機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】   作:王子の犬

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第三部開始です。


【第三部】U.C.0086 - TITANS
《59》母の決意とアナハイムの暗躍(U.C.0086年 1月~3月)


 

 

 

 宇宙世紀〇〇八六年。

 

 北米の穀倉地帯から東アジアのメガロポリス、そして月の裏側のクレーター群に至るまで、地球圏全体を覆う大気は、目に見えない重篤な病魔に侵されつつあった。

 ジオン共和国の国力低下に乗じた地球連邦政府の経済的搾取は、スペースノイドたちにルサンチマン(憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬)という名の鬱血を生み出していた。

 その不満は、各地で頻発する反地球連邦運動や過激派によるテロリズムという形で、確実に熱を帯び始めていたのである。

 そして、不穏な空気を徹底的に弾圧し、連邦の威信を物理的な暴力によって知らしめるべく、ジャミトフ・ハイマン率いる特殊部隊『ティターンズ』が強権を地球圏の隅々にまで拡大しつつあった。

 

 地球の地方都市の郊外。

 木漏れ日が差し込むスガイ家のリビングルームは、外の世界のきな臭さなど一切届かない、完璧な防空壕(シェルター)であった。

 厚い絨毯の上では、もうすぐ一歳になる長男が、積み木を不器用に重ねては崩し、無邪気な笑い声を上げている。

 シイコは、ソファに浅く腰掛け、畳まれたばかりの清潔な洗濯物を撫でながら、小さな命の営みを穏やかな微笑みを浮かべて見つめていた。

 彼女の手には、微かなベビーパウダーと日向の匂いが染み付いている。

 かつて数多の棺桶を生産し、暗黒の宇宙で敵のコックピットを焼き切ってきた『魔女』の手は、平和な日常を維持するためのものへと最適化されていた。

 しかし、部屋の隅で点けっぱなしになっているテレビからは、アナウンサーの無機質な音声が絶え間なく流れている。

 

『――本日未明、サイド2のコロニー群において、反連邦組織を名乗る過激派グループによる爆破テロ事件が発生し……』

『――これに対し、治安維持部隊は即座に出動し、武力による鎮圧を……』

 

 シイコは、息子から視線を外すことなく、思考のバックグラウンドでその音声を処理していた。

 画面には、黒っぽい軍服を着た兵士たちが、市街地でライフルを構え、民間人を制圧している映像が投影されていることであろう。

 

『シイコ・スガイの内的独白』

『記録日時:UC〇〇八六年 一月某日』

 

(……暴力が、増殖している)

 

 彼女の脳内の論理演算回路が、冷え切った計算を開始する。

 シイコにとって、テレビで専門家が語る「スペースノイドの自治権」や「地球至上主義の横暴」といった政治的イデオロギーの大義名分など、宇宙の塵ほどの意味も持たなかった。

 ア・バオア・クーの泥沼で、大義を咆哮しながら虫けらのように死んでいった無数の命を解体してきた彼女にとって、歴史や政治の理屈は、他者を屠殺するための安っぽい詭弁でしかない。

 彼女の認識は、極めてシンプルで、冷徹であった。

 この世界には「私の家族の平穏を脅かす可能性のある、不条理な暴力を振るう集団(エゥーゴ等の反連邦組織)」が増殖しつつある。

 そして、「合法的な暴力で徹底的に排除しようとしている巨大なシステム(ティターンズ)」が存在する。

 もし、このまま事態が進行し、本格的な戦火が地球圏を覆えばどうなるか。

 自分たち家族が住むこの街に、ある日突然、撃墜されたモビルスーツの残骸が降り注ぐかもしれない。

 最愛の夫が、通勤の途中でテロの巻き添えになるかもしれない。

 そして何より、足元で笑っている、温かくて柔らかい無垢な命が、血と金属の焦げる匂いに包まれた地獄へと放り込まれるかもしれない。

 

(それだけは、絶対に許さない)

 

 シイコは、息子の頭をそっと撫でた。

 夫の無償の愛によって獲得した、幸福と平穏を死守するためならば、いかなる手段でも行使する。

 では、最も確実で、最も合理的な防衛手段とは何か。

 逃亡することか? どこへ?

 地球の裏側へ逃げても、宇宙の果てに逃げても、無軌道な戦火は必ず追いかけてくる。

 隠れること?

 無力な市民として、ただ怯えながら運命の気まぐれに命を委ねる?

