機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
宇宙世紀〇〇八六年、四月。
地球連邦軍の特殊部隊『ティターンズ』の志願局に提出された膨大なデータファイルの束。
その中に、一枚のありふれた願書が混入していた。
氏名、シイコ・スガイ。
最終階級、中尉。
経歴欄には、連邦軍の後方部隊での勤務と、企業への出向によるテストパイロットとしての経験が極めて簡潔に記述されているのみである。
ダカールに位置する志願局のデータセンターにおいては、連日、志願者たちの身元調査と経歴の自動照合が実行されていた。
ティターンズは『地球至上主義』を掲揚するエリート部隊であり、反連邦的な思想を内包する者や、ジオン残党とのコネクションを有する者を徹底的に排除しなければならない。
巨大なメインフレームが何重ものセキュリティ・プロトコルを駆動させ、志願者の過去を冷徹に洗い出していく。
しかし、シイコ・スガイという名前に紐づくデータは、いかなる
システムのバグや欠陥などでは断じてない。
宇宙世紀〇〇八三年の末、ジョン・バウアーをはじめとする軍上層部とAE社の暗闘によって、彼女の『真の軍歴』は、最初からシステム上に「存在しなかった事象」として
暗礁宙域における
十字のワイヤーによる猟奇的殺戮。
棺桶を量産してきた『喪服の魔女』としての実戦記録。
血に塗れたデータは、権力者たちの保身の論理によって完璧に黒塗りされ、アクセス不可能な深淵へと投棄された。
メインフレームに残留していたのは、無害な退役中尉という、表層の記録のみであった。
シイコ自身は、自らの願書に実名を記入することに対し、一瞬の躊躇も覚えなかった。
偽名を用いる
自らの軍歴の意味を、権力者たちがデータを隠蔽した『政治的な文脈』を、全く理解していなかったし、一片の興味もなかった。
彼女の論理演算回路に存在するのは、家族を防衛するために、最も強大な力を持つティターンズに所属するという、極めてシンプルで冷徹な至上命題《タスク》のみである。
実名で志願することが、そのタスクを遂行するための最も効率的な正規の手順であるならば、彼女は淡々と従属するだけなのだ。
権力者たちが自らを無菌状態に保つために構築した『隠蔽のシステム』が、極めて皮肉なことに、最も恐れた時限爆弾の侵入を許す結果を招いていた。
五月。
書類審査を通過した志願者たちを招集し、モビルスーツの操縦適性を測定する実技評価が実施された。
地球上のティターンズ訓練基地。
林立する最新鋭のシミュレーター群の中に、シイコ・スガイの姿が存在した。
彼女は、指定されたシミュレーターのコックピットに収まり、シートベルトを固定した。
旧式のフラットなコンソール。
しかし、彼女にとってインターフェースの差異など、全くもって些末な問題に過ぎない。
(……求められているのは、基礎的な機体制御と、教範に従った標準的な戦術行動)
シミュレーションが駆動し、仮想の敵機がモニターに結像する。
シイコは、自らの内側に存在する『魔女』としての本能と反射を、分厚い理性と目的意識の防壁によって完全に封印した。
敵機の死角から無音で滑り込み、十字のアンカーで捕縛して
それは異常値として排除されるリスクを生むだけの非合理な挙動だ。
彼女がこのシミュレーターで披露したのは、連邦軍の
操縦桿を倒すベクトル。
ペダルを踏み込む深度。
スラスターを点火するタイミング。
――すべてが、マニュアルに描かれた理想的な軌跡を寸分の狂いもなくトレースしていく。
彼女は、仮想敵機を教科書通りの相対距離からビーム・ライフルで正確に撃ち抜き、回避行動をとった。
感情のノイズは皆無であり、合格ラインを突破するための最適解を、機械的な精確さで出力し続けた。
しかし、完璧すぎる凡庸さの奥底にある異質さを、監視モニター越しに極めて鋭利に見抜いている男が存在した。
ティターンズのMS訓練と適性評価を統括する、ベテランの技術将校である。
彼は、データ端末に流転するシイコの操縦ログを凝視しながら、微かに眉間を寄せ、やがて驚愕で
(……なんだ、この入力データの波形は)
一見すると、彼女の挙動は教科書通りの退屈なものである。
実戦を経験していない、頭でっかちのテストパイロットの模範演技のように見受けられる。
だが、技術畑の人間である彼には、その教科書通りの挙動を構成している基礎的な数値の異常性が、極めて明確に視覚化されていた。
ペダルの踏み込みに、コンマ一秒の無駄も、微かな力のブレも存在しない。
