機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】 作:王子の犬
宇宙世紀〇〇七九年一二月三一日、一三〇〇時。
ア・バオア・クーの地表における、血反吐を吐くような橋頭堡確保の死闘。
我々地球連邦軍の強襲陸戦部隊は、ついにこの巨大な宇宙要塞の内部構造へとその足を踏み入れた。
外部の絶対的な暗黒を誇る宇宙空間とは異なり、要塞内部は人工照明の無機質な光芒と、破壊された隔壁から絶えず漏れ出す冷却ガスや推進剤の白煙に満たされた、極めて息苦しい
戦術データリンクの向こう側。
我々とは別の
彼らの闘争は、人類の革新と宇宙世紀の次なるパラダイムを決定づける、文字通りの「
だが、我々のような重力に魂を縛られたままの凡庸な
ただ泥臭く、血生臭く、そして極めて物理的な殺し合いだけが、狭隘な通路の至る所で淡々と展開されていたのである。
我々第四大隊の前衛ジム小隊は、複雑に入り組んだ
モビルスーツという全高一八メートル級の巨大な人型機動兵器にとって、要塞内部の通路はあまりにも手狭に過ぎた。
不用意にビーム・スプレーガンを発砲すれば、壁面で乱反射したメガ粒子が自機の装甲を焼く危険性があった。
必然的に実体弾とビーム・サーベルによる、息の詰まるような
その極限の閉鎖空間に、分厚いハッチを強引にこじ開けて侵入してきた一機の機体があった。
シイコ・スガイ中尉の搭乗する、あの漆黒のRX-77D「黒いガンキャノン」である。
本来、ガンキャノンという機体は、中距離からの支援砲撃を主眼として設計された火力プラットフォームである。
開けた視界と十分な射程距離が確保されてこそ真価を発揮する兵器であり、このような逃げ場のない狭隘な閉鎖空間に持ち込むなど、戦術的狂気の沙汰以外の何物でもなかった。
だが、彼女の機体は、設計局の想定したあらゆるドクトリンを根底から嘲笑うかのような、異端中の異端に他ならなかった。
一四〇〇時。
工場区画のメインストリートとも呼べる巨大な搬入用通路において、我々はジオン軍の
瓦礫の陰や上層のキャットウォークから、ザクⅡやリック・ドムによる容赦のないバズーカの弾幕が降り注ぐ。
前進を完全に阻まれ、我々がコンテナの陰で身を縮めていたその時、我々の頭上を巨大な黒い影が飛び越えていった。
「中尉の機体だ……!」
誰かが通信回線で叫んだ。
次いで我々が目撃した光景は、モビルスーツという兵器の運用概念を根底から破壊する、悪夢のような機動戦であった。
彼女の黒いガンキャノンは、腰部に増設されたワイヤーアンカーを、通路の壁面、天井、果ては空中に浮遊する残骸に向けて次々と射出。
スラスターによる直線的な推力ではなく、ワイヤーの巻き取りによる極めて強烈な張力と遠心力のみを行使して、無重力の空間を縦横無尽に跳ね回り始めたのである。
分厚い増加装甲を纏った数十トンの質量が、一切の予備動作なしに天井へ張り付き、次の瞬間には真横の壁面へと跳躍する。
ジオンの兵士たちが慌ててバズーカの砲口を向けるが、その照準は、上下左右の概念を完全に喪失したその異次元の「立体機動」に全く追いつくことができない。
「追いつけない……!
なんだあの黒いのは、ワイヤーで壁や天井を跳び移ってやがる!
