―翌日 夜 繁華街
人が行き交う道を帽子にサングラス、黒いマスクと軽い変装をしつつも歩く有馬かな。
チラチラと辺りを見回すと自分とは距離を空けるようにして歩く怪しげな人影...週刊誌の記者だろうか?
今、スキャンダルでも撮られればかなり面倒なことになる...
やや早足で距離を稼ごうとすると案の定ペースを上げてきた怪しげな男。しかし、人混みが一気に増えるタイミングで掻き分けた先で彼女を見失ってしまった。
辺りを見回すもその姿はそこにはない...
チッと軽く舌打ちしつつも捜索する。だが、彼女は既に道を歩いていなかった...路地裏を通じて1ブロック裏手にある通りのビルに入っていたのだ。
ビルに入ってはやや寂れた屋内階段を上がっていき、4階の奥にある焼肉屋に入っていった。
「―いらっしゃいませー!!」
店員たちによる勢いのある挨拶と共にあちこちで聞こえると共にジューッと焼かれる肉の音、ニオイを感じているとバイトらしきスタッフが歩み寄ろうとするもそれを遮るようにやや短髪に口髭を携えたややワイルドな風貌のオーナー兼店長の男が二人の間に割って入った。
「予約のお客さん、ですよね?
奥の個室にてお連れ様がお待ちです。どうぞ、こちらへ」
そう言って奥まで案内する男...その案内に続くように最奥にあるやや狭めの個室に案内される。かなが靴を脱ぎ、横開きのドアを開けるとブラインドが閉められた室内にはある人物の姿が...ハジメだ。
「...久々だな。こうして会うのは何ヶ月ぶり?」
「そうね、1年は経ってないわね...けど、それに近いかしら」
変装を外しつつも向き合うような位置に座るかな。後ろで接客業態勢だったオーナーもこれを見て先程よりも力が抜けるように「ふぅ...」と息をついてからメニュー用のメモを取り出した。
「注文は?」
「とりあえずタン塩とハラミ、特選カルビ2つずつ。有馬は?」
「そうね、壺焼きカルビも貰えるかしら?」
「はいよ。ハラミと特選カルビは塩からタレ、どっちがいい?」
「タレで」
次々と注文をしていく二人。最後にドリンクを聞かれた時、ハジメはかなの方を確認するようにチラリと目を向けた。
「俺は成人だからビール飲むけど、お前は?
未成年だから飲めないだろ」
「烏龍茶で大丈夫。
気にしなくていいわ、ソフトドリンクでも呑んでるようなテンションに合わせられるから。遠慮せずに飲みなさい」
二人のオーダーを聞いて「わかった」と言って去ろうとするオーナー...しかし、何かを思い出すとドアを開ける前に何かを思い出して一言だけ言い残した。
「あまり頻繁にオーダーしないでなるべくまとめてオーダーしてくれ。ドアを開ける回数が多ければ多いほど外部に見つかるリスクは高くなる」
それだけ言い残して横開きのドアをスムーズながらも早く開閉して二人を後にするオーナー。二人だけの時間になり、お手拭きで手を拭いたかなが単刀直入にあることについて問い掛けた。
「それで...何でこんな店にしたわけ?
焼肉食べたいなら他にも店はあるでしょうに...個室があっても如何にも外が大衆向け焼肉って店構えじゃない。
それに駅近で表通りも人が多いわ...少しはリスクっていうもの考えなさいよ」
やや文句混じりにそう告げるかなに対してお冷片手にため息をつきそうな表情のハジメ。込み上がるものを抑えつつもその理由について語り始めた。
「ここの店のオーナー...さっきオーダーとってた人だけど、俺の監督の知り合いなんだ。
大企業の重鎮や芸能関係者も結構お忍びで来るような店だし、こういう面会の席の扱いも結構手慣れてる」
「でも、駅近の大通りなんて人多過ぎるじゃない。
週刊誌の連中や一般人にバレるなんて考えなかったわけ?
アンタの彼女がいいカモにされた後、彼氏のアンタに目をつけないような週刊誌なんていないわよ。
それに、私の方も今はアイドル活動してるから格好のターゲット...道中、それらしき追っ手も来てたし」
「木を隠すなら森の中ってやつ。
それに、俺はお前とは別の入り口から来てる...入るところを見られた所で面会してた証拠は掴めない」
別の入り口...?
