誰に対しても明るく優しかった「本来のシイコ・スガイ」の姿が、奇跡的に表面へと浮上してきた瞬間であった。
戦争という巨大な機構によって破壊され、虚無の氷に閉ざされていた彼女の人間性は、夫の無償の愛と我が子の温もりによって再生し、そして今、この少女との触れ合いを通じて、かつての本来の輝きすらも取り戻しつつあったのである。
『アマテ・ユズリハ(十七歳)の通信記録』
『記録日時:宇宙世紀〇〇八五年 一〇月某日』
『今日はシイコおばちゃん(お姉さんって呼ばないと怒られる笑)に、小型機の乗り方を教えてもらった!
おばちゃん、すっごく教えるのが上手くて、まるで魔法使いみたい!
学校の授業や模擬訓練なんかより、全然分かりやすいの。
操縦桿の握り方とか、重心の移動の仕方とか、おばちゃんの言う通りにすると、重たくて鈍い機体が、まるで自分の手足みたいにスイスイ動くんだよ!
私が失敗して機体をガクンって揺らしちゃっても、おばちゃんは全然怒らなくて、「最初は誰だってそうよ」って優しく笑って褒めてくれる。
お母さんみたいに「ああしなさい、こうしなさい」ってうるさく言わないし、私のやりたいようにやらせてくれる。
おばちゃんが操縦桿を少し触っただけで、機体がピタッと止まるの、本当にかっこよかったなあ。
私、あんな素敵でかっこいい大人になりたいな。
次も絶対に教えてもらおーっと!』
アマテにとって、シイコの教える技術は、退屈な日常という重力から自分を解き放ってくれる「魔法」のように感じられていた。
しかし、その魔法の正体が、数え切れないほどの命をすり潰してきた「魔女の呪い」の裏返しであることを、この時の少女は知る由もない。
純粋な「生きるための技術」が、やがて
宇宙世紀〇〇八五年、十一月。
コロニーでの短期赴任も終盤に差し掛かった月。
シイコは、タマキ・ユズリハとの間に、年齢や立場の違いを超えた奇妙な友情を育んでいた。
タマキの洗練された大人の知性と、シイコの静かで凛とした佇まいは、互いにとって心地よい距離感を保っていたのである。
ある日の午後。
二人はコロニー内の見晴らしの良い喫茶店で、茶の時間を楽しんでいた。
窓の外には、遠くの円筒形の壁面に広がる人工の街並みと、空を横切る運河の煌めきが見える。
話題が、アマテへの操縦指南に及んだ時のことであった。
「シイコさんには、本当に感謝しているわ」
タマキは、香り高い紅茶の杯を置き、上品に微笑んだ。
「あの子、昔から何をやっても長続きしなかったのに、あなたが機体を教え始めてからは、別人のように目を輝かせているの。
それにしても……あなたのあの教え方の的確さ、ただの素人とは思えないのだけれど。
どこかで本格的な訓練でも受けたの?」
タマキの何気ない問いかけ。
かつてのシイコであれば、この質問に対して致命的な不具合を引き起こし、沈黙するか、あるいは不自然に話題を逸らしていたかもしれない。
自らの血塗られた過去を直視することは、彼女の精神を崩壊させかねない危険な行為であったからだ。
だが、生者の世界へと完全に帰還を果たした今の彼女は、全く異なる手順でこの状況を処理した。
「ええ……実は、昔、少しだけ軍にいたことがあるんです」
シイコは、杯の縁を指でなぞりながら、少しだけはにかむように笑った。
「大学の授業料を免除してもらうために、腰掛けのつもりで入隊したんですよ。
軍の基礎訓練って、結構厳しくて……その時に教わったことが、今でも身体に残っているみたいですね」
その言葉は、宇宙世紀〇〇七八年に彼女が連邦軍に志願入隊した当時の、いっさいの虚飾を持たない「
彼女は、タマキに対して一語も嘘をつかなかった。
その言葉は、不自然な揺らぎも罪悪感の欠片も残さず、純粋な響きを持っていた。
彼女が語らなかったのは、ただ「その後」のことだけであった。
恋人であった少尉の死。
連邦の粗悪な装甲への信頼の崩壊。
生存確率を極限まで高めるための、機体の黒い塗装と十字の鋼線。
そして、通信機越しに古い詩を無機質に朗読しながら、百以上の棺桶を作ってきた、あの地獄のような四年間。
シイコは、それらの血塗られた歴史を「語る必要のない余分な情報」として完全に切り捨てた。
真実だけを入口として使い、そこで話をピタリと止めたのである。
計算された嘘よりもはるかに精巧で、そして極めて無感動な「完璧な偽装」であった。
『タマキ・ユズリハの私的覚え書き』
『記録日時:宇宙世紀〇〇八五年 十一月下旬』
『シイコさんとの茶会。
彼女の過去について。
元軍人だったとのこと。
