アスファルトの上に転がった女は、状況が分かっていないらしく、縛られた身体のまま小さく身をよじるだけだった。手首と足首の拘束。目はガムテープで塞がれている。何重にも巻かれて、髪に絡みついている。
口には手術のとき患者につけるような呼吸器がつけられている。なんだあれ? 小型人工呼吸器? 呼吸器の管は小さな箱に繋がっている。
なんだっていいが、さて困ったぞ。判断と決断だ。素早く。
このまま放置する選択も一応ある。だが、ここは山へ入る直前とはいえ道路だ。誰かに発見されれば、さっき消した車の件まで遡られる可能性がある。余計な要素は残さない方がいい。
殺して同じように収納する?
いや、この女は現時点では敵とは呼べない。
俺は紗季さんではない。理屈の方を曲げてはならないのだ。
でないと狂ってしまう。
とはいえこのままというわけにもいかない。
よし、一旦保留!
腕を掴んで引き起こす。女は意識がないのかまともに抵抗もできない。
汗と、長く洗われていない布の湿った臭いがした。
それに混じって、鼻の奥に刺さるようなアンモニアの気配。
ズボンの下半分が濡れて色を変えている。
冷えて乾きかけた跡が、不規則に広がっていた。
うわぁ。漏らしてる。しかも臭い。
何日も風呂に入ってないし、服も洗ってないなこりゃ。
背後から抱え込むように運ぶ。
呼吸器に繋がった箱がアスファルトを擦った。
軽い。まともに食べていない身体だ。
自分のバンの後部ドアを開け、中へ押し込むと例の呼吸器の管が箱から抜けてしまった。女をブルーシートの上に転がし、箱を拾う。
「ぐっ、ぉごっ……がっ」
女がうめき始めた。ええ? なんだよもう……。
よくみると女の呼吸器の下には猿轡のようなもので口が塞がれていた。
そして苦しそうにしている。呼吸が出来てない。なんだその特殊な器具は。
管と箱を繋げてやると穏やかになった。
やはり呼吸器でもあるようだ。
意識はなさそうだ。猿轡で呼吸がきついとなると、薬か麻酔か筋弛緩剤か。そんなところか? ちょっとわからんな。
あの煽りおじが急いでたのは薬の効果が切れそうだったからかも。
となるとやはり拉致被害者かもな。そういう特殊な
この先には煽りおじのお楽しみ別荘があるのかもしれない。
やはり山を目指そう。なにをするにしても、人気のない私有地の山中だ。
残留物をざっと確認して、忘れ物の指差し呼称。状況ヨシ!
しばらく、ごとごとと山道を走り、目的地につく。
俺が所有する山の奥。道の先にある小さな広場。ショベルカーが放置されている。
雪が、強くなっている。
普段なら生き物の気配がする、深夜2時の山は、雪が音を吸い込んだように静まり返っていた。急がないと道が雪で消えて帰れなくなりそうだ。
商用バンの後方ドアを開け、積んでいる女を見る。
意識が覚醒し拘束を解こうと藻掻いているのは運転中に分かっていた。
俺がドアを開け外気が入り込んだことで、一層身をよじる。
服は派手だった。
夜の街で浮かないための光沢のある合皮。
だが近くで見れば安物だと分かる。
縫い目の粗さも、擦れた部分の剥げも、そのままだ。
耳にはピアスがいくつも刺さっている。
すっかり冷えて耳が赤くなって痛そうだ。
茶色に染めた髪は根元が黒く伸びていて、切り口は乱れている。
自分で適当に刃物を入れたような不揃いさだった。
誰にも触らせないまま伸びた髪の形だった。
後方ドアの縁に手を置いたまま、しばらく見下ろす。
浮浪者。ホームレス。トー横キッズ。
ストリートチルドレン。ネカフェ難民。
関係する単語が浮かんでは消える。
釣ったばかりの魚みたいに暴れるせいで、呼吸器の管がまた抜ける。
それでさらに暴れる。元気があって大変よろしい。
嘘だ。よろしくない。
はぁ~面倒くさいー。
猿轡だけ外す。手足の拘束はそのままだ。
猿轡を外した瞬間、女が大きく息を吸い込み、そのまま叫び出した。
「
山の静けさに声が響く。遠くまで通る。
勘弁してくれ。生かす理由ってのは減点方式なんだ。
アンタのことは気の毒だと思うし、俺の都合でここに居るのは申し訳ないとも思う。
――だが。
「ぐぅっ……!」
腹部を殴る。黙らせるために。生かすために。
女の身体が折れ、声が途切れる。
その口元に指をそっと置き、静かにしろと示す。
俺が喋って指示するのはよくない。
女を生かす選択肢をとった際に、声を覚えられることはリスクになる。
だが理解していないらしい。咳き込みながら、指に噛みつこうとしてきた。
素早く手を引く。おお。元気だぞコイツ。
呂律が回ってないから、やっぱなんか薬を打たれてるっぽいのに。
また何か叫ぼうと口を開く。