かなはこのワードに引っ掛かってお冷に伸ばそうとしていた手を止めると、対照的にお冷を一口飲むハジメの顔を不思議そうに見ると彼も察してそれについて答えた。
「このビル、実は隣のビルと管理者が同じで5階と8階に連結する非常用の連絡通路があるんだ。
だから、俺は隣のビルの出入り口から入って5階の連絡通路を通じてここに来た...非常用だから本当は使ったらダメだけどな」
「へぇー、意外と用意周到なのね。で、そこまでして私に会おうとした理由は?
大体お察しだけど、一応聞いてあげるわ」
かなの言葉を聞きながらもお冷を一口飲むハジメ。
その水面を眺めるようにして間を空けてから決心するように軽く目を閉じながらもこう素直に切り出した。
「....別れようと思うんだ、あかねと」
予想はしてたが重くなり始めた空気に流石のかなの神妙な面持ちに...彼に差し伸べれる手はないかと考えながらもそこから更に掘り下げることにした。
「理由は?前のスキャンダルの一件かしら?」
「...それもある。
ただ、一番は異業種で交流がほとんどなくなったっていうのかな。
もっと言えば俺が成績不調で結果を全然残せてないのに対し、アイツは才能を開花させて上へ上へと上り詰めてる。釣り合わないのは目に見えて分かる、世間からもそう思われてるだろ。前に記者からもそこを突かれた」
「そう気にしなくていいわ、まだ底まで落ちてなさそうだし...今シーズンもまだ何戦かあるんでしょ?」
「そうは言ってもとっくに折り返しに差し掛かろうとしてる、俺には無理な話だったんだ...そんな甘い世界じゃなかった。半年近く前に大口叩いてた自分が恥ずかしい」
そう会話を続けているとオーナーがジョッキに入った生ビールと烏龍茶を持ってきた。各々がジョッキを手にした所で、かなの方は「さて...」とやや不敵な笑みを浮かべながらもハジメの方を見た。
「いつまでも辛気臭い話ししててもあれだし、今日はパーッといくわよ。パーッと」
「パーッとって...さっき文句言ってた奴はどこの誰だよ」
苦笑い混じりに生ビールが入ったジョッキを構えながらもそう応えるハジメ。互いのジョッキをカンッと当てるようにして二人だけの秘密の焼き肉会が始まった。
・
―同時刻、閑静な住宅街
五反田監督の手伝いを終えた星野アクアは自分の家に帰ろうと両手をポケットに突っ込むようにしながらも歩いていた。
いつもと同じ帰路だが、遅い時間帯...不気味すぎるほど静かに感じる。
聞こえてくるのは時折聞こえる飼い犬らしき鳴き声ぐらいだ...これだと言う確定的な何かは言えないが、直感的なものから嫌な予感を感じていた。
時折足を止めてチラチラと後ろを確認するもそれらしきものは出てこない...が、彼の予想とは相反するようにそれは路地裏からスッと道を塞ぐようにして前に現れた。
夏の暑い時期にフードを深々と被った怪しげな人物...フードを外したその風貌には見覚えがあった。
街灯に照らされるハーフアップの茶髪...色白の肌。
吸い込まれるような大きなオレンジ色の瞳、どこかあどけなさも感じるも油断しているとグイグイ向こうのペースに巻き込まれてしまうような小悪魔感が強い女...斎藤真奈美だ。
「....そろそろ出てくると思ってた」
黒川あかねとのスキャンダル騒ぎの後という事もあって覚悟はしていたアクア。それに対し、真奈美の方はいつもとは違い軽蔑するような目を彼に向けながらも歩み寄ると単刀直入にこう問いかけた。
「私の忠告、忘れたの?黒川あかねに手を出すなって」
そう言いながらも週刊誌のスキャンダルのページを広げて見せる真奈美...記事に載っていた写真を見たアクアは無表情で間を空けるようにしては冷淡な口調でこう答えた。
「俺からは手を出していない、"あかねから"迫ってきた」
「...どういうこと?そんなわけないでしょ」
予想していない発言に内心動揺してしまう真奈美。理解出来てない様子の彼女にアクアは証拠を見せようとある物を手にした...自分のスマホだ。ロックを解除してから軽く操作してからクルッと回すようにして画面を見せるようにして渡した。
画面に表示されていたのは通話履歴だ。
そこから更に分かりやすいようにこう付け足した。
「見ての通り、俺の方からは一切掛けていない...全部アイツからだ」
確認すると彼の言う通り、彼から発信された履歴が一切ない。半信半疑にスマホを受け取り、スクロール操作していた真奈美を見て更にアクアはこう告げた。
「もしそれ見ても疑うようなら、SNSのDMも見てもいい」
隠している様子もない姿に不気味に感じながらも画面をタップしてSNSを開く...確かにアプローチとしてはあかねの方から話しかけてきているように見えるものばかりだ。
あまりの衝撃に呆然として立ち尽くす真奈美。そんな彼女に歩み寄り、自分のスマホを抜き取るようにして返して貰うと立ち止まりながらもこう告げてきた。
「...それが事の真相だ。俺は一切手を出してない、無実だ」
そう言い残して再び帰路を歩こうと足早に立ち去るアクア。
彼からすれば自分の目的でもある復讐の障壁になり得そうな障害物を回避出来たと安堵してるところだろう。
一方の真奈美は受け入れ難い真実にしばらく呆然と立ち尽くすしかなかった....