スラスター制御の入力タイミングが、システムが反応する速度と完全に同期しており、人間の神経反射の限界値に肉薄している。
教科書を読むように動かしているのではない。
彼女は、記述そのものを、自らの肉体と神経の最深部に完全に『内面化』しているのだ。
呼吸するように、心臓が鼓動するように、極限の精度でモビルスーツを制御している。
シミュレーターばかりを操作していた人間に到達し得る領域などでは断じてない。
『技術将校(評価後の口頭報告)』
『記録日時:UC〇〇八六年 五月下旬』
「……スガイ中尉、基礎スコアは全志願者中最高です。
実戦の泥臭さがない、マニュアル通りの硬い動きに見えますが、操縦入力の精度が他とは比較にならないほど突出しています。
まるで、機体の駆動系と彼女の神経が直接繋がっているかのような、無駄の一切ない完璧な制御です。
荒っぽい戦闘をさせるよりも、新型機のデータ収集や、部隊の技術底上げを図るための人材として、極めて有用と考えます。
後方部隊のテストパイロット枠として、私は強く推薦します。
技術将校の眼力は、ある意味において極めて正確であった。
シイコの保持する極限の機体制御技術の本質を的確に看破していた。
だが、その技術が純粋な猟奇的殺戮によって培養された『魔女の呪い』であることまでは見抜けなかった。
技術の純粋さだけを評価し、彼女を有用な人材として強く推薦してしたのである。
そして、このティターンズの審査と並行して、遠く離れた月の裏側、アナハイム・エレクトロニクスの暗部においても、狂気じみたプロジェクトが密かに産声を上げていた。
先進開発部の幹部たちは、シイコのティターンズ志願という情報を独自ルートで捕捉すると、彼女がいずれ窮屈な鳥籠を離脱する日を確信し、非公式の専用機開発へと着手したのである。
『アナハイム先進開発部・設計要求仕様書(非公式・内部管理番号のみ)』
『記録日時:UC〇〇八六年 五月』
『プロジェクト名:ウィッチズ・ブルームⅡ(仮称)
対象パイロット:シイコ・スガイ
ベース機:MSA-003ネモ(計画中のエゥーゴ向け量産フレーム案流用)
要求項目:
一.フレーム耐G値:一八G(現行量産機の約一.八倍)
二.電磁収束式ワイヤーアンカー:両腕部マウント
三.コックピット独立懸架式サスペンション機構
四.パイロット生体データに基づく、身体限界内での最大機動保証
五.艶消し漆黒塗装
特記事項:本プロジェクトはバウアー議員には一切通知せず、極秘裏に進行すること。
対象パイロットの過去の限界機動データ(『File: STIGMA』)を完全に再現し、かつ機体が自壊しないよう、主フレームは高密度複合装甲材との積層構造とする。
試験機体の損耗は一切不問とする。
完成を急がれたし』
アナハイムの技術者たちは、自らの知的好奇心と、究極のデータ収集という悪魔的な情熱によってのみ突き動かされていた。
平和な地球で家族を愛する「母」は、彼らにとっては、宇宙世紀のモビルスーツ開発史を飛躍させるための極上の
彼女が再び血みどろの戦場に舞い戻り、
六月。
ティターンズの基地の一室において、志願者の最終採否を決定する内部会議が開会された。
円卓を囲むのは、各部門を代表する数名の将校たちである。
会議は淡々と推移し、やがてシイコ・スガイのファイルがスクリーンに投影された。
「シイコ・スガイ中尉。
経歴は後方勤務と企業出向のみですが、先日の実技評価において、技術部門から極めて高い評価を得ています」
技術将校が起立し、先日の報告を反復した。
「基礎スコアは最高。
操縦入力の精度が突出しており、後方部隊のテストパイロット枠として、私は彼女の採用を強く推薦します」
その言辞が響く中、円卓の片隅において、人事権を掌握する一人の将校が、額に冷たい汗が
彼は、スクリーンに投影されたシイコ・スガイの顔写真と、その名前から、視覚神経を逸らすことができなかったのである。
(……なぜ、あの女がここにいる!?)
彼の心臓は、警鐘のごとく激しく鼓動を乱していた。
莫大な退職金を握らされ、消去されたはずの、最悪の時限爆弾――。
名を偽装することもなく、堂々とティターンズの志願局の門を叩き、あろうことか技術部門の強力な推薦を受け、組織の内部へと侵入しようとしている。
(冗談ではない……!
あの女が部隊に入り、もし過去の記録が暴かれ、裏工作が白日のもとに晒されたら――ジャミトフ閣下の逆鱗に触れ、私の軍歴どころか、命すら危うい!)
