機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】   作:王子の犬

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U.C.0086 - 地球にて (ニャアン/カイ/チェーン・アギ)
《67》沈黙の同行者と泥に塗れた記憶(U.C.0086年 1月〜4月)


 

 

 

 宇宙世紀〇〇八六年、一月。

 

 地球圏の冬は、どこへ行っても薄暗い鉄とコンクリートの底冷えがする。

 ユーラシア西部の中継都市に位置する、暖房の効きが甘い安宿の一室で、ニャアンは膨大な紙の資料と情報端末に埋もれていた。

 

「……ちょっと、カイさん。

 この『AE関連』のフォルダ、日付がぐちゃぐちゃです」

「うるせえな、昨日寝る前に少し見直したんだよ。

 適当に新しい順に並べとけ」

 

 窓際の寝台に寝転がりながら、カイ・シデンは煙草の煙を天井に向けて細く吐き出した。

 カイと二人きりの密室空間。

 この半年間、彼は「助手見習い」という名目で地球圏の各地を連れ回してきた。

 ニャアンは、こうした軽口や文句を日常のささやかな一部として受け入れていた。

 

「適当にって言われても、この暗号みたいなメモ、何が何だか……」

「お前は中身なんて読まなくていい。

 ただ『整える』だけでいいんだよ。

 そういう契約だろ」

 

 カイの言葉に、ニャアンは小さく鼻を鳴らして反論を飲み込んだ。

 作業の手を止めず、彼女は前掛けの隠しにそっと右手を差し込む。

 布越しに触れる、数枚の紙幣と硬貨の硬い感触。

 前年の秋、イズマコロニーの建設現場で小型作業機を操作し、日当として受け取った現金であった。

 非合法な運び屋として軍警の影に怯えながら手にした汚れた金ではなく、真っ当に汗を流し、大人の手から直接渡された、いっさい手を汚さずに稼いだ金である。

 難民として冷たい宇宙に放り出されて以来、初めて「自分で稼いだお金を、誰にも奪われずに持っている」という事実が、彼女の芯に静かな熱を灯し続けていた。

 

(……このお金がある限り、いざとなれば一人でどこへでも逃げられる。

 でも、今はまだ——)

 

 ニャアンは、散らかった机の上で資料を整え、背中越しにカイの気配を静かに感じ取る。

 口うるさく、皮肉っぽく、どこまでも面倒くさい大人。

 だが、彼と一緒にいる限り、理不尽に銃口を向けられることも、命を削るような危うい橋を渡らされることもない。

 

「……終わりました。次は?」

「ん。ああ、じゃあそこの湯沸かし器で珈琲を淹れてくれ。

 薄めでな」

 

 ニャアンは立ち上がり、音もなく部屋の隅の給湯器へと向かった。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八六年、二月。

 

『ジャーナリスト カイ・シデンの個人端末より抽出・復号化されたメモの断片』

 

『0206:

 裏は完全に取れた。

 今日、『小惑星(アクシズ)』が地球圏へ向けて発進した。

 連邦のタカ派(ティターンズ)の地上での横暴を追うだけの仕事は終わりだ。

 宇宙(そら)の権力構造そのものが根底からひっくり返る。

 接触する連中の顔ぶれも、より『きな臭い』ものに変わっていく。

 問題は……あの野良猫(ニャアン)だ。

 これ以上連れ回すのはリスクが高すぎる。

 だが、どこかで手を離せば、また誰かが死ぬ——。

 あの海に沈んだミハルのように、だ。

 俺が半端な関わり方をしたせいで。

 ……くそっ。

 今日はやけに冷えるな。』

 

「……お前、今日は朝から何食った?」

 

 端末からふいに顔を上げたカイが、唐突に口を開いた。

 彼の視線はニャアンを捉えておらず、窓の外の灰色の空を宛てどなく彷徨っている。

 資料整理の使い走りを終えて戻ってきたばかりのニャアンは、不思議そうに首を傾げた。

 

「駅の売店で、固いパンを一つ」

「それだけか。

 だからお前はいつまで経ってもひょろひょろなんだよ。

 午後、裏通りの店で温かい肉の煮込みでも食うか?

 あそこのは結構いけるらしいぜ」

 

 カイの早口な提案に、ニャアンは無言で首を横に振った。

 彼はひどく張り詰め、何かを――おそらくは、彼女自身の身の安全を――心配している時に限って、天気や食事といった、まったく関係のない話をまくしたてるのだ。

 

「いりません。

 お腹がいっぱいになると、いざという時に走れなくなるから」

「……ったく、可愛げのねえガキだ」

 

 カイは忌々しげに舌打ちをし、再び端末へと視線を落とした。

 最近、カイの取材先で交わされる会話の内容が、ニャアンには全く理解できないものに変わりつつあった。

 

「エゥーゴ」「カラバ」「アクシズ」

 

 しかし、彼女は決して問おうとはしない。

 

(知る必要なんてない。

 余計なことを知らない方が、確実に生き延びられる。

 私はただ、言われた場所で待機して、荷物を運ぶだけ)

 

 ニャアンは再び、空気のように気配を消し、壁際の定位置で息を潜めた。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八六年、三月。