しかし、時間が過ぎれば過ぎるほど"裏切られた"という感情から怒りが沸々と込み上げてきた。
自分の直感で信じていて今まで見守ってきたが、もうその必要も無さそうだ。寧ろ、突き返しても良いかも知れない。
握り拳をつくって静かに震わせた彼女はそう決意を固めた。
「あの人の幸せは....私が絶対に守る」
・
―30分後、焼肉屋
烏龍茶が入ったジョッキを飲み干してはガンッ!と強めにテーブルに置いたかな。
アルコールも入ってないにも関わらず、顔を赤らめて左右にゆっくりと振る姿は酔ったサラリーマンのようだ。
「あーっ、もうホンッッットにやってらんないわね!」
その様子に生ビールのジョッキを半分ほど飲んだハジメは苦笑いの表情だ。飲んだテンションに合わせられると聞いたが、ここまで飲んだ感じになるとは...そう思いながらもトングを手にして焼き上がったカルビを彼女の皿の方に置いていった。
「ほら、焼けたぞ。どんどん食えよ」
「どんどん食え食えって、アンタぁ....アイドルの私に"太れ"って言ってんのぉ!?
ホンッットに失ッ礼ねぇ!」
「いらないなら俺食うぞ?」
「いらないなんて言ってないわよ、今日はチートデイなんだからっ!」
そう言って自分の皿の方に置かれたカルビを食べては呑気に「うまっ...!」と呟くかな。その様子を微笑ましく思いながらも小さく笑みを浮かべていたハジメだったが、脳裏に浮かび上がってきた不安から表情を曇らせてしまった。
かなもそんな彼の表情を見逃さない...酔いどれモードを解除しつつも頬杖を軽くつくようにして単刀直入にこう問いかけた。
「どうしたのよ、腐った表情して?
また辛気臭いこと考えてたんでしょ」
「...まあな、悪かった」
「いいわよ、別に。
またそんな表情されても困るし、いっその事全部話しちゃいなさい。溜まったガスは抜けるウチに抜くのが一番ベストでしょうし」
かなに言われて意を決するように聞こえるか聞こえないかぐらいに小さく息をつくハジメ。トングで新しい肉を焼き始めながらも抑えていたものを徐々に解放するようにゆっくりとした口調で語り始めた。
「最近...重圧を感じるんだ。
期待の新星だのなんだの言われて持ち上げられたにも関わらず、まともに結果を出せてない...最初は単なる期待としてしか見てなかった物も今はプレッシャーにしか感じない。
一部では見捨て始めてるような感じもあるし...時々逃げ出したくなるような衝動に駆られる時もある」
ハジメの言葉を聞きながらも焼かれている肉を眺めるように見るかな。その言葉に同情するように小さく軽く目を瞑ってはこう答えた。
「その気持ち...痛いほど分かるわ。
私も子役時代はその重圧を感じていたから」
子役時代.....
ああ、そうか。
有馬かなが天から地に堕ちるような大きな挫折を一度味わってることを思い出したハジメ。
それも幼い頃にだ...
それでも一切折れることなく挑み続け、再びスポットライトに当たるようにチャンスを掴もうとしている。
生意気な発言が多いが、そう考えるとかなり芯が太く強い...
比べてしまうと悪いが、その部分は繊細な黒川あかねと明確なほど違って見えてしまう。
「よくよく考えてみれば...強いよな、お前も」
「強くなんてないわよ、偶々環境に恵まれ始めたってだけの話」
「でも、その環境に恵まれ始めるまでの間は一人で耐えてた...そう考えると強い以外の何物でもないだろ」
「それ、褒めてるつもり?
