小説ドラえもん 出木杉英才の異説回帰録 作:エコノミック・アニマル
トラス梁に設置された2灯の信号機が赤に点じる。
サイレンの唸りと、電鈴が忙しなくチンチンチンチンと鳴動する。
晴海と中央卸売市場を往来するばかりの三菱のみずしま号やトヨタや日産の各種トラック、それに自家用の真新しいマツダ・ファミリアもくたびれた8000形都電も、歩道を往来する初夏模様の人だって一様に停まった。
バンザイと跳ねあがる橋桁の4車線の横縁から、小型貨物船の通行を見て待っている。
ファミリアのカーラジオでは雑にチューニングされたNHKが、針合わせの秒音を経て正午を時報し、『こんにちは。6月15日、お昼のニュースです』と女性の淡々が、砂嵐を帯びて連なっていく。
佃島の渡船が廃止されてもなお、屋形船や作業用や居住の達磨船だったり、または江戸前として隅田川を行く船は竿や投網を携えた。
オールで漕いだり、カワサキの船外機を静かに回す。
それを割って、永代橋発の水上バスが水面をタタタと走っていく。
月島・河岸通に沿う空き事務所の中古ビルの錆びた鉄扉をギリギリ開けた。
ツーピースにネクタイを整えた三白眼の中年男が、藁編みの買い物籠にコッペパンと豚肉といくらかの野菜を入れて帰ったのだった。
戦前の古い机の積まれた事務所。
隅の給湯室につけられた上がりの休憩4畳半に、くたびれているが体躯の逞しい外国人の中年男が桶汲みの水でタオルを絞っている。
直の畳に寝かされた出木杉の、額や頬をよく拭いていく。
隅田川の岸壁に倒れた少年を助けてもう昼夜が一つ過ぎた。
外国人の中年男が弟子スレナの20年前を思い出しながら少年の介抱を続ける。
「また生姜焼きを挟んだだけですけど」
背広から割烹着に換えた三白眼が、厳ついコンロのプロパンを手慣れてしまった魔法で着火して、フライパンに牛脂を引いていく。
生姜の香ばしい匂いを嗅ぎながら横たわる出木杉のそばで、事務所にあったコウモリ傘の細いパイプ柄に錆曲がりの鉄筋を幾束する作業に、外国人は黙々と戻っていった。
――剣でなくとも木剣未満でも、棍棒代わりには使えるだろう。
アリューシア達と引き剥がしてきたあの黒衣の狂戦士達に、いくらかは対処できると、異界の剣聖は期待する。
一通り整うと事務室の空に立って、基本形を徐々に早めて繰り返して手応えを確かめる。
コウモリ傘の先はひどく尖っている。エストックに近い使い方はできそうだ。
コウモリになった黒い防水布に、巻いた鉄筋をよく隠すことができた。
台所に立つ三白眼は、強火で一気に焦がれながら生姜ソースにからませる。
豚肉のフライパンから皿に移し、換気扇の紐を引いて牛脂由来の獣の焦げる臭いを外に出していく。
そうやって手際の良い三白眼は氷冷蔵庫から出したレタスを切る前に、吊られる電球の二股ソケットから電源を得た戦中製ラジオのスイッチを摘んで回した。
――自分達だけではない。このベリルさんの連れの騎士さん3人はもちろん、ピーちゃんはもちろん、星崎さんや二人静だって、あんな巻き込まれ方ならこっちにいるはずだ。
NHKニュースで特段の異常を報じていない。大人しくしているのか、握りつぶされたのか……。
コウモリ傘を振り終えた剣聖が、中古ビルの3階窓からブラインド越しに路地を見下ろす。
柱のように積み上げたそば桶を肩に担いで片手で自転車を漕いでいく蕎麦屋の出前。
長袖の地味な事務服をまといながらも、ところどころのアクセントが渋谷の現代アイドルに触発された婦人事務員達が、昭和41年の日常をその姿で作り上げている。
文化も技術体系もまったく異なる世界から流れ着いた剣聖には、すべてが異様で、異常の限りだった。
――そんな中でアスファルトの道を横切っていくミゼットなる機械馬の正体も仕組みも、ササキに教えられてなお理解しきれていないし、理解しきれるほど若くもない。
剣の交わりが語りと成立しない世界で、それでもなおこんな暗鈍器に頼らなければならない自身の境遇を呪う。
用意してくれたこの世界この時代の、ササキのそれとは少し違う他所行き――1940年代に流行ったアメリカンスタイルの背広一式が、ハンガーにかかって広げられ、魔法できつい樟脳臭を脱いている最中を見る。
野良着と変わらない自分の一張羅と比べてしまう。
それでも以前にアリューシアが選んでくれたゴテゴテの流行よりは、よほどシンプルで着て見て良しと思えた。
「出来たよ、ベリルさん」
「あ、あー、どうも」
受け取った和皿に載せられたコッペパンサンドの一塊を頬張って、生姜の利いた豚バラ肉のやや固を噛み締める。
