機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】   作:王子の犬

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《65》ゼロ距離の深淵と「誰か」の気配(試験当日 16:00~17:30)

 

 

 

 一六:〇〇。

 

 強制中断より約一時間の休息を挟み、暗黒宙域におけるMRX−011(サイコ・ガンダム)先行試作機の稼働試験は再開の刻を迎えた。

 最終フェーズは、『STIGMA』データの核心を成す、対MS近接戦闘シーケンスの最終確認であった。

 

「この数値が実証されねば、MRX−011という機体の存在意義の半数が消失する」

 

 再開に先立ち、ハルト・ドレーゼン技術主任は管制室の技術陣に向け、そう明言している。

 自らを鼓舞せんがための、呪文の如き言葉であった。

 

『ドレーゼン技術主任 管制室 音声記録(フェーズ4開始直前)』

『記録日時:一六:〇二』

 

「最後のフェーズだ。ドゥー、聞こえるか」

 

 マイクへ向けて呼びかけるドレーゼンの音声は、ひどく掠れていた。

 先刻の心拍数一六三という殺人的負荷より、被験体の肉体が完全な回復を遂げているはずはない。

 だが、試験は完遂されねばならなかったのである。

 

ドゥー:

『聞こえる』

 

「今から、対MS近接戦闘シーケンスに移行する。

 無人標的機五機。

 距離一〇メートル以内での射撃解決時間の最終記録を取る」

 

 コンソールの計器群より視線を逸らし、漆黒のメインモニターを見据えた。

 

「……これで今日は終わりだ。

 終わったら格納庫に戻れ」

 

ドゥー:

『了解』

 

 通信を切断するスイッチに指をかけたまま、ふと、技術者としてではなく、一人の人間として、どうしても問いただしておかねばならない衝動に駆られた。

 

「一つだけ聞かせてくれ。今、怖いか?」

 

 その問いは、サイコミュの性能実証にも、強化人間の耐久計測にも何ら関与せぬ、純然たる無意味なノイズに過ぎない。

 だが、彼は問わずにはいられなかったのである。

 

(沈黙五秒)

 

 やがて、ドゥーの口より、氷の如く冷徹で、かつどこまでも透き通った声が発せられた。

 

ドゥー:

『……わからない。

 怖いという感覚が、どういうものだったか、忘れた』

 

 管制室の空気が、その言葉の有する質量によって圧壊せんばかりに静まり返った。

 恐怖を忘却せし人間。

 生物としての最も原初的な生存本能すらも、システムと薬理的調整によって根こそぎ消去されてしまったという証明に他ならない。

 ドレーゼンは、無言のままマイクのスイッチを切断した。

 後方で待機していたガルダ・ツァハ技術員は、後日この時のドレーゼンを回顧し、「主任は誰にも聞こえない声で何かを言い、泣いていた」との証言を残している。

 

 

 

 一六:一〇。

 

 フェーズ4が開始された。

 無人標的機五機が、MRX−011を包囲する陣形で射出される。

 宇宙空間において「距離一〇メートル以内」という交戦距離は、文字通り互いの装甲が摩擦する、ゼロ距離に等しい。

 この極限の至近距離において、敵機を的確に捕捉し、自機への被弾を許すことなく、刹那の間に射撃を完了せしめる。

 かつて、数多のジオン将兵を屠り続けた、あの凄惨なる『十字の楔による磔刑戦術』の完全なるシステム的再現であった。

 

『ドゥー・ムラサメ フライトレコーダー(フェーズ4)』

『記録日時:一六:一五~一七:一〇』

 

 コックピット内におけるドゥーの意識は、すでに自身の肉体から遊離し、機体のサイコミュ・システムと完全なる融合を果たしていた。

 彼女の脳内へ流入する空間座標データが、有線デバイスの先端を介して、立体的な死の網を構築してゆく。

 

「標的一、捕捉。

 距離七.三メートル」

 

