機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
宇宙世紀〇〇七九年一二月三一日、一〇〇〇時。
ア・バオア・クーの宙域は、すでに「戦場」と呼称することすら躊躇われる、血と硝煙、そして剥き出しの狂気が渦巻く巨大な屠殺場へと成り果てていた。
ビーム撹乱膜がもたらした泥沼の乱戦は、彼我の戦術的優位性を完全に剥奪し、パイロットたちに最も原始的で無益な殺し合いを強要し続けている。
その無秩序な地獄の底にあって、シイコ・スガイ中尉が駆る漆黒のRX-77D、通称「黒いガンキャノン」の存在は、連邦・ジオンの両軍にとって、もはや理解の範疇を超絶したひとつの
彼女の機体が行っているのは、モビルスーツという兵器の基本設計思想、ひいては物理法則そのものに対する極めて冒涜的な反逆であった。
宙域に漂流するデブリや敵艦の残骸にワイヤーアンカーを打ち込み、それを支点として強烈な遠心力を発生させ、慣性を完全に無視した
確かに、空間戦闘において敵の未来予測射撃を無効化する最も合理的かつ悪辣な戦術の一つであるかもしれない。
だが、その機動が機体構造とパイロットの肉体に強いる負荷は、設計者の想定した安全係数を遥かに、そして絶望的なまでに凌駕するものであった。
重装甲を纏った上半身の巨大な質量。
細身に削ぎ落とされた下半身のフレーム。
無理やり増設された規格外の高出力スラスターの推力によって、文字通り振り回されているのである。
機体の各関節――マニピュレーターやフレームの接合部――からは、金属が断末魔の悲鳴を上げるような軋み音が絶えず発せられた。
限界を超過したジェネレーターは異常な熱量を宇宙空間へ排出し続けていた。
その破滅的な危機状況は、母艦である強襲揚陸艦の戦術管制室、とりわけ機体の状態を遠隔モニタリングしている整備班のコンソールに、残酷なまでの
「スガイ中尉! 応答してください!
下半身のジェネレーター温度がレッドゾーンを突破しています!」
戦術通信回線に、整備班長の悲痛な絶叫が響き渡る。
その声は、軍隊における下士官のそれというよりも、自らが手塩にかけた機械が今まさに自壊しようとしているのを目の当たりにした、技術者の絶望的な悲鳴に近かった。
「脚部の追加スラスターをこれ以上吹かすと、フレームが千切れますよ!
推進系の臨界点を超えている!
直ちに推力を落とし、冷却態勢に移行してください!」
整備班長の警告は、技術的見地からして全くもって正しかった。
RX-77系本来のフレーム強度は、そのような異常なトルクと急加減速に耐え得るようには設計されていない。
機体が空中分解するのは、もはや秒読みの段階であった。
だが、その切羽詰まった警告に対するスガイ中尉の返答は、連邦軍の通信プロトコルを完全に無視した、広域オープン回線による無差別な音声信号として戦域全体にばら撒かれたのである。
『……
暗号化すらされず、敵味方の区別なく受信される、氷のように冷たく、そして恐ろしいまでに澄み切った女の声であった。
荒い息遣いも、Gの負荷による苦痛の呻きも、戦闘の高揚に伴う興奮も、一切含まれていない。
まるで無菌室で朗読されたかのような、抑揚のない古い英語の詩篇。
その声は、悲鳴と爆音にまみれた戦場のノイズの中でひどく場違いでありながら、聞く者の脳髄の最も原始的な恐怖を刺激する、絶対的な冷気を持っていた。
『……
詩の朗読に続き、ただ一言、凍りつくような宣告が放たれる。
機体の崩壊を警告した整備班に対する返答であったのか。
それとも、目前に立ち塞がるジオン軍のモビルスーツ部隊に対する死の宣告であったのか。
あるいは、文字通り彼女の傍らに寄り添う「死神」という概念そのものに対する退去命令であったのか。
真意を測りかねる間にも、黒い魔女の機体は一切の減速を見せず、むしろスラスターの出力をさらに引き上げ、蒼白い推進炎を長く尾を引きながら、ジオン軍の防衛線へと一直線に突っ込んでいったのである。
「だめだ、完全にトランス状態に入っている……!」
コンソールにすがりつく整備班長の絶望的な呟きが、通信回路に漏れ聞こえた。
「誰か! 誰か中尉の射線から味方を離させろ!
あの人はもう、目の前の動くもの全てをミンチにするまで止まらないぞ!」
その言葉は、単なる
スガイ中尉の狂気的な機動――。
すでに敵味方の識別という戦術的な大前提すらも置き去りにしつつあった。
彼女がデブリにアンカーを打ち込み、巨大な振り子のごとく急旋回を行うたびに、ワイヤーの軌道上や旋回半径内に存在する機体は、それが連邦のジムであろうがジオンのドムであろうが、無慈悲に弾き飛ばされ、あるいは十字砲火の巻き添えを食う危険に晒されたのである。
「全機、第四中隊の黒いキャノンの空域から離脱しろ!