「ブッコロッ……!」
同じ場所をもう一度殴る。さらに強くだ。
今度は声にならず、呼吸も止まる。モロに入った。
再び同じように口元に指をそっと置く。静かにしてほしい。
呼吸を再開したと思ったら、またしても噛みつこうとする。
すごいなこの女。この状況でまだ反抗するのか。
腹を2回も無防備に殴られてるんだぞ。
だが叫んだりはしなかった。さすがに堪えたのか。
「この
うーん。拉致されてきた被害者とは思えない強気だ。
しかも顔に殴られたような痣もあるのに、根性が半端じゃない。
普通は恐怖で萎縮するもんだ。
「なめや
借金の
しかし、それは君も悪いぞ。借りたものは返そう。
金額によっては命が返済に当てられるのは裏社会の常識だぞ。
「ん゛ー! あぁあ゛ァ!」
女は拘束を解こうと全力でもがく。
すごいな。しかし、路上生活者はそうでなくちゃな。理不尽はあれど屈してはならない。不利益をもたらすものは全て敵だ。
一瞬、繁華街でゴミを漁っている過去が記憶に蘇る。
頭を振って追い出す。今はもう違う。
この調子で暴れるなら、この女も処分しなくてはならない。
生き残るためのルールだ。不利益は敵になる。
状況はクリアした。こいつは敵か? 俺にとっての不利益か?
紗季さんなら、目隠しも拘束も解いて、いざ逃げたら殺すだろう。理由が出来たからだ。理由を作ったともいうが。
重さんなら、目隠しも拘束もそのままに、恨まれ事件化するのも承知で街で解放するだろう。仁義に基づく判断だ。
俺ならどうする。
俺は。
しかし。
しかし、だ。
……いやいや、モルグくん。しっかりしろ。なにを考えてる。
明らかにリスクだ。目に見えてる地雷だ。見ろよこの見ろよ、このカツオの一本釣りみたいな活きの良さを。
拉致られて薬を打たれて、小便もらして殴られても、なお全力で抗う姿を。たぶん馬鹿だ。そうせずにはいられないタイプの人間で、早死するやつだ。
何もかもに反抗し、そのくせ何一つ成し遂げられず、親からも世間からも逃げ回り、挙げ句の果てに変態に売られる……。
「……うるせぇよ。聞こえてんぞ」
「おお! あまりの哀れな姿に思わず心情を吐露してしまった。悪い」
「……ッ! あの変態はどうした……」
「暴れることより、現状に興味が出てきてくれて嬉しいよ。ヤツはもう居ない。どこにも居ない。信じられないかもしれないが、俺たちはお互い被害者なんだ。歩み寄って協力することで、この盤面を乗り切ることが出来ると思う」
「ガキの声だな……?」
「成人だよ。運転免許証も持ってるし酒もタバコも法律上、摂取可能だ」
戸籍上の年齢では。
「ウソをつけ。声変わりが終わった頃のガキの声だ。17、8ってとこだろ」
当ててくるじゃん。
独白を聞かせて情報を渡したにせよ、あの変態が居らず状況が変わってることを即座に理解し、判断してる。落ち着いてるし。呂律もしっかりしてる。薬の後遺症はブラフかよ。むむむ……。
「そういうお前こそガキだろ。家出か? 親はどうした?」
女は不機嫌そうに舌打ちをする。
「私は24だよバカヤロウ!」
……マジか。えー? 目隠し取ったら印象変わるのかな。
家出少女かと思ってた。というか同い年じゃん。安堂守久と。つまりは俺なんだけど。戸籍上の。
「……」
「……」
互いに沈黙する。
「……チッ。本当だ。ポケットの財布に保健証が入ってる」
俺が考えているのを疑っていると思ったのか、事実の証明を提示してくる。こいつ信頼関係を築こうとしてるな。なかなかクレバーだ。
「ほんじゃ失礼して。暴れないでね。うん……。風呂入れよお前……」
臭いし汚い。苦労して財布を取り出す。
「うるさいよ。ていうか、テメェ『お互い被害者』って言ったな」
「言ったよ」
「なんで殴ったんだ? 二発。あれテメェだろ」
「叫ぶからだ」
「でも今は協力しろという」
「お前が暴れたからな」
「……」
女は黙り、考えている。俺の正体と、その行動原理を読み解こうとしてるのだろう。思ったより馬鹿じゃないな。
俺が声を覚えられるリスクはあるが、こいつのガッツは嫌いじゃない。
さすがにかつての俺の姿と重なるとは言わないが、絶体絶命なのに悪態をつくやつとか、最後まで暴れるやつは好きだ。
命乞いだって立派な生存戦略なのに。情報を引き出せたり、もしかしたら情がわくかもしれない。なのにやらない。やれない。理不尽に対して生存より怒りが生まれ抵抗してしまう。わかるー。俺もそうだ。おかげで酷い目にあってきた。
俺は異能があったからどうにかなった。
女にはそれがなかった。
だから、まぁ。敬意だ。やるじゃんっていう。
財布の中を見る。マイナンバーカードは無かった。