学費免除のための腰掛け入隊だと笑っていたが……なるほど、腑に落ちた。
あの無駄のない所作、アマテへの的確すぎる操縦指南。
私が感じていた「極限」の正体。
彼女のあの生真面目さが、軍の無機質な基礎訓練を異常なレベルで身体化させてしまった結果ね。
それならば筋が通る。
あの華奢な彼女が、軍という組織でどれほど苦労したことか。
語る言葉に、いっさいの淀みも矛盾もなかった。
監査局に身を置くこの私が、何の疑念も抱かなかったのだから間違いない。
早々に退役し、スガイ君という伴侶を得て正解だったのだろう。
彼女の今の平穏が、少しでも長く続くといいな……。』
連邦軍監査局の官僚という、人を見る目に長けたはずのタマキでさえ、シイコの無感動な偽装を完全な真実として信じ込み、微笑ましい解釈を与えていた。
「喪服の魔女」の過去は、こうして誰にも暴かれることなく、完璧に封印されたかに見えた。
宇宙世紀〇〇八五年、一二月。
四ヶ月間のコロニー赴任を終え、夫婦は地球へと帰還した。
実家に預けていた愛息との再会は、涙と笑顔に溢れた感動的なものであった。
シイコは、少し見ない間にずいぶんと重くなった息子を抱きしめ、柔らかな頬に自分の頬をすり寄せる。
宇宙での日々は、彼女が過去の心の傷を完全に克服し、愛する家族と共に「日常」を生きていくことができるという、絶対的な確信を与えてくれたのだ。
そして、大晦日。
地方都市の夜は、昨年と同じように、静かで深い雪に覆われていた。
暖炉の火がパチパチと爆ぜる居間。
ベビーベッドでは息子が安らかな寝息を立て、シイコと夫はソファに身を寄せ合って、穏やかな年の瀬の時間を過ごしていた。
部屋の隅にあるテレビからは、年末の報道特別番組が流れている。
話題は、地球圏の治安維持を名目として、日に日に権限を拡大しつつある特殊部隊「
『……それでは次に、ジャミトフ・ハイマン大将による、ティターンズの今後の活動方針に関する演説の模様をお送りします』
進行役の無機質な声に続き、画面が切り替わった。
画面に、冷徹な目をしたティターンズの創設者、ジャミトフ・ハイマンの顔が大写しになる。
彼は、地球至上主義の正当性を高らかに謳い上げ、宇宙に潜む不穏分子への徹底的な弾圧を宣言していた。
その瞬間だった。
夫の肩に頭を預けていたシイコが、わずかに、身体を固くした。
夫が不思議に思って彼女の顔を覗き込む。
シイコの視線は、テレビ画面のジャミトフ・ハイマンの顔に真っ直ぐに釘付けになっていた。
ほんの一瞬。
彼女の瞳の奥に、かつてア・バオア・クーの泥沼や暗礁宙域で、敵を屠る瞬間にだけ見せていた、感情のいっさい抜け落ちた暗い光が走った。
「シイコ……?」
夫が小さく声をかけると、彼女はハッと瞬きをし、すぐにいつもの優しい妻の顔に戻った。
「ううん、何でもないわ。
少し、冷えるわね」
彼女は微笑んで、夫の腕にすり寄った。
だが、夫の胸の奥には、得体の知れない冷たい滴がポツリと落ちたような、微かな不安が残った。
『
『記録日時:宇宙世紀〇〇八五年 一二月三一日』
『無事に地球へ帰還し、私たちは再び三人での温かな大晦日を迎えました。
私たちは完全に、幸せな家族になれたはずです。
過去の呪いも、宇宙の恐怖も、もう私たちのこの平穏な家には入り込む隙はないのです。
……ただ一つ。
テレビでティターンズの演説が流れた時。彼女の瞳がほんの一瞬だけ、鋭い刃物のように冷たく光った。
「何でもない」と彼女は笑ったが、あれは決して、ただ怯える者の目ではなかった。
もっと深く、冷徹に、何かを「見据える」ような……。
気のせいであってほしい。
行き過ぎた心配であってくれ。
来年も、再来年も、こうして三人で、暖かな暖炉の前で雪景色を見つめていたい。
ただ、それだけ……。』
夫の切実な祈りとは裏腹に、宇宙世紀の巨大な歯車は、再び不吉な音を立てて回り始めていた。
シイコの心の中で、完全に融け去ったはずの「魔女」の破片が、絶対的な「敵」の姿を認識したことによって、微かな胎動を始めていたのである。
彼女が守るべき家族という防衛線を脅かすもの。
「生者の側」へと還ってきた魔女が、愛するものを守るために再びどのような選択を下すのか。
不穏な余韻を雪の夜の静寂に残したまま、宇宙世紀〇〇八五年の物語は静かに幕を下ろした。
今回校正と推敲のやり方を変えました。
おかげで文章の野暮ったさが軽減されたかと思っています。
次回は、U.C.0085年のあの改札の話。
4話構成です。そこまでが第二部となります。