機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
《63》終わりの予感と「床」の証明(試験前夜~当日正午)
機密指定:最高機密
MRX-011 最終稼働試験 記録文書(復元・統合版)
記録対象:UC〇〇八六年後半 某日 ─ 試験前夜から最終日まで
試験場所:[機密 黒塗り処理済み]宙域 AE管轄非公式テスト施設
本資料は、
強化人間ドゥー・ムラサメのフライトレコーダー音声、管制室録音、ナナイ・ミゲル技術少尉の現場所感レポート、そして後年の証言を交錯させることで、宇宙世紀におけるサイコミュ兵器開発の冷酷な深淵が浮き彫りとなる。
これは、人間が人間たることを完全に放棄することによってのみ、ある「魔女」の遺した絶望的な
試験最終日の前夜。
漆黒の宇宙空間に浮遊するAE社管轄の非公式テスト施設内には、張り詰めたような緊張と、何者も決して口にしようとはせぬ「終わりへの予感」が重く立ち込めていた。
『ハルト・ドレーゼン技術主任の音声記録/ブリーフィング室にて』
『記録日時:UC〇〇八六年 試験前夜』
「……全体的に言うと、明日の試験で我々が確認したいのは三点だ」
ドレーゼン技術主任の音声は、静寂に包まれたブリーフィング室に低く響き渡った。
彼の前方には、疲労の色を隠しきれぬ技術員たちが整列している。
「第一。
MA形態における有線サイコミュ・デバイスの全基同時展開と、目標一四体に対する応答精度の実証。
第二。
ゼロ距離射撃シーケンスにおける
パラメータとの整合を、明確な数値として引き出す。
第三。
長時間高負荷搭乗時のドゥーのバイタルと、機体冷却系の並走確認だ」
ドレーゼンは、手元のデータパッドから視線を上げ、オーガスタ研究所より派遣された若き女性士官へと向き直った。
「……それとひとつ付け加えると、ナナイ君。
明日のアクト・ザクでの観測は、コックピット内のインターコムを開放状態にしておいてくれ。
ムラサメ研への報告レポートに、君自身の生きた所感を含めたい」
「……了解しました、ドレーゼン主任。
ただ一点確認させてください。
今回のデータは、ムラサメ研への報告と同時に、オーガスタ研のどのラインに流れますか?
彼女の問いには、純粋なる技術的関心を超越した、組織間の政治的力学に対する生々しい警戒が滲み出ていた。
「——
データをどこまで開示するかは、上から整理していただかないと、私の立場では判断しかねます」
その問いに対するドレーゼンの返答は、記録上には残存していない。
後年、ナナイはこの夜の対話を「自分が何の中にいるのかを、初めて意識した瞬間」と回顧している。
会議が散会し、技術者たちが各々の持ち場へと帰還していく中、ドレーゼンはただ一人、薄暗い部屋に残された。
彼のパーソナル・レコーダーには、誰に聴かせるためでもない、矛盾に満ちた独白が記録されている。
『ハルト・ドレーゼン技術主任の私的音声メモ』
「……明日の試験で、我々は『人間』の限界を知るのではない。
『
被験体ドゥーの精神と肉体は、すでに限界に近い。
彼女の自我は、度重なる薬物投与とサイコミュの負荷によって、薄いガラスのように削り取られている。
技術者としての私の目的は、あの忌まわしい〇.三一秒という数値を引き出すことだ。
それができなければ、この計画は失敗に終わる。
だが……。
……ドゥー。
死なないでくれ。
お前の命を燃やし尽くしてデータを得ることに、私はまだ耐えられそうにないのだ」
同時刻。
何者もいない静寂な格納庫の片隅において、巨大な鋼鉄の塊たるMRX−011先行試作機の冷却音のみが、単調なるリズムを刻み続けていた。
その機体の足元で、強化人間ドゥー・ムラサメは一人、虚空を凝視していたのである。
『ドゥー・ムラサメ フライトレコーダー環境録音』
『記録日時:UC〇〇八六年 試験前夜』
(録音開始から約一二秒の沈黙の後、機体の冷却音に混じって、感情の起伏を一切感じさせない平坦な声が拾われている)
「……明日で、終わる」
(沈黙 約八秒)
「終わったら、どうなる」
(沈黙 約八秒)
「……聞いても、教えてもらえないな」
(録音終了)
彼女の言葉に、死に対する恐怖や生に対する執着は微塵も存在しなかった。
自らが消費される部品に過ぎぬという事実を完全に受容した者の、絶対的虚無のみがそこに横たわっていたのである。
試験当日、〇六:〇〇。
