機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】   作:王子の犬

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《58》弁償の終わりと、奇妙な契約延長(12月)

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八五年、一二月。

 

 イズマ・コロニーの街角に聖夜を祝う電飾が煌めき、復興を謳歌する笑い声が溢れ返っていた。

 コロニーの片隅に佇む、カイ・シデンが借り受けた安宿の一室。

 外の喧騒が嘘のように静まり返った薄暗い部屋で、カイは寝台に寝転がったまま、端末に向かって記録記事の原稿を打ち込み続けていた。

 ニャアンがいつものように、部屋の隅に置かれた小さな机で、方々からかき集められた膨大な取材資料や情報の円盤を分類し、見出しを付ける作業を黙々と進めている。

 彼女がカイの「助手見習い」として働き始めてから、すでに三ヶ月の月日が流れようとしていた。

 当初こそ、壊した高価なカメラの弁償のためという名目であったが、この三ヶ月間、彼女はカイの言いつける雑用をいっさいの不平もなく、こなし続けてきたのである。

 資料の整理、重い荷物の運搬、建設現場での小型作業機操作の操縦という労働で得たわずかな日当は、永らく凍てついていた心に、「真っ当に生きる」感覚を少しずつ与え始めた。

 

「……終わりました」

 

 不意に、ニャアンの静かな声が部屋の空気を震わせた。

 カイは端末を離さず、「おう、机の上に置いといてくれ」と軽く返した。

 しかし、ニャアンは資料を机に置いた後も、そこに立ったまま動こうとはしなかったのである。

 

「……どうかしたか?」

 

 カイが怪訝そうに顔を上げると、ニャアンは彼の目を真っ直ぐに見つめ返していた。

 黒い瞳の奥に、いつも「ただ流されるだけの野良猫」の怯えは見当たらない。

 静かで、どこか張り詰めたような、強い意志の光であった。

 

「カイさん。

 これで、カメラの弁償代、働き終わりましたよね」

 

 カイは指先をぴたりと止めた。

 

「……ほう」

 

 彼はゆっくりと上体を起こし、寝台の縁に腰を下ろした。

 

「俺のカメラは特注品だぞ。

 お前みたいなガキの三ヶ月の雑用で、ペイできる金額だと思ってんのか?」

 

「計算しました」

 

 ニャアンは、前掛けの隠し(ポケット)から小さな手帳を取り出し、ぱらぱらと頁をめくってみせた。

 

「市販されている同等のスペックのカメラの相場、私の助手としての労働時間の一般的な時給換算、それに、先月私が建設現場で手伝い料。

 全部差し引きすれば、昨日でちょうど完済しているはずです」

 

 彼女の淡々とした、理路整然とした説明を聞き、カイは小さくため息をついた。

 

(……こいつ、こんなことまで計算してやがったのか)

 

 ニャアンの目は、単に「逃げ出したい」と訴えているわけではなかった。

 彼女が難民として借り受けているであろう、風呂付きのひどく狭小な単身用の部屋。

 その壁には、わずかな貨幣でも生活費を切り詰めるため、市場の安売りの情報がびっしりと貼り付けられているはずであった。

 ささやかな本棚には「永住権許可の申請の手引き」大学入試の参考書が、大切に並べられているに違いない。

 彼女は、非合法な運び屋という泥濘から抜け出し、正規の市民権を得て「真っ当な人生」を歩むための必死の足掻きを、たった一人で、誰の助けを借りることもなく続けているのだ。

 そのためには、いつまでもこの厄介な記者の、気まぐれな保護の下に甘んじているわけにはいかない。

 自らの足で歩き出さねばならないという強烈な自立の覚悟が、彼女の小さな身体の隅々にまで満ちていた。

 

「だから……今日で、助手見習いは終わりにさせてください。

 今まで、ありがとうございました」

 

 ニャアンは、深々と頭を下げた。

 部屋の中に、ひどく重い沈黙が降りてきた。

 カイは黙ったまま立ち上がり、部屋の隅に設えられた小さな水場へと向かい、湯を沸かして、即席の珈琲を二杯淹れた。

 一杯をニャアンの前に置き、もう一杯を手に取り、壁に背を預けた。

 

「……あのさあ、お前」

 

 カイは珈琲を一口啜り、呆れたような笑みを浮かべてみせた。

 

「計算が甘いんだよ。

 ガキの浅知恵ってやつだな」

 

 ニャアンは顔を上げ、不満げに眉をひそめた。

 

「カメラの減価償却費もちゃんと……」

「馬鹿野郎、そういう経理上の話をしてんじゃねえ」

 

 カイは杯を持った手で、ニャアンを真っ直ぐに指差した。

 

「この三ヶ月間、お前が食ったサンドイッチやサラダ、たまに俺が奢ってやった定食の代金。

 それから、お前を俺の仕事の拠点であるこのホテルの部屋に出入りさせてやった『セキュリティ費』と『施設利用料』。

 ……全部差し引いたら、お前の働きなんざ、全然足りねえよ」

 

 ニャアンは驚いたように目を丸くし、それから信じられないものを見るような顔つきでカイを睨みつけた。

 

「……はあ!? 何ですかそれ!

 ご飯はカイさんが勝手に買ってきたんでしょう!

