「そろそろですよ」
案内してくれた学者が時計塔を見上げた。雑踏が立ち止まる、子どもが父親の肩に乗る、露天商の呼び込みの声が止む、ヴェノンからの護衛たちも今は静かに手を組み祈りの言葉をつぶやく。
彼女も、グロワスも、民も、皆が時計を見上げる。世界が止まったかのような一瞬だった。
その静寂を時計自身が破った。カツリと音をたて時計塔の長針が真っすぐに天を指す。骸骨の人形が、死が、誰一人として、王であっても避けられない物語の最後の頁が、ゆっくりと、しかし止まることなく動き、鐘を鳴らす。いや、人形が鳴らしているのではない、『そう見えるように動いている』だけだ。
鐘の音が広場に響く。振動が胸に伝わる。石畳を震わせ足元からも響く。
何百年も前に作られた時計塔は、精密さも正確さも彼女の腕に巻かれた機械時計と比べれば粗末なものだ。それでもこの街の人々はそれを守り、誇りに思っている。今もここに在り続ける、数百年後も人々とともに在るだろう。
いつかこの機械時計も過去のものとなる未来。そのとき、この時計も『そう』あるのだろうか、この時計塔のように、動いているのだろうか。
彼女が未来を見ていたとき、その隣に立っていた彼女の息子は、グロワスは今を見ていた。
「母上、おれはわかりました。この時計塔こそがこの街の王なのですね」
彼はそこに『王の在り方』を見ていた。学者に時代遅れと言われても、今も時を刻み、時を告げる。
止まってほしい、戻ってほしい。そんな身勝手な、叶うはずのない願いを受け止め、そして当然叶えない。ただ休まず、ただ進み続ける。在り続ける。
それは彼女の夫、今は亡き王の『在り方』だった。
鐘の音が鳴りやむと往来も徐々に減り、露天商たちは店をたたみ始めた。
雑踏をかき分け、護衛の先導する馬車が彼女たちの前に停まる。
「もうすぐ日暮れです。お乗りください。」
そう促されるとグロワスは彼女の手を取り馬車に乗せた。グロワスも今日の案内役たちに短く感謝を伝えると彼女に続いた。
二人を乗せた馬車が護衛たちに囲まれ、ゆっくりと走り出す。街のざわめきの中をコツコツと石畳を打つ車輪の音が不規則に響く。
市街を抜け、長い石橋に差し掛かるころには辺りも静かになっていた。御者が一瞬だけ手綱を緩め、馬車を止めると再びの静寂が訪れた。御者がそっと自身の手を合わせる。
護衛たちも御者と同じ仕草をする。彼女とグロワスも。
日は既に陰り、薄闇の中で橋の欄干にある像の輪郭だけが浮かんでいた。そこには聖句典に謳われる正教の聖者たちが並んでいる。
ゴト、ゴト、と車輪の音が橋の下で反響する。馬車が像の間を抜けていく。細く、長い、祈りと沈黙の道を渡っていく。
橋を渡ればそこは貴族たちの邸宅が並ぶ城下だ。馬車は緩やかな上り坂を進み『皇帝の縁戚』のための屋敷に到着する。
彼女が馬車を降り、来た道を振り返えると川の暗闇の向こう岸には街灯りに照らされた時計塔が浮かんでいた。
つい先ほどまでいた場所がとても遠くに見えた。
「母上、ヴェノンに戻ったらお伝えしたいことがあります」
グロワスの両の眼。彼の父に、つまりは彼女の夫によく似た翠色の瞳が彼女を見つめる。
「わかりました。ではヴェノンに『着いたら』聞きましょう」
ヴェノンは帰る場所ではない。
少なくともグロワスにとっては。
後日、グロワスは彼女に告げた。
「おれは父上の魂を継ぎます。地位ではなく」
「そうなさいませ」
それが最後の会話だった。
天文時計に長針がないことに気づいたのは書いた後でした。