施設内の人工照明が切り替わり、試験最終日が幕を開けた。
最終ブリーフィング室において、ドレーゼンはドゥーに向け、極めて異例の言葉を口にした。
『ドレーゼン技術主任のブリーフィング音声』
「ドゥー。
今日で最後だ。
……ちゃんと帰ってこい。
今日の試験で我々が必要としているのは、お前という人間の限界の記録だ。
ただし、お前に死なれては困る。
その点だけは——本当に——頼む」
(後日の技術者の証言:
「主任が被験体に『頼む』と言ったのは、後にも先にもあの朝だけだった」)
『ナナイ・ミゲル技術少尉 個人メモ(手書き)』
『ドゥーと廊下で少し話した。
私が『調子はどうですか』と聞くと、彼女は『特に』と言った。
感情の温度がない。
喜んでも怖がってもいない。
ただ、いる。
私はムラサメ研で何人かの被験体を見てきたが、ドゥーほど『削られている』と感じた人間はいなかった。
削られた後に何が残るのか、と考えた。
今日の試験が終わったら、また考えよう』
〇七:三〇。
搭乗およびシステム起動シーケンスが開始された。
『ドゥー・ムラサメ コックピット内フライトレコーダー』
(システム起動音。
各センサー自己診断シーケンスの電子音)
「……起動確認。
ジェネレーター出力、安定。
サイコミュインターフェース、接続。
有線デバイス、格納確認。
変形機構ロック、解除準備完了」
インターコム越しに、ドレーゼンの幾分強張った声が響く。
『ドゥー、バイタル確認。
——正常。
今日もよろしく頼む』
「……了解」
その応答は、機械の音声合成と区別が困難なほどに感情が削ぎ落とされていた。
この起動シーケンスを、随伴する
『ナナイ・ミゲル技術少尉 アクト・ザク コックピット内(インターコム開放記録)』
「ナナイ・ミゲル、アクト・ザク起動確認。
観測ポジションへ移動します。
……MRX−011の起動音は、オーガスタで聞いた
低い。
機体が重い。
ドゥーの搭乗後のコックピット気圧、正常範囲内。
サイコミュ接続の応答波形、確認——」
(ここで音声が一度途切れ、深呼吸の音が挟まれる)
「……彼女の波形には、恐怖がない。
本当に、ない。
フォウの試験前の波形と比べると、まるで別の種類の生き物みたいだ。
これが先行被験体ということなのか、それともドゥー個人の特性なのか。
今日の試験で少し分かるかもしれない」
恐怖が存在しない、即ち生存本能が欠落しているということに他ならない。
純然たる兵器としてはこれ以上なく最適と言えよう。
だが、人間としてはすでに「壊れている」何よりの証左であった。
〇九:〇〇から十一:〇〇。
フェーズ一たる、MS形態での基礎機動確認が開始された。
無人の暗黒宙域において、MRX−011は与えられたプログラムに沿って姿勢制御と推進テストを反復した。
試験は、技術者たちが気味悪く感じるほどに順調に推移した。
MRX−011は設計通りの機動を示し、あの『STIGMA』データを基礎としたサイコミュの応答精度は、極めて高次元のレベルを維持していたのである。
『ドレーゼン技術主任 管制室 音声記録』
「フェーズ一完了。
MS形態での全基本機動、設計値以内に収まっている。
ドゥー、今の感覚はどうだ?」
ドゥー:
『……問題ない』
「具体的に。
疲労感、視界のズレ、関節部の違和感——何でも言ってくれ」
ドゥー:
『……左肩の応答が、コンマ二秒遅い。
慣れた』
「……ツァハ、左肩アクチュエーターのログ出せ。
フェーズ二に入る前に確認する」
(マイクを切り、ドレーゼンが低く呟く音が拾われている)
「慣れた、か……」
コンマ二秒の遅延――を瞬時に脳内で補正して「慣れる」という行為。
すでに通常のパイロットの処理能力を超脱している。
随伴するナナイは、機動の異質さに対し、根源的な恐怖を感じ取っていた。
『ナナイ・ミゲル技術少尉 観測記録(音声)』
「フェーズ一観測所感。
MRX−011の機動パターンは——正直に言う。
合理的すぎて、怖い。
通常のパイロットは機動に『ためらい』の痕跡がある。
ベクトルの微妙な揺れ、スラスターの出力の微振動、それが人間が乗っているという証拠だ。
ドゥーの機動にはそれがない。
STIGMAの設計基準値——私はその数字を知っている——を、彼女の機動は確かに満たしている。
でもそれは、彼女が人間だからではなく、人間であることをやめたから実現できている数値なのではないか?