保健証を取り出す。
佐藤三(サイトウミツ)
2000年3月3日生まれ
「この都内の住所は?」
「ネットカフェだ。郵便も受け取ってくれる店」
ああなるほど。違法だがこっそり、そういう商売をしてる店もある。
同じような行き場のないやつが寝泊まりしている。
「ふーん……。おばあちゃんみたいな名前だな」
「うるっせぇよ!!!」
「うわっ。怒鳴るなよ。またグーが行くぞ、グーが」
「……クソッ」
名前からかわれるの嫌なのか。口悪いなコイツ。
「まぁいいや。少し調べごとがあるから、悪いんだけどもう少しそのままで居てくれよ。水いるか?」
「……もらう」
俺は『アイテムボックス』からペットボトルの水を取り出し、飲ませてやる。『アイテムボックス』内は時間も止まっていて腐ったりしないので安心だ。死体と一緒に入ってたものだけど。
「ぷはっ。もういい……。ついでで悪いが漏れそうなんだ。一時的でも拘束を解いてくれないか?」
「そうか。大変だな。漏らしていいぞ」
バンの後部ドアを閉める。
「ちょ、おい! 待てよ! おっきい方なんだ! 漏れたら大変だろ!」
「叫ぶなって。凄く嫌だけど我慢するよ。少しの間、大人しくしててくれよ。あんまり遠慮なく暴れると、理由が生まれるんだ。シンプルな解決方法を選択する理由が。だから黙ってろ。いいな」
「ふざけんなこのっ!」
バンの中でどたどた暴れてる。こいつ……。
叫んでないからヨシとするか……。
俺は少し離れて『アイテムボックス』から煽り運転おじと、その車を取り出す。裏取りをしなきゃな。斎藤三がウソをついているようには見えなかったが、人は自分でついたウソを本当だと思える生き物だ。お、免許証ゲット。
おーん、こいつの財布小銭入れないぞ……? というか現金が万札しかない。変態のくせに金持ちだ。変態だから金持ちなのか?
さらにあさり続けるとダッシュボードの中に佐藤三の売買記録を見つけた。領収書に契約書だと!? すげぇな裏社会!! 確定申告すんのかな??
ただこういったことをやりそうな組織には覚えがある。
あそこ末端から頭まで非常に勤勉で真面目で、そして全員狂ってる。まさに徹頭徹尾頭おかしい人しか居ないからなぁ。すごくそれっぽい。
馴染みの情報屋に煽りおじと佐藤三を洗わせようと思ったが、借金のカタに売られたってのは本当だろうな。おそらく例の組織が借金を一本化して、この変態に売りつけたんだろう。生殺与奪の権利がある奴隷契約書が出てきた。頭おかしい。
煽りおじと車を『アイテムボックス』に戻す。
「よーし。どうやら本当に売られたみたいだな。現代日本で奴隷契約書ってのを初めて見たよ。ところでウンコは漏らした?」
バンに戻って佐藤三にそう話す。
「漏らしてねぇよ。いやそれより奴隷契約ってなんだ……?」
まぁ腹を思っきり2発も殴られてるやつが、トイレ我慢してるとは思わなかったが。そん時に漏れるわな。でもウソでよかった。さすがに嫌だった。
「私はいきなり拉致されたかと思ったら、スーツを着た連中に、借金を全部あの変態親父が払ったと聞かされて、それで押さえ込まれて注射を打たれたんだ。そしたら、体が動かなくなって……」
「気がついたらトランクに入れられて運ばれてたのね」
「あぁ……」
「不幸な出来事だったね」
「……ッ」
「怒るのは分かるけど、不幸中の幸いだよ。この契約書によると特約には入ってなくて、契約者に、あー、不幸にも
「だがあのクソ野郎は
「そう。アンタとっては幸運なことに。あとは俺がどうするかだ」
「……」
「ビビんなくても街まで送るよ」
「ビビってねーよ。理解が出来ない部分があるだけだ」
「はン。理解出来ないとはやっぱり不幸だね」
さぁそうと決まれば急いで戻るぞ。山の中の道が雪で埋もれそうだ。
その後、山道を下り、田舎町で契約しているシャッター付きの駐車場にバンを入れる。違う車に乗り換えるためだ。背面がボコボコだからな。
普通乗用車に乗り換えたのだが、ここで佐藤三がトランクに入りたがらない問題が発生。一悶着あり、目隠しは譲れない俺と、トランクに入りたくない佐藤三。
二人の折衷案として、後部座席で毛布に包まって寝たふりをして街まで戻るということになった。
「なぁ。なんで助けた?」
毛布を被った佐藤三がくぐもった声で聞く。
「助けてない。ほぼ事故みたいなもんだ」
帰りも窓は全開だ。俺も毛布がほしいぜ。
「違う。そっちじゃない。私をなぜ見逃す? リスクがあるんだろう。なんとなく分かるよ。テメーもまともな人間じゃない。私ぐらい秘密裏に処理出来たんじゃないか?」
変態煽りおじと一緒みたいなもんと思われてる? 心外だが?
