機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】   作:王子の犬

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《56》雑用係とジャーナリスト - 透明な同行者(10月)

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八五年、一〇月。

 

 サイド6に位置するイズマコロニーは、人工的な秋の気配に包まれていた。

 環境を制御する機構が気温をわずかに下げ、街路樹の葉はあらかじめ組み込まれた手順に従って、静かに色づき始めている。

 しかし、その穏やかな季節の移ろいとは裏腹に、コロニーの裏通りや特定の港湾施設周辺には、相も変わらずティターンズの重い軍靴の音と、対抗しようとする各勢力の見えざる暗闘が、重い影を落としていたのである。

 コロニーの歓楽街から少し外れた場所にひっそりと佇む、古びた安宿の一室。

 

「……おい、そっちの束じゃない。

 日付順にソートしてくれって言っただろ。

 それから、そのディスクのデータはBフォルダにバックアップだ」

 

 カイは携帯端末を片手に、無数の紙資料と情報端末、飲みかけの珈琲の杯が散らかり足の踏み場もない部屋で指示した。

 

「……はい」

 

 部屋の片隅で、片隅で黒髪を束ねたニャアンは黙って作業に没頭した。

 あの日、地下鉄の改札で衝突し、高価なカメラを壊した代償として「助手見習い」という名目でカイに拾われてから、すでに数週間の月日が流れていたのである。

 ニャアンは、表向きはカメラの代償として無給で働いているが、実態はカイの雑用係。

 資料の整理や機材の搬送、さらには食事の調達まで、黙って全てこなす。

 

(……それにしても、こいつは想像以上に使い勝手がいい)

 

 カイは端末の画面から視線を外し、部屋の隅で作業を続けるニャアンの横顔を密かに観察した。

 彼がこれまで雇ってきた有象無象の助手たちと比べても、ニャアンの燃費の良さと手際の良さは群を抜いている。

 まず、余計なことを一切喋らず、機密情報に興味を示さない点が際立つ。

 さらに身軽で、一Gの重力でも音もなく歩き抜け、食事は朝のサンドイッチ一つだけで一日を過ごす。

 

(難民としてスラムで生き抜いてきたガキ特有のサバイバル術、ってやつか。

 目立たず、流され、ただ生き延びるための最適解を本能で理解してやがる)

 

 カイは小さく息を吐いた。

 彼女が食品配達業者に偽装して裏社会の運び屋をやっていたことは、すでにカイ自身の調査によって裏が取れていた。

 サイド2が戦場と化した際に家族を失い、単身でコロニーを脱出してきた戦災孤児。

 その過酷な境遇は、カイの胸の奥底に横たわる古い傷跡を、ちくちくと刺激するのであった。

 

「おい、飯にするぞ。

 今日は表通りのカフェで食おう。

 お前も来い」

 

 カイが寝台から体を起こすと、ニャアンは資料を整理する手を止め、小さく頷いた。

 

 コロニーの表通りに面した、開放的な造りの喫茶店。

 カイは具沢山のサンドイッチとブラックの珈琲を注文し、ニャアンの前には簡素な生野菜の鉢と水だけが置かれていた。

 

「お前、本当にそれだけで足りるのか?」

 

 カイがサンドイッチを頬張りながら呆れたように尋ねると、ニャアンは野菜の葉をフォークでつつきながら無表情に答えた。

 

「……十分です。

 お腹がいっぱいになると、いざという時に走れなくなるから」

「いざという時ねえ。

 お前、まだ俺から逃げる気でいるのか?」

「……そういう意味じゃないです」

 

 ニャアンは視線を落とし、小さく咀嚼を続けた。

 彼女にとって満腹という状態は、難民としての生存競争において隙を生むことを意味していた。

 いつ何時、軍警に追われるか知れない裏稼業の生活の中で、彼女は常に胃を少し空かせておく癖が骨の髄まで染みついてしまっていた。

 カイは珈琲を啜りながら、にやりと意地悪な笑みを浮かべる。

 

「そういやお前、運び屋やってた時の合言葉、何だったっけな?