「……それでは、スガイ中尉の採用について、反対意見のある者は?」
議長を務める将校が、円卓を見渡した。
人事将校は、息を完全に呑み込んだ。
今この場において、彼女は危険分子だ、過去に重大な瑕疵があると告発すれば、彼女の採用を阻止することは可能かもしれない。
しかし。
この人物はシイコ・スガイだ、かつての特務〇一機だと告発するためには、何故、自分だけがその凍結された事実を
すなわち、自分が過去に軍の正規の手続きを黙殺し、バウアー派の陰謀に加担して不都合な真実を隠蔽したという、自分自身の罪を告白することと同義である。
告発は、自己破滅だ。
『人事将校の内部記録(抹消済み)』
『記録日時:UC〇〇八六年 六月上旬』
『シイコ・スガイ志願者について。
UC〇〇八三年以前の軍歴に空白が存在。
確認を試みたが、関連記録は凍結処理済みで参照不可。
……本件は不問とする。
当職が蒸し返した場合の政治的影響を考慮した判断である』
恐怖と自己保身の重力が、声帯を完全に閉塞させた。
議長の問いかけに対し、会議室は絶対的な静寂を保っていた。
彼は、周囲の将校たちと同様に、静かに採用の賛意を示すために手を挙げた。
自己の保身を貫徹するためには、沈黙以外に術は存在しなかった。
あの時、恐怖に屈服して手を挙げた瞬間こそが、ティターンズという組織の心臓部に、最悪の爆弾をセットしてしまった決定的な瞬間であったのだ。
満場一致をもって、シイコ・スガイのティターンズ採用が可決された。
数日後。
基地内の面接室において、合否連絡を兼ねた最終面接が執り行われた。
長机の奥には、彼女を強く推挙した技術将校と、そしてあの人事将校が並んで着席していた。
ドアが開放され、軍服姿のシイコが音もなく入室し、完璧な敬礼を行う。
「スガイ中尉、採用です」
技術将校が、極めて満足げな笑みを浮かべて通達した。
「あなたのその精密な操縦技術は、必ずやティターンズの大きな力となるでしょう。
期待しています」
「ありがとうございます。
微力ながら、全力を尽くす所存です」
シイコは、感情の起伏を一切漏出させない、完璧な模範解答を音声として出力した。
その瞬間。
技術将校の隣に着席していた人事将校の視線が、コンマ数秒だけ、ピタリと静止した。
シイコの
その瞳の深淵には、理解を超越した事象を現認したような驚愕と、底知れぬ恐怖、そして何故帰還したのだという声なき問いかけが激しく渦巻いていた。
何らかの言辞を発しようとしたような、あるいは強制的に嚥下したような、不自然な筋肉の硬直。
刹那の瞬間における極めて微小な挙動であり、彼は即座に視線を逸らし、元の無表情な官僚の仮面へと回帰した。
『シイコ・スガイの内的描写』
『記録日時:UC〇〇八六年 六月』
(……採用。
第一段階はクリアした)
技術将校の言辞を聴取したシイコの脳内で、緑色の「完了」インジケーターが点灯した。
これで彼女は、ティターンズという絶対的な暴力の傘の内部へと潜入することができる。
愛する家族に迫り来る脅威を、組織の強大なリソースを流用して合法的に排除するための、最強の『防波堤』を獲得したのだ。
彼女の視界の辺縁において、隣に座していたもう一人の将校が、不自然な挙動を露呈させたのを、彼女の異常な空間認識能力は極めて正確に捕捉していた。
(あの将校が、一瞬だけ私を見た。
何か言いかけたような、あるいは言うのをやめたような動きだった)
心拍数の微かな上昇。
視線の固定。
明白な動揺のサインであった。
だが、シイコは全く意に介さなかった。
彼女の至上命題はティターンズに採用されることであり、眼前の面接官が個人的にいかなる思考を巡らせていようと、いかなる政治的背景を保持していようと、彼女にとっては雑音に過ぎない。
己がシイコ・スガイという名称でこの座標に存在することが、過去の権力闘争にいかなる爆発を惹起するのか。
彼女は、政治的危険性に根本から無自覚であったのだ。
(……採用された。それだけが事実)
シイコは、再び静かに敬礼を済ませ、面接室を後にした。
過去の因縁を知悉するがゆえに保身による沈黙を選択した人事将校。
真実を知らず、彼女の技術だけを純粋に絶賛して組織の中枢へと引き入れた技術将校。
そして、自己の存在がどれほど巨大な政治的時限爆弾であるかに全く気づいていないシイコ。
この三者の絶妙なすれ違いと、それぞれの利己的、あるいは無自覚な選択が複雑に交錯した結果、エリート集団ティターンズは、強固な防壁の最も内側に、最悪の『魔女』を、自らの手で恭しく抱え込んでしまった。
やがていかなる形態をもって爆弾が火を噴くのか、この時の彼女自身も含め、誰一人として予測を為し得る者は存在しなかった。