機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
《55》逃走と衝突 - サイド6の改札口(U.C.0085年 9月)
宇宙世紀〇〇八五年、九月。
あの一年戦争の終結から五年半という歳月が流れ、地球圏は表面上、復興と繁栄の恩恵に浴しているかのように見えた。
その薄皮を一枚剥がせば、どす黒い権力闘争と排他主義の膿が、至る所で静かに脈打っていたのである。
ジオン公国軍の残党狩りを大義名分として設立された地球連邦軍の特殊部隊、ティターンズの台頭は、宇宙に住む人々の間に、声なき恐怖と反発の種を植え付けつつあった。
中立を標榜するサイド6、「イズマ・コロニー」。
アジア系移民が多く、日本語や中国語、韓国語、ベトナム語といった看板が乱雑に入り混じる、ネオンの光に人工の夜を彩るこの市街地もまた、その例外ではなかった。
表通りには華やかな商業施設が立ち並んでいるが、一歩路地裏や地下鉄の連絡通路へと足を踏み入れれば、先の戦争で故郷を奪われた難民たちや、非合法な物資を売りさばく闇商人たちが息を潜めて生きている。
「……どうにも、きな臭い匂いが抜けねえな」
地下鉄の改札へと続く通路の壁際で、カイ・シデンは忌々しげに独り言を呟いた。
彼の細身を包んでいるのは、この薄暗い空間には場違いなほどに目立つ、白い背広であった。
かつて一年戦争を戦い抜いたホワイトベースの乗組員であり、連邦軍の優れたパイロットの一人でもあった彼は、軍を退いた後、ペンと矜持を武器とする報道記者へと転身を遂げていた。
彼が目立つ白い背広を好んで身に纏うのは、「いつ連邦の暗部に呼び出されてもいいように」という彼なりの皮肉である。
同時に、記者としての虚勢を孕んだ彼なりの武装でもあったのだ。
カイはカメラのレンズを拭きながら、行き交う人々の波をゆっくりと目で追った。
(ティターンズの連中が、この中立コロニーの港湾施設で妙な動きを見せているってタレコミがあったが……軍警の数もやけに多い。
単なる治安維持の巡回じゃねえ。
何か、あるいは『誰か』を血眼になって探す目だ)
長年培ってきた記者としての直感が、このコロニーの地下深くで何事かが蠢いていると、静かに警鐘を鳴らしていた。
カイはカメラを胸元に隠し、改札口へと歩みを進めた。
その時であった。
「――そこだ! 止まれ!!」
荒々しい怒声が、通路の空気を切り裂いて響き渡った。
カイが視線を向けた先、無数の人混みを縫うようにして、一直線にこちらへ向かって突進してくる一つの影があった。
黒い長髪を振り乱し、学生服のようなシャツに不釣り合いな配達用のリュックを背負った、スレンダーな体躯の少女である。
少女――ニャアンは、極度の焦燥感に急き立てられるようにして走っていた。
(どうして、どうしてこんな時に軍警に見つかるのよ……!)
心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、呼吸は浅く荒くなっている。
ニャアンは食品配達業者を装い、裏社会の元締めから請け負った非合法な品を運ぶ「運び屋」として、辛うじてその日暮らしの生計を立てていた。
故郷であるサイド2を先の戦争で失い、家族の生死すら分からぬまま、幼い頃に単身、小型作業機に身を潜めて宇宙へと逃げ出し、難民へと身をやつした彼女にとって、「生き抜くこと」は何の倫理や道徳にも優先する、絶対的な命題であった。
しかし、ニャアンの性格は決して冷酷に徹しきれる玄人のそれではない。
むしろ本質は驚くほど臆病であり、
(捕まったら難民の資格も剥奪されて、どこかの収容施設に放り込まれる。
逃げなきゃ。絶対に!)
「止まれと言っているのが聞こえんのか!」
背後から迫る二人の軍警の重い軍靴の音が、通路の硬い床を激しく叩いている。
彼女の身体能力は、過酷な難民生活を生き抜く過程で、獣のように研ぎ澄まされていた。
目の前を横切ろうとした清掃用の手押し車を、しなやかな跳躍で飛び越える。
コロニーの人工的な重力を正確に計算し、壁のわずかな突起を蹴って空中で軌道を変え、追っ手である軍警同士がぶつかり合うように誘導してのける。
その常軌を逸した身のこなしは、細身の軽さを存分に活かしきった、生存本能の結晶そのものであった。
(あそこだ、あそこの改札を抜ければ地下鉄の群衆に紛れられる……!)