 えーと……」

 

 カイはわざとらしく咳払いをして、声を一段高くした。

 

「『コンニチワ オイソギデスカ』、だっけか?」

 

 ニャアンの細い肩が、びくっと跳ねた。

 

「……やめてください」

「で、受け取る側が『ベツニイソイデイマセンヨ』って返すんだろ?

 いやぁ、古典的というか何というか。

 B級のスパイ映画みたいで泣かせるじゃねえか。

 お前、あれ本気で言ってたのか?」

 

 カイのからかいに、ニャアンはフォークを置き、無表情のまま、抗議の色を込めて睨みつけた。

 

「……マーコさんが、絶対にそう言えって言ったんです。

 それに、今まで一度も軍警に捕まっていません」

「そりゃ軍警がアホなだけだ。

 そんな合言葉、俺なら一発で怪しむね」

「……カイさんは、ジャーナリストだから、性格がひねくれてるだけです」

「おいおい、雇い主に向かってひねくれてるとは良い度胸じゃねえか。

 誰のおかげで今、合法的な飯が食えてると思ってんだ?」

「……カメラを壊した代金分だけです。

 払い終わったら、すぐ辞めますから」

 

 ニャアンはぷいと顔を背け、再び生野菜をつつき始めた。

 カイは、彼女の反応を見て、心の中で小さく笑った。

 

(……最初は怯えきった野良猫みたいだったが、少しは反論できるようになったじゃねえか)

 

 カイは、滑稽な合言葉をあえてからかうことで、彼女の中にある張り詰めた警戒心を、少しでも解きほぐそうと試みていたのである。

 無論、そのような気遣いを表に出すような野暮な真似はしない。

 あくまで「面倒くさい皮肉屋の大人」という仮面を、頑なに被り続けていた。

 喫茶店での食事を終えると、カイの顔から皮肉な笑みが消え、報道の玄人としての鋭い表情に戻った。

 

「さてと。

 午後からは少し『きな臭い』連中と接触してくる。

 お前は、宿に戻って留守番だ」

 

 カイは立ち上がり、白い背広の襟を正した。

 ニャアンは、カイを見上げて少し首を傾げた。

 

「……荷物、持たなくていいんですか?」

「ああ。

 今回の取材対象は、お前みたいなガキがうろちょろしてると警戒するような連中だ。

 それに、万が一ドンパチが始まった時に、お前の面倒まで見てる余裕はねえ」

 

 カイの言葉は冷ややかで、裏には明確な境界線があった。

 彼は、資料の整理や安全な街中の移動といった表向きの雑用にはニャアンを使うが、危険が伴う潜入取材や、ティターンズやエゥーゴの息がかかった裏社会の情報源との接触には、決して彼女を同行させることはなかった。

 『お前はここで荷物の番だ』。

 それが、カイがニャアンに対して引いた、絶対に超えさせない安全圏の境界線だったのである。

 

(……ミハルのような子供を、これ以上戦争や闇の世界に巻き込むわけにはいかねえ)

 

 カイの脳裏に、冷たい大西洋に散った少女の笑顔がよぎる。

 あの無力感が、今の彼を記者として駆り立てている。

 目の前の薄汚れた難民の少女を、ただの便利な道具として使い捨てる気など毛頭なかった。

 カメラの弁償というのは口実で、本当は非合法な運び屋という死と隣り合わせの世界から引き剥がし、少しでも安全な場所に置いておきたかったのだ。

 

「いいか、俺が戻るまで絶対に部屋から出るなよ。

 誰か来ても居留守を使え。

 わかったな?」

 

 カイは厳しく念を押し、ニャアンの返事を待つこともなく、足早に雑踏の中へと姿を消していった。

 残されたニャアンは、カイの背中が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。

 

(……置いていかれた)

 

 彼女は、カイの密やかな保護の意図に、完全には気づいていなかった。

 難民として生きてきた彼女にとって、「置いていかれる」ことは「見捨てられる」こと、あるいは「信用されていない」ことと同義であった。

 

(私の口が軽いと思ってるのかな。

 それとも、足手まといだから?