 ホテルだって、私がここで作業しろって言われたから……」

「ジャーナリストの経費ってのは複雑でな。

 お前みたいなどこの馬の骨とも知れねえ難民のガキを『助手』として連れ歩くリスク代も込みなんだよ」

 

 カイは少しの悪びれる様子もなく、軽く肩をすくめてみせた。

 

「だから、カメラの弁償は終わったかもしれねえが、お前の『飯代と滞在費のツケ』はまだ残ってる。

 契約終了には同意できねえな」

 

 ニャアンはわなわなと細い肩を震わせ、両の拳をきつく握りしめた。

 彼女の生存本能という名の感覚器が、「今すぐ逃げ出せ」と激しく警鐘を鳴らしている。

 かつての彼女であったなら、僅かな隙を見て荷物をまとめ、二度と姿を現すようなことはなかったはずだ。

 だが、ニャアンは動こうとはせず、カイの灰色の瞳をじっと見据えている。

 カイは、表面上は意地悪な笑みを浮かべていたが、その奥底には決して揺らぐことのない、ある種の強固な意志の光が宿っていたのである。

 一年戦争で多くの仲間を失い、一人の少女を救うことができなかったという重い無力感を、今も背負い続けている。

 戦災孤児として宇宙に放り出されたニャアンの境遇は、あの面影にあまりにも重なって見えていた。

 カイは、不器用で、臆病で「真っ当な人生」を掴み取ろうと足掻く少女を、冷え切ったコロニーの雑踏へ、たった一人で放り出すことなど到底できなかったのである。

 

「……来年から、俺は地球圏をあちこち回るぞ」

 

 カイは、ぽつりと独り言を呟くように言った。

 

「ティターンズの動きもきな臭いが、反発する連中の動きも活発になってきている。

 地球のジャブロー周辺や、月のアナハイム・エレクトロニクスの関連施設……。

 あちこち飛び回って、この目で確かめなきゃならねえことが山積みだ」

 

 カイは残りの珈琲を飲み干し、空になった杯を机の上に置いた。

 

「俺一人じゃ、機材の持ち運びもままならねえ。

 それに、お前みたいに口が固くて燃費のいい荷物持ちがいないと、不便で仕方がないんだよ」

 

 カイ・シデンなりの、最高に不器用で、照れ隠しに満ちた「保護」の宣言に他ならなかった。

 

『お前一人で生きていくには、この世界はまだ危なすぎる。

 だから、もう少しだけ俺の背中に隠れていろ』

 

 直接言葉にこそ出さなかったが、ぶっきらぼうな態度の裏に潜む真意は、確かに伝わっていた。

 ニャアンは、小さく息を飲んだ。

 

(どうして、この人はそこまでして)

 

 ニャアンの心の中で、かつての「逃げるか、従うか」という極端な二択しかなかった天秤が揺れ動いていた。

 たった一人で生きていくという覚悟は、とうに決めたはずであった。

 永住権を取得し、大学へ進み、真っ当な市民として生きていく。

 その切実な目標を果たすために、誰のことも頼らずにやっていくつもりでいたのだ。

 

 でも。

 

「……大人って、いつも勝手」

 

 ニャアンは、俯き加減のまま、蚊の鳴くような小さな声でぼやいた。

 

「なんだ、文句があるのか?」

 

「……あります。

 めちゃくちゃ理不尽です」

 

 ニャアンは顔を上げ、カイの目を真っ直ぐに見据えた。

 

「でも……。

 ツケが残ってるって言うなら、払い終わるまで働きます」

 

 彼女は、再び「逃げる」という道を選ぶのではなく、このひどく厄介な記者の背中を、もう少しだけ追いかけてみようと決意したのである。

 それは、圧倒的な力や恐怖による「服従」などではなく、彼女自身の明確な意志に基づいた、人生で初めての「選択」であった。

 

「はっ。

 一日一食のサラダで十分って言ってたのはどこのどいつだ」

 

 カイは満足げに鼻を鳴らすと、自らの寝台へとどさりと倒れ込んだ。

 

「まあいい。

 来年からは忙しくなるぞ。

 覚悟しておけ、野良猫」

 

「ニャアンです。

 野良猫じゃありません」

 

「へいへい」

 

 窓の外では、イズマコロニーに降る人工の雪が、音もなく静かに舞い降りていた。

 かつて白い木馬に乗り込んだ不良少年として、斜に構えた態度で戦争を傍観しようとしていたカイ・シデン。

 今、数え切れないほどの喪失と痛みを経て、ひどく不器用ながらも一人の戦災孤児を正しい道へと導こうとする「面倒くさい大人」へと、確かな成長を遂げていた。

 そして、その背中を追いかけることとなった少女、ニャアン。

 彼女の、非合法な運び屋として生きてきた過去は、ここで一つの明確な終わりを告げた。

 彼女がカイと共に巡ることになる地球圏の旅は、新たな戦乱の不吉な予兆に満ちた、ひどく危険なものとなるに違いない。

 しかし、心の中には、もはや孤独な野良猫のような怯えは微塵も存在しなかった。

 「決して手を汚さずに生きる」という真っ当な日常の確かな温もりと、理不尽だがどこまでも頼りになる大人の背中が、彼女の小さな歩みを支えていた。

 

 

 




第二部完結しました。
次回から第三部、U.C.0086年に続きます。
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