「おいおい人一人を処分するのがどれだけ大変かご教授してしんぜようか?」
「……お前の声は、なんていうか、自信をもってるやつの声だ。根拠があって実際に実行するやつの声をしてる。お前がその気になれば、きっとそう難しいことじゃないんだろう。私の嫌いな声だ……」
妙な勘の鋭さがあるなコイツ。
それきり再び静かになる。タイヤが舗装路を擦る音だけが続く。高速道路を下りてコンビニやファミレスの看板が視界に入り、ようやく人の生活圏に戻った感覚がする。
しばらくして、また佐藤三が口を開く。
「降ろされた後、どうすればいい」
「今日のことは忘れろ。借金は消えてるし、金も俺からいくらか渡してやる」
バックミラー越しに後方を確認しながら続ける。
「言うまでもないが誰かに話すと面倒なことになる」
脅しというより事実だ。警察が動けば、自分も動くことになる。得をする人間はいない。
それきり、後ろは静かになった。
駅前に着くころには、始発前で人通りもまばらだった。人目につきにくい場所へ車を停める。周囲を確認してから後部ドアを開けると、佐藤三は目隠しをされたまま身体を固くしている。
拘束を解き、上着のポケットに『アイテムボックス』から出した輪ゴムで丸めた100万をねじ込む。口止め料込みだ。効果は読めないが余計な敵意を残さない方が後で楽だ。恩を売っておく意味もある。
「今から100数えたら目隠しを外していい。すぐそこは駅だ。いいな?」
ガムテープのままだから苦労するだろうが。
「分かった……。その、お前がどういうつもりであれ、その……助かった。感謝してる。ありがとう」
辛うじて。いま頭下げたかも? という会釈未満のなにかを披露し佐藤三は礼を言った。
「これを期に普通に生きろよ。アンタ社会不適合者だけど根性はあるんだからさ。普通はいいぞ。普通は。人や制度、色々なものに助けられる」
「ハッ」
鼻で笑いやがったコイツ。好きにしろ。
「じゃあな」
早々に立ち去る。おお佐藤三の未来に幸あれだ。
車をねぐらに向けて走らせる。結局、仕事を終えることは出来なかったし、収支でいうと明らかなマイナスだ。踏んだり蹴ったりだぜ。疲労が一気に身体にのしかかる。肩が重く、目の奥も鈍く痛む。風呂に入って眠りたい。
住宅街に入ったところで、バックミラーに赤色灯が映る。嫌な予感しかしない。
スピーカーの声が響き、仕方なく路肩に車を寄せる。
胃がぞわりとひっくり返るような緊張を感じとる。
警官が近づき、後部を指差した。
「右のテールランプ壊れてますね。整備不良になりますよ」
「え!? ホントですか!? うわー気がつかなかった!」
努めて明るく声を出す。
「……お兄さん随分若いね。免許証出してもらえる?」
「お。よく言われるんですよ。見ちゃいます免許証? ビビりますよ」
免許証を出す。
なんとか見逃してもらえるように必死に言い訳と媚を重ねていく。
理不尽に反抗しろ。決して諦めるな!
いや違うんですよお巡りさんめっちゃ大変な夜でして……
煽り運転がですね。いえドラレコはないんですが……
今回の仕事で最大の難所を俺は迎えていた。
みっちゃん(24)ホームレス。本作ヒロイン。