機動戦士Gundam 喪服の魔女【第三部進行中】   作:王子の犬

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《84》意味の真空と魔女の抱擁(U.C.0087年 3月10日)

 

 

 

 三月一〇日。

 

 前日のティターンズ急襲の爪痕が生々しく残るアーガマにおいて、食堂兼談話室は、人工的な静寂に包まれていた。

 艦の巡航を支えるメイン・ジェネレーターの規則的なハム音が、デッキの床材から靴底を伝って微かに響いてくる。

 シイコは、テーブルの片隅に陣取りデータ端末のスクリーンへと視線を落としつつ、すっかり冷めきったコーヒーに口をつけていた。

 自動ドアが、無機質な動作音とともに開く。

 シイコがゆっくり顔を上げると、カミーユ・ビダンが立っていた。

 その姿を見た瞬間、彼の精神状態を正確に読み取った。

 少年の足取りは、重力ブロックの床を踏みしめるのではなく、慣性に引きずられ、空間をあてもなく漂流しているかのように見える。

 微かに開いたままの唇。

 ガラス玉のような虚ろな瞳。

 若さと過剰なまでの怒りの熱量は一滴残らず消失しており、「カミーユ・ビダンという名の抜け殻」――まるで、艦内を彷徨(さまよ)う亡霊であった。

 シイコに同席していたエマ・シーン中尉が、弾かれたように立ち上がった。

 

「……カミーユ」

 

 エマの表情には、痛切なまでの同情と焦燥が浮かんでいた。

 彼女は脆いガラス細工に触れるかのような声で歩み寄り、彼を促してテーブルの席に座らせた。

 用意されていたレーションと温かいスープが彼の眼前に置かれたが、カミーユはそれらを認識することもなく、テーブル表面の微細な傷跡を茫然と見つめ続けていた。

 

「無理にとは言わないわ。

 でも、少しでも何か胃に入れないと、身体がもたないわよ」

 

 エマの紡いだ言葉は、一般的な人間関係というレイヤー(階層)においては、正しく、温かい気遣いであった。

 しかし、シイコにははっきりと理解できていた。

 今のカミーユは論理的・情緒的アプローチなどは、いかなる意味も結ばない。

 カミーユは、瞬きせず、ゆっくりと口を開いた。

 

「母さんのときは……あんなに悲しくて、世界が終わるかと思ったのに」

 

 その声は、驚くほど平坦だった。

 

「今は、全く悲しくないんです。

 あんなに嫌な父親だったのに、清々したとも思わない」

 

 カミーユは、ゆっくりと自分の両手を見下ろした。

 昨日、父親の乗るリック・ディアスにビーム・ライフルの銃口を向け、引き金を引くぞ、と脅した手だ。

 

「僕が、銃口を向けて足止めなんかしたから……。

 僕が通せんぼをしたせいで、父さんは流れ弾に当たった。

 目の前でコックピットが蒸発して、木っ端微塵になったのに……」

 

 カミーユの焦点の定まらない瞳の奥で自己嫌悪が渦巻いているのを、シイコは見て取った。

 

「何もない。空っぽなんです。

 親が死んだのに、自分が殺したようなものなのに、心がちっとも痛まない……。

 何もない自分が、気持ち悪い。

 僕は、どこかおかしくなってしまったんでしょうか」

 

 それは、重篤な心的外傷(トラウマ)に対する人間の防衛機制――「感情の解離(感情鈍麻)」の典型的かつ残酷な症状であった。

 人間の脳は、理解の枠を超えた不条理や死のイメージに直面した際、自己を守るように、情動を強制的に遮断(シャットダウン)することがある

 だが、彼の人並み外れた感受性は、「悲しむべき時に悲しむことができない」という己自身を客観視し、「自分は血の通わない化け物へと成り果ててしまったのではないか」という狂おしいほどの自己嫌悪へと変換していたのである。

 強烈な不協和音が、内側から食い破ろうとしていた。

 エマは小さく息を呑み、言葉を失った。

 常識的な倫理観と、健全な人間性を持つ彼女には、どのような言葉(シニフィアン)を投げかければカミーユを救済しうるのか、その答えを持ち合わせてはいなかったのだ。

 重苦しい沈黙が談話室の空間を支配する中、シイコは静かに席を立った。

 

(……この子は、今のままでは壊れる)