 ……まあ、いいけど。

 危険な目に遭わなくて済むなら、その方がいい)

 

 ニャアンは、自分にそう言い聞かせ、安宿への帰路についた。

 彼女の思考回路は、常に「いかにして生き延びるか」という乾いた計算で満たされている。

 しかし、安宿の部屋に戻り、一人きりでカイの雑然とした資料を整理していると、彼女の胸の奥に、これまでの人生で感じたことのない、奇妙な感覚が静かに広がっていくのに気づいた。

 

(静かだ……)

 

 窓の外からはコロニーの人工的な街の喧騒が聞こえてくるが、この部屋の中には、彼女の命を脅かすものは何一つ存在しない。

 かつてマーコ・ナガワラの下で運び屋をしていた頃。

 彼女は常に、軍警の影に怯え、取引相手の裏切りを警戒し、文字通り命を削って日銭を稼いでいた。

 荷物を渡す時の滑稽な合言葉は、その死と隣り合わせの緊張感を誤魔化すための、彼女なりの悲痛な呪文だった。

 だが、今はどうだろう。

 この「カイ・シデンの助手見習い」という労役は、確かに給料は出ないし、雇い主は口うるさくてひどく面倒くさい。

 しかし、理不尽に怒鳴られることも、銃口を突きつけられることもないのだ。

 資料を整理し、荷物を運び、言われた通りに留守番をしていれば、安全な場所で眠ることができ、適当な生野菜くらいは食べさせてもらえる。

 

(……これって、悪くないかもしれない)

 

 ニャアンは、カイが書き散らした取材原稿の束を揃えながら、無意識のうちに小さく息を吐いた。

 彼女が扱っているこの紙の束は、非合法な兵器の部品でもなければ、危険な薬物でもない。

 ただの文字の羅列である。

 手を汚さずに、命の危険に晒されることもなく、誰かの役に立って生活が成り立っているという事実。

 戦災孤児として裏社会の泥水を啜ってきた彼女にとって、初めて触れる「真っ当な日常」の輪郭であった。

 

(あの人……カイさんって、何のためにあんな取材をしてるんだろう)

 

 ニャアンは、原稿の端に記された『ティターンズ』という文字をじっと見つめた。

 彼女には、地球圏の政治闘争も、連邦とジオンの因縁も、まったく興味がなかったし、理解もできなかった。

 それでも、あの皮肉屋でひねくれた大人が、危険な場所から遠ざけようとしていることだけは、少しずつわかってきた。

 

(面倒くさい大人。

 ……でも、悪い人じゃないのかも)

 

 夕刻。

 カイが安宿の部屋に戻ってきた時、ニャアンは資料を整理し、バックアップを終えて膝を抱えて、うとうとと微睡んでいた。

 扉を開ける音に驚いて跳ね起きたニャアンを見て、カイは小さく笑った。

 

「よお。

 ちゃんと留守番してたか、野良猫」

「……起きてました。

 資料、全部終わってます」

 

 ニャアンは目をこすりながら立ち上がった。

 

「おう、ご苦労さん。

 ほれ、今日の夕飯だ。

 近所の屋台で買ってきた」

 

 カイが放り投げた紙袋を、ニャアンは慌てて受け止める。

 中からは、温かい汁物とパンの匂いが立ち昇った。

 

「……いただきます」

 

 ニャアンは、紙袋を大事そうに抱き抱え、小さく頭を下げた。

 

「あの、カイさん」

 

 汁物を飲みながら、ニャアンがぽつりと呟いた。

 

「なんだ?」

「あとどのくらい働けば返し終わりますか?」

 

 カイは背広を脱ぎながら、軽く肩をすくめてみせた。

 

「さあてな。

 俺のカメラは特注品だ。

 お前みたいなトロいガキの働きじゃ、あと半年……いや、一年はかかるかもな」

「……一年!?

 そんなの、絶対嘘!」

「ジャーナリストは嘘はつかねえよ。

 事実を少し、ドラマチックに脚色するだけだ」

「……最低」

 

 ニャアンの心からの悪態に、カイは声を上げて笑った。

 

 宇宙世紀〇〇八五年の十月。

 カイの「これ以上、闇の世界に巻き込みたくない」という不器用な優しさと、ニャアンの「ただ生き抜くために流されているだけ」という乾いた生存戦略。

 決して交わるはずのなかった二人の軌道は、サイド6の片隅で、奇妙な保護関係として確かに結びつき始めていた。

 

 

 

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