機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
宇宙世紀〇〇八六年、五月。
都市基盤の再建が進められている地方の街。
その外れに位置する大規模な土木工事の現場には、絶えず粉塵と潤滑油のにおいが立ち込めていた。
カイは工業系基盤の記録記事の取材という名目で現場に出入りしていたが、その傍らで、ニャアンは臨時雇いの作業員としてドラケンE派生形の操縦席に身を沈めていた。
「……おう、ねーちゃん。
前にも別の現場で乗ってたろ。
やっぱり筋がいいな」
「……はい。少しだけ」
親方の言葉に、ニャアンは操縦席から小さく顔を出し、短く応えた。
無骨な二本の機械腕で重い鉄骨を接合部へと精確に誘導してゆく。
右のレバーを引き、左の踏み板を踏み込む。
単純な反復作業だ。
駆動系と地面とが直接繋がっているような、確かな手応えがあった。
(……この感覚。
誰の血も流れない、泥と鉄の匂いだけが残ってる)
夕刻、作業を終えたニャアンは、親方から茶封筒を手渡された。
中には、彼女の働きに対する正規の日当が収められている。
決して手を汚すことなく、純粋な労働の対価として得た「綺麗な金」であった。
「……お疲れさん。随分と稼いだじゃねえか」
帰り道、薄汚れた白い背広の隠しに手を突っ込んだカイが、横を歩くニャアンをからかうように笑った。
「カイさんの助手より、ずっと割がいいですから」
「可愛くねえ口叩きやがって。
俺の仕事のついでに小遣い稼ぎさせてやってる恩を忘れんなよ」
「恩なんてありません。
私が自分で働いた分です」
ニャアンが不満げに唇を尖らせて言い返すと、カイは「へいへい」と軽く肩をすくめてみせた。
ニャアンは封筒を握る右手の親指に、少しばかり力を込めていた。
彼女の難民として培われた鋭敏な嗅覚は、すでに何事かを察知していたのである。
カイの視線が、最近遠くを見つめていること。
自分への眼差しに、時折、何かを抱え込んでしまったような、割れ物を扱うような、不器用な色が混じるようになっていること。
(これが最後かもしれない。
こんな風に、誰にも怯えずに機械を操り続けられるのは……)
封筒を衣服の奥深くにしまい込み、夕暮れの街を歩くカイの背中を、一定の距離を保ったまま黙って追いかけた。
六月。
季節が雨の多い時期に入る頃合い、カイの行動は明確に「危険域」へと踏み込んでいた。
彼が追っているのは、ティターンズの極秘の部隊運用や、それに対抗する組織の情報の核心である。
それに伴い、ニャアンとの間にあった穏やかな日常の風景は、急速に色を失っていった。
「……俺は出かける。お前はここで待て。
絶対に外に出るな」
窓のよろい戸が閉め切られた、ホテルの薄暗い一室。
カイが外回りの支度を整えながら、背中越しに短い指示を飛ばした。
「……またですか。
私、一応『荷物持ち』の契約なんですけど」
「足手まといなんだよ。
ここから先の取材対象は、お前みたいなのがうろちょろしてると警戒する連中ばかりだ」
カイは決して振り返ろうとはしなかった。
ニャアンは、彼のその拒絶めいた態度に、それ以上の反論を重ねることはしなかった。
数ヶ月前であったなら、「じゃあ給料から引かないでくださいよ」と軽口の一つでも返していたはずである。
しかし、彼女は口を一文字に結んだまま、壁際の椅子に深く腰を下ろした。
(……嘘だ)
カイが取っ手に手をかけた瞬間、ニャアンは乱暴に息を吐く音を聞いた。
(この人は、私を手放す準備をしている。
危険な場所に巻き込まないように——)
難民として冷たい宇宙を漂流してきた彼女にとって、「守られること」=「いつか切り捨てられること」であった。
本当に必要な人間であるなら、どれほど危険であっても手元に置いて使い潰すのが、彼女の知る世界の冷徹な常識なのだ。
遠ざけられるということは、自らが必要されないという痛烈な証明である。
(……いい。わかってる。また渡されるんだろう。
私は、ただの荷物だから)
扉が閉まり、部屋の中に重い静寂が落ちた。
ニャアンは感情を表に出さず、膝を抱えるようにして衣服の生地を指先まで白くなるほどきつく握りしめていた。
孤独な待機時間が、彼女の心を静かに冷やし続けていく。
三十バンチ事件から、ちょうど一年が経とうとしていた七月末のことである。
ニューヨークの港湾施設に併設された、物資輸送を担う定期便への搭乗口。
そこには、むせ返るような湿気と、行き交う作業員たちの絶え間ない喧騒に満ちていた。
広い通路の片隅で、カイは不意に立ち止まった。
ニャアンも、数歩離れたところで足を止める。
カイは懐から一枚のチケットを取り出した。
振り返りざまに、ニャアンの胸元へと無造作に押し付ける。
ニャアンは反射的に両手で受け取った。
「次の取材が長くなる……お前みたいな荷物、ずっと持ち歩ける余裕は俺にはない」
カイの視線が、ほんの一瞬だけニャアンから逸れた。
小さく、はっきりと聞き取れるほどの息を吐き出したのである。
彼特有の致命的な
「次は、
あいつなら、俺と違って真面目だからな。
それに……」
カイの言葉が、一瞬だけ途切れた。
「メカニックの仕事があるらしい」
その言葉を聞いた瞬間、ニャアンの指先がびくっと跳ね、チケットの縁が折れ曲がるまで強く握りしめた。
普段であれば、「勝手に決めないでください」「荷物って何ですか」とすぐに噛み付いていたはずである。
だが、今の彼女は完全に口を閉ざしてしまっていた。
顔の表情は凍りつき、ただ黒い瞳だけがカイの顔をじっと見つめ返している。
(……ずるい。最後に、そんな餌をぶら下げるなんて——私が、あのプチ・モビを動かすのを、どんな気持ちでやっていたか知っているくせに)
カイは、ニャアンが何よりも大切にしていた「手を汚さずに働ける場所」を用意してやることで、彼なりの最大限の配慮と、これ以上危険な世界に巻き込まないという明確な線引きを行ったのである。
(……でも、突き放すんだ。
結局、みんな同じ。
面倒になると、安全な場所に放り込んで終わりにしようとする)
ニャアンは、一度だけ、深く瞬きをした。
反論はいっさいしない。
感謝の言葉も伝えない。
この不器用な大人との間で結ばれた「言わないことで成立する関係」の、彼女なりの最後の答えであった。
「……飯は、ちゃんと食えよ」
カイの口から最後に出たのは、謝罪の言葉でも別れの挨拶でもなく、単なる心配事であった。
カイは手帳を取り出し、何かを書き込むふりをしながら背を向けた。
そして、二度と振り返ることなく、雑踏へと消えていった。
ニャアンは、カイが完全に見えなくなるまでその場に立ち尽くし、やがてチケットをきつく握りしめたまま、指定された搭乗口へと重く足を踏み出した。