 否。

 シイコの脳髄が弾き出した最適解は、かつての『魔女』の合理性そのものであった。

 

(火の粉が降りかかるのを待機する必要はない。

 最も強大で、最も暴力的なシステムの内側へと潜入し、自らの手で、脅威をすべて事前に『解体処理』すればいい)

 

 この時点において、反連邦組織(エゥーゴ等)に身を投じるという選択肢は、彼女の中には存在しなかった。

 ゲリラやテロリストは「体制を破壊する側」であり、彼女が求める「日常の維持」とは決定的に真逆のベクトルである。

 選択すべきは、圧倒的な権力と暴力の独占機構である『ティターンズ』に他ならなかった。

 あの組織がどれほど腐敗していようと、どれほど残虐な弾圧を行おうと、些末な問題に過ぎない。

 ティターンズという絶対的な「暴力の傘」の下に身を置き、システムのリソースを流用して、自分たち家族に害を為す敵を合法的に屠る。

 かつて『死人の側』にいた頃、彼女はただ生存するために、命が消滅する瞬間の静寂を求めてトリガーを引いていた。

 だが今は違う。

 「守護すべき生者の生活」のために、極めて合理的に、純粋な母の愛情という名の狂気をもって、再び血塗られた暴力のシステムへと回帰しようとしている。

 

(イデオロギーのために闘う意思はない。

 ティターンズが今この瞬間、家族の平和を死守する最も有効な傘だと判断したから潜り込む。

 家族を脅かす本物の敵が現れ、牙を剥くその日まで……私は、その最深部で、透明で退屈な優等生を演じ続けよう)

 

 

 

青年()の日記』

『記録日時:UC〇〇八六年 二月某日』

 

「信じられない光景だった。

 夕食の後、息子を寝かしつけたシイコは、ダイニングテーブルでペンを走らせていた。

 家計簿か何かだと思って、『何を書いているの?』と尋ねると、彼女は顔を上げ、まるで『明日から少し、近所のスーパーにパートに出てくるわ』とでも言うような、あまりにも自然で穏やかな笑顔でこう答えたのだ。

 

()()()()()()への、志願書よ』

 

 全身から、スッと血の気が引いていくのが分かった。

 

『……ティ、ターンズ? どうして?

 なぜ君が、また軍に……しかも、あんな危なっかしい組織に!』

 

 思わず声を荒げ、書類を奪い取ろうとした。

 だが、彼女は僕の手を、柔らかく、それでいて抗えないほどの強さで握りしめた。

 

『ニュースを見ているでしょう?

 この世界は、少しずつ狂い始めているわ』

 

 シイコは、僕の手を両手で包み込みながら、静かに、澄んだ声で言った。

 

『宇宙で、地球で、誰かが誰かの大義のために、関係のない人たちの日常を壊そうとしている。

 ……私は、それが許せない。

 この家を、あなたとこの子を脅かすものが、外の世界で少しずつ大きくなっているのを、待っているだけなんてできない』

『だからって、君が戦う必要はない!

 僕が、僕が君たちを守る!

 だから、もうあそこ(戦場)になんて戻らないでくれ!』

 

 僕は必死に訴えた。

 彼女がかつて、あの暗黒の宇宙でどれほどの地獄を見、どれほどの命を奪い、自分自身の魂を凍りつかせてきたか。

 ようやく取り戻した温かい笑顔を、自ら手放そうとするなんて、()()()()()

 だけど――僕の必死の懇願を前にしても、彼女の瞳は揺らぎすらも見せなかった。

 それはかつての『虚無』ではない。

 僕たち家族への、狂おしいほどに純粋で、深く、圧倒的な『母の愛』だった。

 

『ありがとう。

 あなたがそう言ってくれるだけで、私は無敵になれるわ』

 

 彼女は微笑んで、僕の頬に手を添えた。

 

『でもね。

 もし、本当にモビルスーツがこの街に降ってきたら、あなたの優しい手では、この子を守り切ることはできない。

 ……()()()()()()()()()

 技術(のろい)が、この体には染み付いているの』

 

 彼女の言葉に、反論の言葉を見つけることができなかった。

 平和しか知らない僕の無力さと、極限の死線を潜り抜けてきた彼女の現実的で冷徹な強さ。

 その差を前にして、自分の無力さを噛み締めるしかなかった。

 

『この子に、戦火は絶対に見せない』

 

 彼女は、僕の目からポロリとこぼれた涙を指で拭いながら、鋼のような決意を込めて言った。

 

『この子が大人になるまで。

 この世界がもう少しマシになるまで。

 私が、外の汚れ仕事を全部終わらせてくる。

 だから……待っていて』

 

 僕は、泣きながら頷くことしかできなかった。

 彼女を止める権利など、誰にもない。

 誰かに命令されたわけでも、過去の亡霊に引きずられたわけでもない。

 僕と息子という『生者の世界』を守り抜くために、自らの意志で、再び血塗られた暴力のシステムへと身を投じることを決めたんだ。」

 

 純粋な愛情が、狂気と見紛うほどの極端な合理性へと転化し、最も危険な暴力装置へ自らを投棄させる。

 シイコ・スガイの静かなる決断と並行して、宇宙の深淵では、彼女の存在を『極上の研究対象(データ)』として待ち構える者たちが、水面下で歓喜の声を上げていた。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八六年、三月。