 

 荒涼とした地方都市の再建工事現場。

 一年戦争の深い爪痕が今も生々しく残るその街で、カイは復興の遅れを告発するための、いわゆる小遣い稼ぎの取材を行っていた。

 ぬかるんだ地面の先で、低く重い駆動音を響かせて動く無骨なシルエットがあった。

 土木用のプチ・モビ——ドラケンE派生形である。

 それを目にした瞬間、ニャアンの足がピタリと縫い止められたように止まった。

 右の機械腕が瓦礫を退け、左腕で新たな鉄骨を支える。

 鈍重で確かな動きが、かつての自分と重なる。

 かつて、戦火に焼かれる故郷イズマコロニーの薄暗い港湾施設で、生き延びるためにたった一人で操縦桿を握り、宇宙空間へと逃げ出した、あの機体と全く同じ種類のものであった。

 

(……同じだ。あの時の)

 

 機体の油の匂い、座席の硬い感触。

 そして、炎と爆発、家族を失った絶望が、濁流のように脳裏へと押し寄せる。

 

「……おい、どうした。

 足元が悪いから気をつけろよ」

 

 数歩先を歩いていたカイが振り返った。

 ニャアンは、自分が背負っていた機材鞄の太い肩紐を、指の関節が白く浮き上がるほどに強く握りしめていることに気がついた。

 息が詰まる。

 喉の奥で、声にならない悲鳴が氷のように固く結ばれる。

 

(言っちゃ駄目だ。

 過去を掘り返される。

 哀れまれる。

 この男に、私の本当の傷を見せてどうする)

 

 カイの目が、わずかに見開かれた。

 彼は全てを察したはずであった。

 この泥まみれの重機が、後ろを歩く少女にとってどのような意味を持つのかを。

 しかし、カイは何も聞こうとはしなかった。

 

「……あの先のブロックまで行くぞ。

 遅れるな」

 

 カイは再び前を向き、足を踏み出した。

 ニャアンは鞄の紐からゆっくりと手を離し、強張った指先を衣服の裾で拭うと、完全な無表情を作ってその後を追う。

 あの時と同じ機体が、今は誰かの街を築いている——。

 その光景が胸の奥を抉り、彼女はその傷口は見せまいと黙りこくった。

 

 

 

 宇宙世紀〇〇八六年、四月。

 

 春の兆しはまだ遠く、カイの行動は日に日にその危険度を増していた。

 彼が接触する情報源は、薄暗い地下の酒場や、人目につかない廃工場を指定してくるようになる。

 それに伴い、ニャアンに下される指示は「ここで待て」の一言に集約されていった。

 安全な拠点——狭いホテルの部屋。

 カイが戻ってくるまでに、半日が過ぎていた。

 ニャアンは薄汚れた窓ガラスに額を押し当て、眼下に広がる見知らぬ街の景色をただじっと見下ろしていた。

 本を読む習慣はなく、暇を潰す娯楽もない。

 彼女がしているのは、主要な道路、裏路地、地下へ続く階段の位置を、脳内の白地図に焼き付ける作業であった。

 

(あの交差点を右に曲がれば、市場の裏手に出る。

 あそこの建物の隙間は、大人が一人やっと通れる幅。

 軍警が踏み込んできた時は、窓から隣の屋根へ……)

 

 誰に命じられたわけでもない。

 いつ自分の居場所が奪われても、確実にもぐり込み、逃げ延びるための逃走経路の構築。

 

「……ただいまっと。

 いやあ、下の道で何か工事しててな、埃っぽくてかなわん」

 

 唐突に扉が開き、カイが帰還した。

 彼の白い背広には、埃と紫煙、そして隠しきれない疲労と緊張の糸がまとわりついている。

 

「お帰りなさい。

 遅かったですね」

「ああ、ちょっと話が長引いてな。

 ……おい、お前ずっと外見てたのか?

 暇なら荷物の整理でもしてろって言っただろ」

「してましたよ。

 でも、外を見ておかないと、逃げ道が分からないから」

 

 ニャアンが淡々と答えると、カイは一瞬言葉に詰まり、それから小さく息を吐いた。

 

「……逃げる心配なんてしなくていい。

 ここは安全だ。

 いざとなったら俺がなんとかしてやる」

「カイさんは、いざって時は一人で逃げるタイプじゃないですか」

 

 ニャアンが唇を尖らせて軽口を叩くと、カイは「へいへい」と気のない返事をし、背広を脱ぎ捨てた。

 

「明日も俺は出かける。

 お前はまた待機だ。

 ……飯代、多めに置いとくから、ちゃんと食えよ」

 

 カイの視線が、わずかに逸れた。

 ニャアンは机の上に置かれた紙幣を見つめ、静かに悟る。

 カイの「ここで待て」は、単なる安全の確保に留まらず、自分という存在を少しずつ切り離すための準備へと変わりつつある。

 

(この人は、私を手放そうとしている。

 ……いつものことだ。

 難民なんて、そういうものだ)

 

 彼女は札束を指先でなぞりながら、静かに、来るべき別れのための計算を始めていた。

 

 

 

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