機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
宇宙世紀〇〇八六年、十一月。
秋が深まり、カラバの地上拠点にも冷たい風が吹き込むようになっていた。
格納庫の薄暗い照明の下、ニャアンはRX-79[G]の右腕部装甲を取り外し、内部骨格の点検を行っていた。
彼女の指先が、肘関節の筐体接合面をなぞり、ぴたりと止まる。
(……段差がある。
ボルトの締まり方も、前回とは明らかに違う)
計測器を当てると、振動周波数が正常な範囲を逸脱していた。
金属疲労の初期兆候である。
一年戦争期であるUC〇〇七九年に製造されたこの機体は、すでに七年近い歳月を生き延び、過酷な地上戦の衝撃をフレームに蓄積させ続けてきたのだ。
支給された情報端末で連邦軍の現行の部品目録を検索する。
しかし、該当する型番は存在しなかった。
製造ラインは、とうの昔に閉鎖されてしまっている。
(代わりの部品がない。
いつか必ず、修復できない時が来る)
自分と同じだ、とニャアンは静かに思った。
一度壊れてしまったものは、どんなに誤魔化して使い続けてみても、決して元には戻らない。
ニャアンは記録端末に、「右腕部肘関節フレーム材、金属疲労初期兆候。要継続監視」とだけ入力した。
それは事実上の余命宣告にも等しい記録であった。
彼女はチェーンに口頭で「次の任務後に要確認です」とだけ伝えた。
チェーンは短く頷いた。
それ以上、語るべき言葉は二人にはなかった。
仕事を着実にこなして、居場所を確立しつつあったニャアン。
しかし、皮肉にも彼女の最も恐れるものを引き寄せる結果となってゆく。
拠点内を移動していた折、ハヤトの養子であるカツ・コバヤシが、親しげに駆け寄ってきた。
「ニャアンさん、いつもあのジムもどきの整備やってるよね。
手際いいけど、どこ出身なの?」
無邪気だが、明確に「境界線」を越えてくる踏み込んだ問いであった。
ニャアンの足が止まり、表情が完全に凍りつく。
(出身。
……なんでそんなことを聞くの。
私がどこから来て、何を見てきたか、あなたには関係ない。
踏み込まないで。
私に、あの記憶を引っぱり出させないで)
彼女はカツの顔を見ることはなく、作業用の手袋をはめた両手を体の脇で固く握りしめた。
「……サイド2」
それだけを答え、彼女は心の中に見えない分厚い鉄の扉をガシャンと下ろした。
感情を排した、会話を強制終了させるための声音。
カツは一瞬言葉に詰まり、気まずそうに視線を
ハヤトの家で夕食の片付けを手伝っていた時のことである。
カラバの協力者であるベルトーチカ・イルマが、皿を拭きながらふと口を開いた。
「あなた、カイ・シデンのところにいたんでしょ」
カツの時とは違う、有無を言わさぬ鋭い事実の確認であった。
ニャアンの手が、ほんの一瞬だけ止まる。
(この人は、知っている。
私がカイさんに拾われたってこと。
……迂闊な嘘はつけない)
ニャアンは皿を棚に収め、重い沈黙を置いた後、振り返らずに答えた。
「はい」
感情の起伏を感じさせない、独特の間を持った肯定。
ベルトーチカはそれ以上何も聞こうとはしなかった。
ニャアンは再び、黙々と皿を洗い続けた。
詮索を避けるために心を閉ざすほど、周囲の人間は彼女の抱える影に気づき始めていたのである。
一二月。
エゥーゴから出向してきたパイロット、ケーラ・スゥとの初任務。
ニャアンは航法案内の補助入力をしながら、ただ黙ってそれを聞いていた。
任務が無事に終わり、格納庫へ戻る昇降段を降りていた時のことである。
前を歩いていたケーラが、ふと振り返って無邪気に笑った。
「ニャアンはさ、宇宙の方が好き? 地球の方が好き?」
その瞬間、視界がぐらりと揺れる。
地球か、宇宙か。
そんな単純な二択ではない。
彼女の出発点は、「地球に来た」ことではなく、戦火に焼かれたコロニーから「宇宙の暗闇へ放り出された」ことなのだ。
(宇宙。
冷たくて、暗くて、家族がみんな死んだ場所。
地球。
重力があって、息ができて、でも私はここで生きてきた。
どっちが好きかだなんて……そんなの)
喉の奥がヒューッと鳴る。
息ができない。
彼女は咄嗟に手元の整備記録用端末の縁を、骨が軋むほど強く握りしめた。
言葉が出ない。
即答してやり過ごそうとする防衛本能とは裏腹に、彼女の体は触れられたくない傷跡を抉られて硬直してしまった。
「……えっと、ごめん。
変なこと聞いたかな」
ケーラが困惑した表情を見せたところで、ニャアンは薄く息を吐き出し、首を横に振った。
「……どっちも、同じです」
絞り出した声はかすれていた。
それ以上何も言えず、逃げるようにその場を立ち去った。
(なんで、誰も放っておいてくれないの。
私は、透明な部品になりたいだけなのに。
優秀に振る舞えば振る舞うほど、みんなが私に気づく。
私の中を見ようとする。
やめて……見ないで)
数日後、格納庫で整備記録を入力していた時のこと。
背後から覗き込んできたカツが、端末の画面を目撃した。
「これって……
じゃあ、あのジムもどき、実はアムロが乗っていたのと……」
カツの声にハッとしたニャアンは、無言で端末の覆いをぱたんと閉じた。
(見られた。
でも、説明なんかしない。
言い訳もしない。
私が黙っていれば、誰もそれ以上は踏み込めない)
カツは何かを察したように口をつぐみ、それ以上は聞いてこなかった。
ニャアンの徹底した沈黙が、彼との間に決定的な壁を築き上げていた。
年の瀬が訪れた。
ハヤトの家の大きな食卓に温かい料理が並べられ、ハヤト、ミライ、カツ、そして数人のカラバの顔ぶれが賑やかに食卓を囲んでいる。
その末席に、ニャアンも座っていた。
彼女の前には、定位置に置かれた彼女のための皿と、温かい汁物があった。
(……ご飯。
決まった時間に、決まった場所で)
ニャアンは、匙を持ったまま、周囲の笑い声と食器の触れ合う音を静かに聞いていた。
イズマコロニーの薄暗い安宿で、カイが放り投げた冷めた間食をかじっていた日々。
それよりも前の、明日食べるものすら分からなかった難民としての逃亡生活。
あの頃には、決して存在しなかったものである。
(私に、席がある。
同じ場所に帰ってきて、同じ時間に食卓に座る。
追われることも、逃げる心配も、銃口に怯えることもない。
明日もまたこの場所で、いつもの仕事が待っているだけ)
彼女は、温かい汁物を一口、ゆっくりと飲み込んだ。
胃の腑に落ちていくその熱は、カイが彼女に与えようとした「真っ当な日常」の温度そのものであった。
あの皮肉屋で不器用な記者が、遠いどこかで今も危険な橋を渡っているであろう、と思い出しながら。
ニャアンは黙って、故郷を失って以来初めて手にした「決まった場所の決まった食卓」の温もりを、深く噛み締めていた。
次回からU.C.0087年に入ります。
シイコから見た グリーンノアでの出来事を描いていきます。