ニャアンは、一直線に自動改札機へと向けて駆け出した。
だが、彼女の視野には、目前の「点」しか映っていなかった。
改札の向こう側から、白い背広を着たひょろ長い男が、折悪くその門を抜けようとしていたことに気づくのが、ほんのわずかに遅れたのである。
「――っと、おい!」
カイが驚いて身を引こうとしたが、すでに遅かった。
全速力で突っ込んできたニャアンの身体が、カイの胸元へまともに激突する。
「ぐふっ!」
「きゃっ!?」
鈍い衝突音と共に、二人の身体は改札の門にぶつかり、冷たい床へ転げ落ちた。
弾みで、カイの胸元のカメラが放り出され、硬いタイルに激突して砕け散る。
硝子のレンズがひび割れ、内部の精巧な基盤がむき出しになっていた。
「いっっっっつ……! な、何すんだこの野郎!」
カイは胸をさすりながら身を起こし、自分にぶつかってきた相手を鋭く睨みつけた。
ニャアンは床に倒れ込んだまま、額を押さえて呻いていたが、背後から「そっちへ行ったぞ!」という軍警の怒声が聞こえた瞬間、弾かれたように跳ね起きた。
彼女の黒い瞳が、足元で完全に鉄屑と化したカメラを冷ややかに一瞥する。
(ヤバい。弁償なんて無理。
逃げないと……!)
ニャアンは、カイに対して謝罪の言葉を一つも発することなく、身を翻して改札の奥へ走り去ろうとした。
「待ちやがれ!」
カイの長い腕が伸び、逃げようとしたニャアンの首根っこを、リュックの紐ごと強引に掴み取った。
「あぐっ……!」
首を締め上げられたような格好になり、ニャアンは無様に両足を宙でばたつかせる。
「放して! 離せってば!」
「放すわけねえだろ。
俺のカメラをこんなにしやがって。
どこのガキか知らねえが、逃げ得が許されると思ってんのか?」
カイは、手の中で足掻く少女を、ひどく冷徹な目つきで観察した。
衣服の割にひどく汚れた運動靴。
警戒心と恐怖で一杯になった、まるで野良猫のような目。
その痛ましい風体を目にした瞬間、カイの脳裏に、かつてベルファストの街で出会った、一人の少女の姿が鮮烈に蘇ってきたのである。
『弟や妹を食わせるために、あたしはスパイをやってるんだ……!』
哀しいほどに強がって、最後は冷たい大西洋の海へと散っていった少女、ミハル・ラトキエ。
(……こいつも、同じか)
カイは内心で小さく舌打ちをした。
少女が単なる不良の類ではなく、生きるために裏稼業の運び屋か何かに手を染めている難民であることは、長年この世界を見てきたカイの目には一目瞭然であった。
そして、背後から軍警が血相を変えて走ってくるのが見える。
ニャアンは、首根っこを掴まれたまま、極限状態の中で思考を巡らせていた。
(逃げるか、従うか。
……無理だ。
この男、見た目より力が強い。
軍警が来ちゃう。
どうする、どうすれば……!)
「おい、そこのお前! その女を捕まえておけ!」
二人の軍警が、息を切らしながら改札にたどり着き、カイとニャアンを取り囲んだ。
ニャアンの顔からさっと血の気が引き、その黒い瞳が深い絶望に揺れた。
しかし、カイは掴んでいたニャアンのリュックの紐をふいっと手放すと、逆に彼女の細い肩を抱き寄せるようにして、軍警たちの前に立ちはだかったのである。
「おやおや、連邦の軍警さんが、うちのどんくさい助手に何の用で?」
カイは、持ち前の皮肉めいた、どこか人を食ったような薄ら笑いを浮かべて軍警を見返した。
軍警たちは、白い背広を着た怪しげな男に突然出鼻をくじかれ、訝しげに顔を見合わせる。
「助手だと?