 暗黒の宇宙に、一瞬の閃光が奔る。

 

「射撃——〇.二八秒」

 

 その数値は、AE社の技術陣が設定した設計基準値()たる〇.三一秒を、あっさりと下回るものであった。

 

「標的二、捕捉。

 距離九.一メートル」

 

 有線デバイスが蛇の如く空間を這い、次なる標的の死角へと精確に滑り込む。

 

「射撃——〇.二七秒」

 

 それは、人間の神経伝達速度と、機体側アクチュエーターの駆動限界を完全に同期せしめねば到達し得ぬ、狂気の極限値であった。

 驚異的数値を叩き出す一方で、ドゥーは奇妙な違和感——既視感に囚われていた。

 自らがシステムへ従属して機体を操っているのではない事実に気づき始めていたのである。

 

「標的三——」

(沈黙二秒)

 

 レバーを握る手。

 ペダルを踏み込む足。

 視線を向ける角度。

 その悉くが、彼女自身の意志であると同時に、機体そのものに刻み込まれた「記憶」に先導されているかのような感覚。

 サイコミュ・システムが、ドゥーの脳波に応答して機体を駆動させているのではない。

 機体の奥底に眠る『STIGMA』という戦闘データの残滓が、ドゥーの自我の器へ流入し、肉体を「かつてそこにあった最適解」へと強制的に当てはめているのだ。

 

「……このワイヤーの感触を、機体は知っている。

 私が教えたんじゃない。

 データが、機体に教えた」

 

 ドゥーの呟きは、誰の耳にも届かぬ、フライトレコーダーの冷徹な磁気テープにのみ刻印される独白であった。

 彼女は、システムを介して、かつて暗黒の宇宙においてこの極限機動を完成せしめた「誰か」の気配に、ほんの一瞬のみ感応していた。

 感情を殺し、ただひたすらに効率的殺戮を反復し続けた「喪服の魔女」の虚無。

 薬物と調整によって恐怖を削ぎ落とされ、兵器の部品として消費されゆく強化人間の、透明なる虚無。

 二つの異なる地獄を生きる存在が、サイコミュというインターフェースの深淵において、微かに交錯した瞬間であった。

 

(バイタル記録:わずかに心拍数が低下した。

 緊張ではなく、静謐)

「私より前に、誰かが同じことをしていた。

 それが、この機体に入っている」

 

 その「誰か」がいかなる存在であり、現在(いま)どこにいるのか、ドゥーは知る由もなかった。

 彼女にとって、単なる「先駆者の存在」という漠然たる気配に過ぎない。

 だが、恐怖すら忘却した彼女の魂にとって、その気配は、暗黒の宇宙における唯一の「同伴者」の如く感じられたのである。

 故にこそ、彼女の心拍数は低下し、奇妙な静謐に包まれた。

 自分は孤独ではない。

 この狂気の淵を、かつて踏破した人間が確実に存在したのだと。

 

「標的三——射撃。

 0.二九秒」

 

 ドゥーは、不可視の先駆者と舞踏するが如く、次々と標的を完璧なる精度で撃破し続けていった。

 その狂気じみた「舞い」を、観測機たるアクト・ザクのコックピットより凝視し続けていたナナイ・ミゲルは、湧出するおぞましい感情に苛まれていた。

 

『ナナイ・ミゲル技術少尉 最終フェーズ観測記録』

『記録日時:一七:二〇』

 

「フェーズ4、観測中。

 MRX−011のゼロ距離射撃シーケンス——」

 

 ナナイの声は、モニターに映し出される光景の異様さに、微かな震えを帯びていた。

 

「……美しい。

 と、思ってしまった自分が嫌だった」

 