 

 月の裏側、フォン・ブラウン市に位置するアナハイム・エレクトロニクス(AE)社の巨大なデータセンター。

 ここでは、顧客であるティターンズやエゥーゴ、連邦正規軍から送付されてくる膨大なMS稼働データが、昼夜を問わず解析されていた。

 中でも、先進開発部が極秘裏に実行していたのが「テストパイロットの素性確認作業」である。

 MSのテストデータというものは、機体の純粋な性能値と、パイロットの固有の操縦癖(シグネチャ)の複合値である。

 正確な機体性能を導き出すためには、パイロットの癖を変数として差し引くプロセスが絶対的に不可欠であった。

 同時に、ティターンズという強権的な組織の内部情報を収集・管理するという、死の商人にふさわしい政治的・軍事的な目的も兼帯していたのである。

 

 その日。

 

 自動照合プログラムを走らせていた若手技術者の手が、キーボードの上で止まった。

 モニターには、ティターンズの志願者リストから抽出された、ある一人の基礎操縦シグネチャが、過去のアーカイブデータと「九九・九%の確率で一致」したことを告げる赤いアラートが点滅していた。

 

『アナハイム社内記録(UC〇〇八六年・ティターンズパイロット素性確認時・極秘)』

『記録日時:UC〇〇八六年 三月上旬』

 

『スガイ・シイコ(登録名)。

 操縦データのシグネチャ照合により、UC〇〇八一~〇〇八三年の期間、弊社の特務部隊に出向していた者と同一人物と判定。

 本件については、最高レベルの社内管理案件として処理する。

 発注元(ティターンズ)への通知は行わない。

 

 理由:本事実を開示することにより、弊社が過去に非合法なデータを収集していた事実が表面化する致命的なリスクが存在するため。

 

 対応:対象を「継続監視」とし、一切の干渉を禁ずる』

 

 この報告書が先進開発部の幹部たちの手に渡った瞬間、彼らの顔に浮かんだのは、政治的リスクに対する恐怖などではなく、猟奇的なまでの『技術的歓喜』であった。

 

『アナハイム先進開発部・非公式会議(記録なし・口頭のみ)』

『記録日時:UC〇〇八六年 三月中旬』

 

 薄暗い会議室のホログラム・テーブルを包囲する、数名のAE社幹部と設計主任たち。

 

「お帰りになりましたよ、あの魔女殿が。

 ティターンズのパイロットとして」

 

 白衣を着た開発部長が、舌舐めずりをするように言辞を放った。

 

「退職金を積んで市民社会に放逐して以来、消息が途絶えていましたが……自ら軍服を着て、鳥籠の中へ帰還されるとはね。

 血の匂いが忘れられなかったのでしょうか」

「動機など一片の価値もない」

 

 別の技術主任が、身を乗り出して口を挟んだ。

 

「重要なのは、彼女が再びモビルスーツに搭乗するという事実だ。

 八一年から八三年にかけてのブラックオプスで、我々は彼女から莫大な『近接戦闘教範』となる限界機動データを搾取した。

 だが、当時の機体――ジム・キャノンⅡ ウィッチズ・ブルーム――では、彼女の異常なG耐性と空間認識能力を完全に引き出すには至っていなかった」

「……データが取れます。

 今度こそ、本当の意味での専用機を構築しましょう」

 

 一番若い設計技師が、熱に浮かされたような音声で提案した。

 

「一八G耐久フレーム。

 ワイヤーアンカーの両腕マウント。

 『死なない範囲で最大のデータが抽出できる機体』。

 彼女が要求する要素を完全に実装した機体を、我々の手で組み上げるのです!」

「バウアー局長には、……おっと、今はバウアー議員でしたね。

 議員にはどう報告しますか?

 彼女はあの男にとっての時限爆弾に他ならない」

「通知はしない。

 あの方の管轄外だ」

 

 開発部長は、冷徹極まる笑みを深めて言い放った。

 

「彼女は、いずれ必ずティターンズの管理下を離れる。

 組織の枠に収まるような器ではない。

 その時のために、最高の舞台(機体)を用意して待っていればいい。

 再び戦場の泥沼で狂気の舞踏を披露する時、我々はモビルスーツ開発史を十年は飛躍させる至高のデータを掌握することになるのだから」

 

 家族を守護するという極めて純粋な愛情によって駆動するシイコ・スガイ。

 そして、彼女を実験動物(モルモット)とし、技術的探求と企業利益の最大化のためだけに狂奔するアナハイム・エレクトロニクスの技術者たち。

 二つの全く相容れないベクトルが、互いの真意を一切知らぬまま、宇宙世紀〇〇八六年・春という特異点に向かって、極めて冷徹に、かつ急速に収束していた――。

 

 

 

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