その女は、違法な物資の運び屋の容疑がかかっている。
引き渡してもらおう」
「運び屋? 冗談キツいぜ」
カイは軽く肩をすくめ、自分の足元で砕け散っているカメラを顎でしゃくってみせた。
「こいつは俺の助手見習いだよ。
見ての通り、どんくさくて足元もおぼつかねえ。
俺の取材用の大事な機材を運ばせてたら、すっ転んでカメラをパーにしやがったんだ。
今ちょうど、その弁償のことでこっぴどく叱り飛ばしてたところなんだよ」
ニャアンは、カイの腕の中で目を丸くしていた。
(……え? かばってくれてるの? この人)
カイは、懐から報道記者の身分証を取り出し、軍警の鼻先へと突きつけた。
無論それは、連邦政府関連の通信社から発行された、それなりに効力を持つ本物に近い代物である。
「俺はフリーのジャーナリストでね。
ティターンズの皆様の『輝かしいご活躍』を取材するために、わざわざ地球から出向いてきたんだが……カメラがこのザマじゃあ、記事の書きようがねえな。
軍警さんがこのどんくさい助手を連行していくってんなら構わねえが、こいつの弁償代はあんたたちの部署に請求させてもらうぜ。
いいカメラなんだ、これ」
軍警たちは、突きつけられた身分証と砕けたカメラ、そしてカイの放った「ティターンズの活躍を取材」という言葉に、明らかに怯んだ様子を見せた。
ティターンズが勢力を拡大しつつあるこの時期において、報道機関との無用な摩擦は上層部からひどく嫌われる傾向にあったからだ。
「……ちっ。
人違いだったか」
一人の軍警が忌々しげに舌打ちをし、「次からは走るなよ」とニャアンに捨て台詞を残して、足早に通路の奥へと去っていった。
軍警たちの背中が完全に見えなくなるのを確認すると、カイは抱き寄せていたニャアンの肩を、乱暴に突き放した。
「痛っ……」
「さて。
軍警の犬どもは追い払ってやったが……問題はこっちだ」
カイは、床に散らばったカメラの残骸を拾い集めながら、ひどく冷ややかな視線をニャアンへと向けた。
「俺の商売道具をオシャカにしてくれた落とし前は、きっちりつけてもらうぜ。
弁償しろ」
ニャアンは、びくっと小さく肩を震わせた。
(……やっぱりそうなるよね。
でも、払えるわけない。
今日の報酬だってまだ貰ってないのに)
「……お金、ないです」
ニャアンは
「だろうな。
そんな薄汚れたスニーカー履いて、運び屋みたいなヤバい橋を渡ってるガキが、ポンとカメラ代を払えるとは思っちゃいねえよ」
カイは、深くため息をつきながら立ち上がった。
「体で払え」
「……え?」
「俺の言うことが聞こえなかったのか?」
ニャアンの顔が再び強張ったが、カイはひどく嫌悪感を露わにして言葉を継いだ。
「変な想像すんじゃねえぞ。
俺はジャーナリストだ。
取材の荷物持ち、資料の整理、人混みの露払い。
やることは腐るほどある。
俺のカメラの代金を払い終わるまで、お前は俺の助手見習いとしてこき使ってやるってことだ」
ニャアンは、目の前に立つひょろ長い男を、警戒に満ちた目でじっと観察した。
(この男……一体何なの?)
難民として培ってきた彼女の生存本能という名の感覚器が、極限まで張り詰めながら目の前の人物を査定していく。
軍警ではない。
闇社会の元締めのような、血と暴力の匂いもしない。
口が悪くて皮肉屋の、ひどく面倒くさい大人。
しかし、先ほど軍警から自分を庇ってくれた時の、あの一瞬の隙のなさ。
そして、裏稼業の人間だと見抜きながらも、警察に突き出すでもなく、かといって過剰な同情を寄せるわけでもない、この徹底して乾ききった距離感はどうだろう。
(……害のない、厄介者だ)
ニャアンは心の中で、静かにそう判定を下した。
逃げるか、従うか。
今ここでもう一度逃走を試みても、この男はしつこく追ってくるかもしれない。
再び軍警に見つかれば終わりである。
それに、高価な機材を壊してしまったのは曲げようのない事実であった。
弁償が終われば解放されるというのなら、この奇妙な提案に乗る方が、生き延びる確率ははるかに高い。
「……分かりました。
弁償が終わるまで、荷物持ち、やります」
ニャアンは、不満げに唇を尖らせながらも、ひどく渋々といった様子で小さく頷いた。
「素直でよろしい。
俺はカイ・シデンだ。
お前、名前は?」
「……ニャアン」
「ニャアン? 変な名前だな。
まあいい」
カイは背広の隠しに両手を突っ込み、ゆっくりと歩き出した。
「ほら、さっそく仕事だ。
俺のトランクを持て。
ホテルまで案内しろ」
ニャアンは、床に置かれたカイの重い鞄を不満そうに持ち上げ、その後ろ姿を追いかけた。
カイの背中が、こちらへ振り向くことはなかった。
彼は、ミハルという少女を救えなかった過去の重い十字架を背負いながら、今度は目の前の「戦争の落とし子」を、ひどく不器用な、少しだけ強引な形で、自らの日常という名の安全地帯へと引きずり込もうとしていたのである。
(……なんだか、とんでもなく面倒くさいことに巻き込まれた気がする)
ニャアンは、大きくため息をつきながら、絶え間ない雑踏の中へと、白い背広の男の後を追って歩き出した。
これが、難民の少女ニャアンが、初めて「合法的な労働」という名の首輪を繋がれることとなった出来事であった。