……ムラサメ研に上げるべき所感ではないかもしれない。
でも記録しておく」
試験は、フェーズ二「MA形態変形試験および有線デバイス展開」へと移行した。
このフェーズにおいて、AE社の技術陣は、自らが構築したシステムが「ある一人の魔女」の限界値を超越する歴史的瞬間を目の当たりにすることとなる。
『ドゥー・ムラサメ フライトレコーダー』
「変形シーケンス、開始」
(重厚な金属の軋み音、装甲がスライドし、推進器のベクトルが切り替わる駆動音が四.一秒間続く)
「変形完了。
MA形態、確認。
有線デバイス——展開」
(シュガガガッ! という鋭い射出音が八回響く)
「全基展開完了。
標的捕捉——、一四体、確認。
射撃解決——、〇.二九秒」
その刹那、静まり返っていた管制室に、どよめきと歓声が爆発した。
「……設計値より、速かった」
ドゥーの声には、達成感も歓喜の感情も、一切含有されてはいなかった。
冷徹なる事実の確認として、虚空へ向けて発せられたに過ぎない。
しかし、システムを監視していた技術員、ガルダ・ツァハは、モニターの数値を指差し、興奮のあまり絶叫した。
『ガルダ・ツァハ技術員 管制室 音声記録』
「〇.二九秒——!
設計値〇.三一を〇.〇二下回った!
主任、見ましたか!」
彼はヘッドセットを握りしめ、歓喜の唾を飛ばしながら叫び続けた。
「STIGMAベースのパラメータが、実際の人間を超えた!
その言葉が放たれた直後。
管制室の空気は、物理的に凍り付いたかの如く完全に静止した。
ツァハの口から漏れた「シイコ・スガイ」という固有名詞。
AE社の先進開発統括部門において、
彼女の異常な機動データを『TYPE−B』と偽装し、サイコミュ開発の「
ドレーゼン技術主任の鋭く冷たい視線が、ツァハを射抜いた。
「……すみません。
ただ、これは、本当にすごいことだと思いまして」
ツァハは顔を蒼白にして声を落としたが、一度放たれた言葉は、すでに開かれたインターコムを介し、暗黒の宙域で待機する観測機へと到達していた。
『ナナイ・ミゲル技術少尉 インターコム受信記録』
(管制室からの歓声と、ツァハの絶叫がクリアに受信されている)
「……今、技術員が言った名前——シイコ・スガイ」
ナナイの震える声が、アクト・ザクのコックピット内において録音されていた。
「私はその名前を、一度だけムラサメ研のファイルの端で見たことがある。
連邦軍の特務パイロット。
一年戦争の戦績。
彼女のデータが『床』として使われている?
この機体の、このサイコミュの?」
ナナイの頭中において、これまで散逸していたパズルのピースが、戦慄と共に繋がり始めた。
ドゥーの自我が徹底的に削り取られ、薬物によって精神を固定されている理由。
単にサイコミュ兵器を運用するためだけではない。
「シイコ・スガイ」なる、生身でありながら極限の殺戮を成し遂げた魔女の遺した「〇.三一秒」という異常な
その高すぎる床に
(沈黙 約六秒)
「……ムラサメ研に上げる前に、ドレーゼン主任に確認が必要だ。
私が知っていい情報の範囲がどこまでか、わからなくなってきた」
人間が人間たることを捨棄することで、初めて
宇宙世紀のサイコミュ兵器開発における、あまりにも残酷で、冒涜的な構造。
その深淵を覗き込んでしまったナナイは、自らが搭乗するアクト・ザクの装甲が、宇宙の冷気によって蝕まれていくような錯覚を覚えていた。
試験は未だ、午前中のプログラムを完了したばかりである。
午後の「