巻き込まれるぞ!」
小隊長たちの怒号が飛び交う。
我々連邦軍の前衛部隊は、まるで猛獣の檻から逃げ出すようにして、味方であるはずの彼女の進路上から蜘蛛の子を散らすように退避した。
その直後。
黒いガンキャノンは無人の野を行くがごとくジオンの部隊へと突入。
両手の九〇mmマシンガンと至近距離からのキャノン砲によって、次々と敵機を粉砕していった。
宇宙空間に漂うのは、十字の傷を穿たれ、頭部やコックピットを吹き飛ばされたジオン兵の無惨な棺桶ばかりである。
我々は、自らが生み出し、共に戦線に並び立ったはずのその「味方」の姿に、敵に対するそれと同等か、あるいはそれ以上の深い戦慄を覚えた。
遠巻きにその殺戮の舞踏を眺めることしかできなかった。
一一〇〇時。
ア・バオア・クーの泥沼の戦場において、突如として奇妙な現象が観測された。
それまで、死に物狂いで抵抗を続けていたジオン軍のモビルスーツ部隊や艦艇群の動きが、まるで巨大な生物が脳天を撃ち抜かれたかのように、唐突に鈍り始めたのである。
彼らの統制された陣形は見る間に崩れた。
連携は途絶え、ある機体は目的を失ったように宙空に立ち尽くす。
また、ある機体は
彼らを突き動かしていた強固な意思——ア・バオア・クーを死守するという絶対的な大義が、突如として消失したかのような、明らかな
「敵の動きが止まったぞ……何が起きたんだ?」
私の僚機が、訝しげな声を上げる。
後になって判明することだが、この時刻、ア・バオア・クー要塞内部において、ジオン公国の最高指導者であるギレン・ザビ総帥が暗殺(公向けには名誉ある戦死と発表された)されたのである。
絶対的な独裁者の唐突な死は、将兵の士気を根底からへし折り、防衛指揮系統に修復不能な麻痺をもたらしたのだ。
地球連邦軍の艦隊司令部が、この千載一遇の間隙を見逃すはずがなかった。
「敵の指揮系統に重大な混乱が発生している模様!
全軍、直ちに要塞表面への取り付きを開始せよ!
陸戦部隊を降下させ、拠点を制圧しろ!」
新たな命令が、残存する全艦艇とモビルスーツ部隊に下達された。
目標は、ア・バオア・クー。
あの巨大な傘のような形状をした、ジオンの絶対国防圏の心臓部である。
我々モビルスーツ部隊は、スラスターを全開にして要塞の巨大な地表へと殺到した。
ホワイトベースをはじめとする強襲揚陸艦群も、弾幕を張りながら要塞表面への強行着底を試みる。
だが、ジオン軍の指揮系統が混乱しているとはいえ、要塞そのものが持つハリネズミのような対空防衛網が完全に沈黙したわけではなかった。
要塞表面に無数に設置された対空メガ粒子砲、ミサイル・ランチャー、そして機関砲のトーチカ群が、近づく連邦軍部隊に向けて最後の悪あがきとばかりに濃密な弾幕を張り巡らせていたのである。
「突っ込め! ここで立ち止まれば蜂の巣だ!」
私はジムのシールドを前面に構え、祈るような気持ちでスロットルを押し込んだ。
宇宙空間の無重力状態から、要塞の人工重力圏へと突入する。
機体が僅かに沈み込むような感覚と共に、周囲を飛び交う光条の密度が劇的に跳ね上がった。
着底の衝撃。
ア・バオア・クーの地表は、無骨な岩石と金属の建造物が入り組む、陰惨な月面のような光景であった。
我々強襲陸戦隊は直ちに散開。
地表のトーチカ群や砲台の制圧へと向かった。
しかし、それは想像を絶する困難な任務であった。
一二〇〇時。
連邦軍の陸戦部隊がア・バオア・クーの地表に着底したものの、戦況は即座に膠着状態へと陥った。
ジオン軍の防衛施設は、地形を巧みに利用した極めて強固なものであり、地表の起伏や建造物の陰から、文字通り
戦術データリンクを通じて、強襲陸戦隊第二小隊から悲痛な戦闘詳報が上がってきた。
その内容は、彼らが直面した絶望的な戦況と、そこへ舞い降りた漆黒の魔女がもたらした、背筋の凍るような「救済」の記録であった。
『戦闘詳報:強襲陸戦隊 第二小隊』
『報告者:不明(RGM-79 ジム搭乗員)』
『一二一〇時、当小隊は要塞表面、第六対空砲台周辺のエリアに着底。
直ちに砲台施設の制圧行動に移行した。
しかし、当該エリアは敵のトーチカ群による極めて濃密な