 宇宙空間において、巨躯であるはずのMRX−011が、まるで重力や慣性の法則を完全に黙殺したかの如く、滑らかに、かつ直線的に標的の死角へと滑り込む。

 無数の有線デバイスが軌跡を描き、次なる瞬間には標的が爆散している。

 実戦において生じる「ためらい」や「泥臭さ」、「生き残ろうとする必死さ」といった、人間的要素が一切介在していなかった。

 純粋たる、命を解体するための数学的最適解の連続。

「無駄がない。

 迷いがない。

 標的が静止する前に次の標的へ意識が移っている。

 人間がやることじゃない」

 

 ナナイは、コンソールの計器を強く握りしめた。

 

「でも、人間がやっている。

 ドゥーという人間が」

 

 ナナイの脳裏に、管制室の技術員が譫言のように絶叫したあの固有名詞が蘇生する。

 「シイコ・スガイ」。

 一年戦争の泥沼を生き延び、戦後、殺戮を重ねたという、謎多き女性士官。

 ナナイは、眼前に展開される常軌を逸した機動を凝視しながら、「最初の魔女」の姿を想像せずにはいられなかった。

 「STIGMAのデータが床として使われているとしたら——その床を最初に踏んだ人間は、今頃どこで何をしているんだろう。

 その人は、自分の限界がここに使われていることを知らないはずだ」

 

 彼女のデータが、長き時を経て、見知らぬ強化人間の精神を削り取りながら、新たなる兵器の礎となっている。

 

「それは——どう、呼ぶべきことなんだろう」

 

 人間が人間の限界をデータとして抽出し、別なる生贄へ移植して兵器を造り上げる。

 最初の魔女(シイコ)の戦う理由が墓守のためであったにせよ、実験体の少女(ドゥー)の精神が如何ほど削り取られようとも、全くの無意味であった。

 万事は「有用なデータ」として還元され、消費されていくのみ。

 ナナイは、闇の奥底を覗き込んでしまったような、畏怖と虚脱感に囚われていた。

 

 

 

 一七:三〇。

 

 予定されていた全試験フェーズが終了した。

 

『ドレーゼン技術主任 管制室(試験終了宣言)』

 

「全フェーズ完了。

 MRX−011最終稼働試験、終了とする」

 

 ドレーゼンの声が、スピーカーを介して宙域に反響した。

 

「……ドゥー。お疲れ様だった。

 戻ってこい」

 

ドゥー:

『……了解』

(格納庫帰投シーケンス開始)

 

 管制室の全員が、一瞬の沈黙に包まれた。

 設計基準値を凌駕する完璧なデータが取得されたにもかかわらず、誰かが小さくため息を漏らしたのみで、歓声も拍手も一切生じることはなかった。

 皆、自分たちが何らかの「一線」を越えてしまった事実を、肌で察知していたのであった。

 

 

 

 暗黒の宙域より、非公式テスト施設の格納庫へと向かう帰投ルート。

 MRX−011のコックピット内は、試験の熱狂が虚構であったかのような静寂に包まれていた。

 

『ドゥー・ムラサメ フライトレコーダー(帰投中)』

『記録日時:一七:四〇』

 

「機体、全系統正常」

 

(沈黙)

 

「……終わった」

 

 ドゥーの口から漏れた言葉は、達成感を示す性質のものではなかった。

 自らに課せられたタスクが終了したという、ステータスの報告に過ぎない。

 

(沈黙二〇秒)

 

「——何が終わったのか」

 

 自我の境界線を曖昧にされ、他者の記憶(データ)に浸食され、恐怖という感情すらも喪失した少女の吐露であった。

 人間としての限界を超越し、機体の要求に応えたが、「ドゥー・ムラサメ」の意志や歓喜は存在しない。

 機体の奥底に感知した「誰か」の気配も、今は冷徹な電子の海へと沈み、完全に消滅してしまった。

 後に残されたのは、自らが何者であり、何のために生かされているのかすら理解できぬ器だけであった。

 

(ドシュン、という重い音と共に、機体が格納庫に接触・固定される)

(録音終了)

 

 

 

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