ガンキャノンってあんな動きができる機体だったのか!?」
私の僚機が、恐怖と驚愕がない交ぜになった悲鳴を上げた。
全く同感であった。
あれはもはや人型機動兵器などではない。
巨大な黒い毒蜘蛛か、あるいは獲物をいたぶる捕食生物の挙動そのものであった。
黒い魔女は、天井から弾かれたように敵陣のど真ん中へと落下すると、着地の衝撃を殺すこともなく、目前のザクⅡの胸部にワイヤーの「楔」を至近距離から打ち込んだ。
そして、ワイヤーを急激に巻き取って自らと敵機を強制的に密着させると、逃げ場のない通路内に鼓膜を破壊せんばかりの轟音を響かせながら、二四〇mmキャノン砲をゼロ距離で叩き込んだのである。
爆炎と、飛び散る装甲の破片。
頭部とコックピットを完全に消し飛ばされたザクが崩れ落ちる前に、彼女はすでに次のワイヤーを別の壁面へと射出し、再び暗がりの中へと跳躍していた。
それは、絶対に逃れることのできない「死神」の舞踏であった。
彼女は被弾を全く恐れていない。
上半身の重装甲で弾けるものは弾き、避けられない攻撃は、先ほど撃ち殺した敵の残骸を盾にして凌駕する。
我々連邦兵は、ただ呆然と、そのあまりにも理不尽で一方的な蹂躙劇を眺めていることしかできなかったのである。
一五〇〇時。
戦況は、突如として劇的な決着を迎えた。
ジオン軍の防衛線が、完全に、そして物理的に崩壊したのである。
総帥に続き、実質的な最高司令官であったキシリア・ザビ少将までもが戦死したという未確認情報が戦域を駆け巡り、統制を完全に喪失したジオン軍の残存部隊は、我先にとア・バオア・クーを放棄して逃亡を開始した。
要塞の奥深くへ向かっていた敵機が突如として踵を返し、脱出用のハッチや港湾施設へと向けて無様に背を向けて走り出したのだ。
「敵が逃げていくぞ……! 勝った、俺たちの勝利だ!」
連邦軍の通信回路が、歓喜の雄叫びに包まれた。
我々は生き残ったのだ。
あのソーラ・レイによる圧倒的な絶望から、泥沼の白兵戦を経て、ついにこの無益な戦争に終止符を打ったのである。
多くのパイロットが戦闘態勢を解き、逃げゆくジオン兵の背中をただ黙って見送ろうとしていた。
これ以上の無意味な流血は必要ない。
軍人としての、あるいは人間としての最低限の理性であった。
だが、その歓喜の輪の中に、あの黒い魔女の姿は存在しなかった。
「スガイ中尉! 敵は撤退を開始しました!
戦闘を停止し、帰還してください! 中尉!」
戦術管制室からの悲痛な帰投命令が、オープン回線で幾度も繰り返される。
しかし、彼女の漆黒の機体は一切の通信に応答することなく、無言のまま逃げ惑うジオン軍部隊の背中へと凄絶な突進を継続したのである。
搭載弾薬はとうの昔に尽き果てていた。
両肩のキャノン砲は熱でひしゃげ、マシンガンは投げ捨てられている。
それでも彼女は、ワイヤーアンカーで逃げる敵機の脚を絡め取り、引き倒し、マニピュレーターで装甲を力任せに引き剥がし、あるいは奪い取った敵のヒート・ホークでコックピットを無慈悲に叩き割っていった。
もはや、それは戦争ですらなかった。
戦術的な意味を全く持たない、単なる「屠殺」である。
なぜ、彼女は戦いをやめないのか。
なぜ、勝利が確定したこの期に及んで、なおも自らの手を血で染めようとするのか。
狂気。
怨念。
戦争というシステムが産み落とした致命的なバグ。
我々は皆、背中を向けて逃げ惑う敵兵を淡々と狩り続けるその黒い機体の姿。
底知れぬ恐怖と、一種の嫌悪感すら抱いていた。
彼女は連邦軍の軍人ではない。
我々の理解を超絶した、単なる殺戮の権化なのだと。
一六〇〇時。
ア・バオア・クー全域の制圧が完了し、地球連邦軍の勝利が公式に宣言された。
戦闘は完全に終結した。
メガ粒子砲の閃光も、爆発の轟音も消え去り、要塞の内部には、冷却ガスの噴出音と、金属が軋む微かな音だけが支配する、不気味なほどの静寂が訪れた。
連邦軍の回収班が各宙域や要塞内部へと散開。
生存者の救出と、膨大な数に上るモビルスーツの残骸の回収作業を開始した。
我々もまた、疲労困憊の極致の中で自機を母艦へと帰投させ、泥のように重い身体を引きずってコックピットから這い出した。
生きて帰ってきたという実感すら湧かない。
ただ、あの地獄から解放されたという圧倒的な虚脱感だけが全身を支配していた。
* * *
【戦闘詳報(事後):強襲揚陸艦ルザル 整備班長レポート】
一六三〇時。
ア・バオア・クーの戦闘空域に展開していた我が強襲揚陸艦ルザルのMSデッキに、最後の帰還機が着艦した。
シイコ・スガイ中尉の搭乗する、RX-77D「黒いガンキャノン」である。