アンタにしては珍しいわね。そんな褒めたって何も出ないわよ」
ふふーんと笑い混じりにそう言っては焼き上がった肉を自分のトングで取ってはハムッと食べるかな。幸せそうに噛み締めてからお冷で口の中をさっぱりさせると、今度は彼女の方からこう告げてきた。
「自分では理解してないみたいだけど、アンタは根っこの方はそう強くない...
寧ろある所まで打たれたら一気に弱くなるようにすら見えるわ」
「ある所って....」
「さあ、私からも具体的にコレとは言いづらいわね。
ただ...そういうところは何となく黒川あかねに似てる。
アンタたち、根っこのメンタルは割とかなり似てるわよ」
あかねに似てると言われてパッとしない様子のハジメ。
だが、それよりも"黒川あかね"という単語に過度に反応するような感覚がいることに気づいてしまった。新しく焼き始めた肉をひっくり返していたが、衝動的なものからか途中でその手をピタッと止めたのをかなは見逃さない。
「別れるだのなんだの言って、まだ気になる様子ね。
そんなんじゃ縁切っても未練たらたらになるわよ...切るなら切るでスパッと切っちゃいなさい」
「スパッて...お前、簡単に言うけどな」
肉をひっくり返し終えてトングを一旦置き、ふとかなの表情を見たハジメ...彼女の目はどこか哀しげだった。
口調も声のトーンも変わらない...が、意地を張っていたのだろう。少しずつ脆い部分が露わになり始めたところで彼女は遂にこう言い漏らした。
「あのスキャンダルでショック受けてるのはアンタだけじゃないわ...私もよ」
最初はかなの言っている意味が分からなかったハジメ。
だが、少し考えればどういうことなのか察しはついた...
かながショックを受けているのはあかねがスキャンダルを起こしたということよりも、そのお相手が星野アクアだったということだろう。心中を察して「そうか」とだけ答えてなるべく深く掘り下げないようにしていると彼女は半ば無理矢理笑みを浮かべては先程の言葉から続くようにしてこう告げた。
「私はもうキッパリ切ることにした。
事務所がアイツと同じだから偶に顔を合わせることはあってもなるべく会話は交わしてないし...」
「そっか。あのスキャンダルで心痛めたって意味では境遇が似てるかもな、俺達」
そう言っては焼き上がった肉を自分の皿とかなの皿に乗せていくハジメ。そのまま箸に持ち替え、自分の取り分を食べている最中にかなが「ねぇ」と前置きしてから唐突にこんな事を言い残してきた。
「似た者同士、私達...付き合ってみる?」
唐突の一言に驚きのあまり肉を喉に詰まらせそうになるハジメ。ゴホッ!ゴッホッ...!!と何度も噎せてから生ビールで流し込んでなんとか落ち着いたところで彼女を見ると小悪魔染みた笑みを浮かべながらもこう言い残してきた。
「なーに、ジョーダンよ。ジョーダン。
本気にしちゃったかしら?」
「ば、バーカッ!99パーセントねーよッ!!」
「あら、99パーセントってことは1パーセントはあるって捉えてもいいかしら?」
かなの問いかけにビールのジョッキを持ちながらも数秒ほど間を空けるように考えるハジメ。
どこか勝ち気そうに見えて努力家、挫折を知っても挑み続ける姿勢、一途な性格、時折見せるあどけない笑顔...
脳裏に彼女がどんな人物なのかと振り返るように色々なシーンが浮かび上がると一旦ビールのジョッキをテーブルの上に置きながらも小さく笑みを浮かべてはこう答えた。
「....まあ、1パーセントぐらいはあるかもな」
まさかの言葉に「へ?」と固まるかな。
徐々に顔が赤くなっていく彼女を置いていくようにハジメの方はビールを一気に飲み干し、テーブルに空ジョッキを置いては彼女にこう言い残した。
「トイレ行ってくる。ドリンクと肉、追加してくれ。
俺のドリンクはレモンサワーで、肉は適当に好きな奴追加してくれ」
「わ、わわ、分かったわ...」
知ってて逃げたのか、あるいは単に鈍感なのか...