先行した僚機二機が対空砲火の直撃を受けて大破・炎上。
我々は地形の陰に釘付けにされ、部隊の全滅は時間の問題と思われた。
その時である。
我々の頭上、要塞上空の暗闇から、スガイ中尉の搭乗するRX-77D黒いガンキャノンが降下してきたのである』
報告書の文面は、その異常な光景を目撃したジムのパイロットの、畏怖と困惑がない交ぜになった感情を如実に物語っていた。
『我々は、中尉の機体が無防備に上空から降下すれば、たちまち対空砲火の的になると危惧した。
だが、中尉の機体の前面には、信じ難いものが展開されていた。
中尉は降下する直前、自らが宇宙空間で撃墜した敵のモビルスーツ——ゲルググの巨大な残骸の胴体部分に、機体腰部からワイヤーアンカーを深く打ち込んでいたのである。
中尉は、そのゲルググの残骸をワイヤーで牽引し、自機の前面に『物理的な盾』として展開しながら、一直線に要塞地表のトーチカ群へと降下を敢行したのだ。
敵の対空砲火——メガ粒子砲の直撃や機関砲の弾幕は、すべて中尉の機体の前面に展開されたゲルググの残骸に着弾した。
かつてジオンの兵士が乗り込んでいたはずのその分厚い装甲は、今や連邦軍の機体を守るための単なる
中尉はその残骸の盾の陰に完全に身を隠しながら、残骸の隙間、あるいは残骸の肩越しから、両肩の二四〇mmキャノン砲の砲口だけを覗かせ、精密かつ無慈悲な砲撃を行った。
キャノン砲の直撃を受けた敵のトーチカは、次々と沈黙し、吹き飛んでいった。
敵の防御陣地は、自軍のモビルスーツの残骸を盾にして迫り来る黒い悪魔に対し、全く有効な反撃を行うことができず、ただ一方的に蹂躙されていったのである』
報告者は、この信じ難い戦術的判断——のちに「
『中尉の戦術は、防御力の確保と敵への精神的打撃という観点において、あまりにも合理的であり、完璧であった。
我々第二小隊は、彼女の強行突入のおかげで全滅を免れ、現在、残存する敵施設の掃討を行っている。
だが……報告書に個人的な見解を付記することをお許しいただきたい。
自らが殺した敵の亡骸にワイヤーの楔を打ち込み、それを盾として利用しながら敵陣に突っ込む。
その漆黒の機体の姿を見た時、私は助けられたという安堵よりも先に、背筋が凍りつくような、根源的な恐怖を感じた。
あれは、我々が知る地球連邦軍の戦い方ではない。
彼女の存在は、我々が守ろうとしている人間性そのものを、足元から腐らせていくような気がしてならない。
報告は以上である』
戦術的合理性の極致は、往々にして狂気と区別がつかなくなる。
シイコ・スガイ中尉が行った行為は、確かに彼女自身と友軍の生存確率を最大化するための、極めて理にかなった手段であった。
モビルスーツの分厚い装甲材は、内部の人間が死滅した後であっても優秀な防弾板として機能する。
それを盾に使うことの、一体何が悪いというのか。
戦場において、生存すること以上に優先されるべき高邁な倫理など存在するのか。
だが、我々は人間である。
いかに血生臭い戦場にあろうとも、死者に対する最低限の尊厳や、敵に対する武人としての敬意という、目に見えない一線を引くことで、辛うじて自らが単なる「殺戮機械」へと堕ちることを防いでいるのだ。
彼女はその一線を、いとも容易く、一切の躊躇なく踏み越えたのである。
敵の残骸を盾にし、文字通り「
その姿は、ア・バオア・クーの地表という地獄の風景の中にすら収まりきらない、あまりにも異質で、冷酷な光景であった。
「……あいつは、本当に人間なのか?」
私は、地表の制圧を進めながら、通信回路のノイズの向こうに消えていった彼女の漆黒の機体を思い浮かべ、一人呟いた。
彼女が救ったのは、我々の肉体だけである。
その代償として、我々は自軍の中に巣食う「本当の悪魔」の姿を目の当たりにし、心に深い冷え冷えとしたトラウマを刻み込まれたのだ。
ア・バオア・クーの戦いは、まだ終わっていない。
要塞内部の制圧という、さらなる地獄の閉鎖空間での殺し合いが、我々を待ち受けている。
そして、あの黒い魔女もまた、血の匂いを嗅ぎつけた猟犬のように、要塞の奥深くへとその歩みを進めているはずであった。