自力でデッキに降り立ったその機体の状態は、凄惨、あるいは凄絶の一言に尽きた。
上半身に増設されていた分厚い追加装甲は、敵の無数の砲火を浴びてドロドロに溶け落ち、原型を留めていない。
極限の機動を支え続けた下半身の増設スラスター群は完全に焼き切れ、炭化した金属の塊と化していた。
機体の代名詞であった腰部のワイヤーユニットに至っては、異常な巻き上げと強烈な張力によってモーターが発火した痕跡があり、黒焦げのワイヤーが力なく垂れ下がっている。
機体の全関節からは油圧液が血のように滴り落ち、メインジェネレーターは限界を遥かに超えた稼働により、不気味な重低音のノイズを発していた。
今にも爆発するのではないかと、整備兵たちが慌てて消火剤と冷却ガスを浴びせかける。
シューという作動音と共に、胸部のコックピット・ハッチが重々しく開いた。
周囲を囲んだ我々は、息を呑んだ。
凄まじい機体の損傷具合とは裏腹に、コックピットから姿を現したスガイ中尉本人は、文字通り「無傷」であった。
ノーマルスーツに一滴の血も、焦げ跡すらついていない。
だが、ハッチの縁に手をかけ、ゆっくりと立ち上がった彼女の瞳には、何の感情も宿っていなかった。
生存の喜びも、勝利の高揚も、あるいは殺戮を終えた疲労すらもない。
彼女はただ、焦点の合わない、黒曜石のように冷たく虚ろな瞳で、MSデッキの虚空をじっと見つめたまま、一言も発しようとはしなかった。
その魂の抜け殻のような姿を見た時、私は、彼女がア・バオア・クーの暗がりの中で戦っていたのは、ジオンの兵士ではなく、彼女自身の内側に巣食う巨大な絶望だったのではないかと直感した。
本戦闘における、スガイ中尉の公式確認撃墜数は、
たった一機の、それも中距離支援機によって叩き出されたとは到底信じ難い、一年戦争の全記録を見渡しても類を見ないほどの異常なスコアである。
彼女は間違いなく、ジオン軍にとって最悪の死神であり、我々連邦軍にとっても畏怖すべき狂気の体現者であった。
だが、戦後のデータ集計が進むにつれ、我々はある一つの、決定的な「事実」に気がつくこととなる。
スガイ中尉が所属し、共にあの泥沼の最前線、閉鎖空間での制圧戦を戦い抜いた我々第四大隊前衛部隊。
その小隊員の生還率は、驚くべきことに「一〇〇%」であった。
誰一人として、戦死者を出していなかったのである。
我々は、あの黒い機体が狂ったように前線へと突出し、敵の陣形をかき乱し、殺戮の限りを尽くす姿を見て、彼女を「戦争のシステムが生み出した化け物」だと忌み嫌っていた。
彼女の射線上に立つことを恐れ、彼女を狂人だと断じていた。
しかし、現実はどうであったか。
彼女が前線で誰よりも早く敵の懐に飛び込み、信じ難い機動で敵の
彼女が敵の残骸を盾にして突き進んだその背後こそが、この地獄のア・バオア・クーにおいて最も安全な「死角」であったのだ。
彼女は、ジオンの残党が逃げ惑う中、通信を絶って狩りを続けた。
それは単なる殺戮衝動などではなかったのだ。
敵に反撃の隙を与えず、我々未熟な連邦のパイロットたちに一切の危険を及ぼさないよう、最後の一機に至るまで、戦場の全ての悪意を自らの機体一つで引き受け、徹底的に粉砕しようとしていただけなのだ。
報告書の結びとして、私は一人の整備班長としての、いや、彼女に命を救われた一人の連邦軍兵士としての個人的な見解をここに記しておきたい。
『シイコ・スガイ中尉。
彼女の戦術ドクトリンは、確かに軍の教義を逸脱し、人道的な倫理を著しく欠いた、血塗られたものであったかもしれない。
味方である我々でさえ、彼女の背中を見るたびに恐怖に震え上がった。
しかし、彼女は決して、無差別に命を刈り取る『死神』などではなかった。
彼女は、自らの精神をすり減らし、機体を焼き尽くし、人間としての尊厳すらも供物として捧げて、誰よりも我々を守るために、自ら進んで『鬼』になっていたのだと推測する。
あのア・バオア・クーの地獄において、我々が五体満足で故郷の土を踏むことができるのは、神の加護でも、ニュータイプの奇跡でもない。
自らの手を血と泥に染め、全ての罪と怨念を背負って戦場を駆け抜けた、あの異形の守護者がいてくれたからに他ならない』
彼女がコックピットで見せたあの虚無の瞳。
それは、我々の代わりに地獄の底を覗き込み続け、全てを焼き尽くしてしまった者の、あまりにも悲しく、そして崇高な残骸であった。
宇宙世紀〇〇七九年。
我々の戦争は終わった。
だが、あの喪服を着た黒い魔女の背中を、我々が生涯忘れることはないだろう。
そして、U.C.0080へ……