 

 シイコには、カミーユを呑み込んでいる『意味の真空状態』の正体というものが、他の誰よりも深く、痛いほどに理解できていた。

 かつての一年戦争、その趨勢を決したオデッサの激戦。

 目の前で愛する男を理不尽な炎で焼かれ、絶望のあまり感情の全てを解離させ、「猟奇殺人機」「魔女」と忌み嫌われる存在へと成り果てた、かつての自分。

 あの時の己自身もまた、世界からあらゆる色彩が剥落し、他者の言葉が空気の振動としてしか処理されない真空を漂っていた。

 自分が自分でなくなっていくような強烈な嫌悪感。

 生きているにもかかわらず死んでいるという矛盾。

 その真空状態にいる人間にとって、慰めの言葉も、理屈による自己正当化も、すべては空疎なノイズでしかない。

 シイコはカミーユの隣へ歩み寄ると、言葉を発することなく、彼の横に腰を下ろした。

 驚きのあまり顔を上げるエマを視線で制止し、シイコはゆっくりと腕を伸ばした。

 そうして、彼女はカミーユの硬直した身体を胸に抱き寄せ――

 

「……っ」

 

 カミーユの身体が、一瞬だけ震えた。

 他者からの不意の接触に対する拒絶反応。

 自分が触れることによって、おぞましい死のイメージと自責の念で相手まで汚してしまうのではないかという、自己隔離の防衛本能。

 彼はいきなり自分を抱きしめてきたシイコから逃れようと、わずかに身をよじらせた。

 だが、シイコは決してその腕を緩めようとはしなかった。

 彼女がカミーユに与えたのは、言葉というひどく不完全な記号ではなく、生物としての根源的な『実体』であった。

 戦闘機動の過酷な負荷に耐える強靭な体幹。

 一人の子どもを産み育てた女、豊かで確かな肉体。

 カミーユの冷え切った頬に密着したシイコの胸の奥からは、静かで、規則正しい心臓の拍動が伝わってくる。

 その音は、宇宙の虚無や戦場の無秩序とは対極にある、生命の揺るぎないリズム(律動)であった。

 そして、彼女の体温が、カミーユの凍りきった皮膚を通して、抗いがたい力をもって流れ込んでいく。

 

「…………」

 

 かつて「魔女」と恐れられ、機械の如く敵兵を死地へと流し込んでいた女が、一人の「母親」として与える無償の救済であった。

 「あなたは生きてここにいてよいのだ」「あなたは壊れてなどいない」という、存在そのものに対する絶対的な肯定。

 彼女の温もりは、カミーユの内側にポッカリと空いた真空状態を、少しずつ、「生の温度」によって満たしていく。

 次第に、カミーユの抵抗が和らぎ、彼の頭部がシイコの肩へと力なくもたれかかった。

 シイコは何も言わず、ただ彼の背部を、幼い子供を寝かしつけるかのように、一定のリズムで優しく撫で続けた。

 自分が何者で、何を殺したのか――なぜ悲嘆に暮れることができないのか。

 自問自答の地獄のような無限ループから切り離すかのように、シイコの体温はカミーユを包み込んでいく。

 理屈などではない。

 「命の熱量」だけが、凍てついた精神の氷を融かすことができる。

 

 やがて。

 

 シイコの胸元に押し当てられたカミーユの喉奥から、ひどく掠れた、まるで動物の仔のような小さな震え声が漏れ出した。

 

「……あ……う……っ」

 

 言葉を形成する以前の、原始的な嗚咽であった。

 感情の回路に、再び熱が通った証。

 自分が狂っていたわけでもなく、化け物になったわけでもなく、あまりにも悲惨な現実に耐えきれず心が麻痺していただけなのだと、彼の魂が理解した瞬間であった。

 一雫の涙さえ流せなかった彼の瞳から、張り詰めていた糸が切れ、ついにボロボロと雫が溢れ出し、シイコの軍服の肩を黒く濡らしていった。

 

「ええ……。それでいいのよ」

 

 シイコは初めて、誰にも聞こえないほどの微かな声で呟き、少年の背を抱く腕にさらに力を込めた。

 かつての魔女は、一人の少年が再び人間としての痛みを取り戻し、その生の証明として泣きじゃくるのを、静かに、厳かに――抱き留め続けていた。

 

 

 

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