色々と思考を巡らせるかなに対して個室を一旦後にするハジメ。
彼が去ったのを確認して電子ベルを鳴らして店員を呼ぶ...出てきたのは先程のオーナーだ。
「追加でいいか?」
「え、ええ。
烏龍茶とレモンサワー追加で...それから厚切りハラミとミスジ貰えるかしら」
「わかった、空いた皿下げるぞ」
注文票に慣れた手つきで追加オーダーを書いてはポケットにしまい、空いた皿を片付け始めたオーナー。そんな彼を見たかなはある疑問を単刀直入に問いかけた。
「アイツの監督と知り合いって聞いたけど、どんな仲なのかしら?」
「昔の走り仲間だ。
元々はその従兄弟と知り合いだったんだが、助っ人みたいな感じで呼ばれて...そこからの仲。以来、埼玉から東京に上京して店開いてからもダラダラと腐れ縁みたいな付き合い方してる」
「走り仲間ね...もしかして、腕には自信があったりとか?」
かなの質問に一旦皿を片付ける手を止めるオーナー...
すると、話が長くなるのを短く纏めようとしているのか少し間を空けるようにしてからこう答えた。
「あった、誰よりもな。
特にやっていた競技の特性上、車を横に向けて走らせる技術に関しては誰よりも自信があった」
「そう、プロとかは...目指さなかったのかしら?」
「一時期、そういうことをして飯を食ってた時期もあった...だけど、正直環境としても厳しかったし稼ぎも良くなくてな。3年保たなかった...
成績としてもお世辞にもいいとは言えなかったしな、周りが凄すぎて太刀打ち出来なかった」
オーナーの発言を聞いて気まずくなるような内容を掘り下げてしまったと内心後悔するかな。若干話の方向性を切り替えようと今度は主題をオーナーから今、席を外しているハジメに切り替えようと試みた。
「今の五十嵐ハジメは...かつてのプロの目からしてどのように見えるのかしら?」
かなの発言を聞きながらも皿の回収を終えたオーナー。横開きのドアの前で一旦動きを止めるもそこから振り向くようにして見解を述べた。
「個人の実力としては充分すぎるぐらいある。
ただ...明らかに足りてないものがある、多分本人もそれに気づいてる」
「足りてないもの、って...?」
「ざっくりとだが...
素直に誰かを頼っても良いという信頼心だ。
アイツが走ってるスーパーGTは個人競技のレースとは違い、そこが重要になってくる。
一緒に走るパートナー、ピットクルー、監督...そして、己自身。ヤツだけじゃない...全員だ。全員が全てを信頼した時に本当の結果が出てくる。まあ、それが出来ないのが現状だがな」
そう言い残して素早くドアを開閉して個室を後にするオーナー...彼の背中を見届けたかなは"信頼心"というその単語自らの心中で何度も復唱した。
・
―あかねの家 早朝5時
いつもよりも早く起きてキッチンに立つあかね。
ジューッと厚焼き玉子を作り、慣れた手つきで包丁で切ってから弁当箱に入れていく...既にきんぴらごぼうやブロッコリーなども添えているが、メインの一番大きな区分け部分だけが空いているような状態になっていた。
「(何を入れようかな...やっぱり低糖質で高タンパクなものかな。フィジカルも大事って言うのを聞いたし)」
そう考えては冷蔵庫を開けて鶏の胸肉を手に取るあかね。包丁で食べやすい大きさに切ってから肉が硬くならないように隠し包丁を入れ、そこから塩を振って下味をつける。
沸騰したお湯に入れ、ある程度茹で上がったところでフライパンで焼いて焦げ目をつける...そして、ここでもうひと手間。瓶に入った甘辛そうなタレをスプーンで掬って入れてから絡めるようにして一緒に焼いた。
「(お母さんから教わったタレ...多分タンパクな味に合うと思うけどなぁ)」
小さく笑みを浮かべながらも焼き上がった胸肉を大きく空いた弁当箱の残りのスペースに添えると最後に追いダレを掛けて完成。部屋中に立ち込める香りから上手に出来たと思わず小さく笑みを浮かべると頭の中で食べさせる相手の顔を思い浮かべた。
「(喜んで食べてくれるかな?)」
静かに弁当の蓋を閉めて風呂敷で包んでから外の景色を眺める...日が出る前から作り始めていたが、すっかり太陽が「―おはよう」と言わないばかりに顔を覗かせていた。
荷物を纏め、生き慣れてない土地について調べようとスマホのナビを開く...交通機関を使っても1時間以上は掛かる。
さらに、もっと言うとその後に舞台稽古に行かなければ行けないがその現場から更に1時間...合計2時間掛かるのだ。
「(待っててね...今行くから)」