割烹着を畳んだササキも、事務椅子に座り、ラジオに耳を傾けながら、フレンチさん頼りにない簡単自炊をモグモグ頬張る。
「ビールも買ってくれば良かったかな」
「あれほどだと高いんでしょ? ここに置き土産であった『ヒノデ』の瓶は、エールの比じゃなく美味かったけど」
「だいぶ古かったですよ」
――魔法でキンキンに冷やしてどうにか誤魔化せた腐れた味だが、常温を井戸で冷やした程度のエールに馴れきったベリルには舶来だったのだろう。
「当座の現金は、確かに取っておきたいものです」
諭吉4枚は当然使えず。
かろうじて価値のあったヘルツ小金貨3枚とレベリス金貨2枚を質屋にぼられて、当時の6500円に換えられた程度。
――手持ち全部を両替したわけではないので、次はもう少し高く換えられるだろうが……。
聖徳太子と伊藤博文の混在した千円札が財布の収まりからはみ出している。
銀貨の百円玉や、昭和と平成と令和の入り混じった黒ずみ十円玉ばかりの小銭入れの中身を、ササキは見果てる。
宿無し流れのおっさん2人にこの少年が加わって、贅沢なんてまったくできない現実を、財布は物語る。
剣聖ベリルは、未来とはいえこの国の人間たるササキへ、今一度訊ねる。ササキはあいかわらず笑みを苦して答えを返す。
「魔法というにはこちらの師も、巻き込まれる直前に想定外といった様子で。……私にわかるのは、ここが60年前のニホンの首都、トーキョーだということだけです」
魔法中年兼異能力公僕社畜ササキだって、わからないものはわからない。
「ベリルさんこそ、もう一度お伺いしますが、思い当たるフシは」
「俺だってわからない。剣道場の扉を開けたら突然吸い込まれた。繰り返すけど、巻き込まれた中には、その剣道場のあるレベリオ騎士団の長アリューシア・シトラスと副団長のヘンブリッツ・ドラウト、騎士クルニ・クルーシエルが含まれるってところだ」
「異世界の騎士が3人も東京にいるのなら、何かしらのトラブルでニュースにあがってもいい頃合いなのですが」
「そのからくりお触れ箱は、何も言っていないと?」
「今のところは、何一つ。この時代にありがちな日常ばかりです」
ベリルの見立てで、少年を助けてからのササキは一昼夜で消耗していた。
「だからあの子が出木杉英才だと確定すれば、いくらかは説明のつくかもしれない事態なんです」
擦り切れた4畳半で未だ眠れる少年を三白眼で見つめた。
「あんまり過大にあの子を扱ってはいけないよ」
――そうやって潰れた剣の徒を、40年近く剣を振るっていくらか見てしまっている。
食べ終えたベリルが自分の和皿とササキの取り皿を給湯室の流しで洗っていた後ろで、少年は悪夢にうなされて今にも起きそうだ。
「ササキさん! 起きそうだよ!」
背もたれを回して胸を預けていたササキが事務椅子を弾いて4畳半に駆けつけて、コップに水を汲んでからカランを閉めたベリルも駆けつける。
はっと開眼してからバネのように起き上がり、激しい動悸で瞳孔を針穴まで細めている少年の背をササキはよく撫でる。
過呼吸の落ち着きを見計らってベリルは「水」と差し出したコップを少年は震えて手に取る。
ベリルに支えられながらどうにかゆっくり、カルキのきつい水道水を飲み干した。
「……のび太君達は!? ドラえもんや、僕と同じぐらいの年頃の4人は無事ですか!!?」
確定にササキがベリルと対面した時と同じく、腰をやや抜かす。
「まずは息を整えなさい。深呼吸だ」
ベリルは代わって少年の背をポロシャツ越しによく撫でて、先導して自分が深呼吸を繰り返す。
出木杉はベリルの整息に、荒う自分の息を必死に合わせて、短く過剰なサイクルをどうにか平静を取り戻した。
出木杉は見覚えのない大人2名――特に場違いなファンタジーRPG村人Aな外国人男性にしか見えないベリルを上目で見、それから腰抜かしから戻れたササキのYシャツ姿を見て、「あなた達も、時空嵐に?」と問うた。
「ジクウアラシ?」
ベリルの知る用語ではない。当然ササキもなのだが、ベリルと違い時空嵐の文字通りを受け取った。
コート掛けにかけたジャケットのポケットをまさぐる。
ササキが持っている2つのスマホのうち、超常現象対策局から支給された方のボイスレコーダーを起動し、擦り切れ畳に置いて出木杉の発言を余すことなく拾うことにした。
国産最新Androidのレコーダーアプリが、ただの家鳴りも拾って円環のレベルメーターを盛り上げた。
片田舎の剣聖が、少年に柔らかく名乗る。
「俺はベリル・ガーデナント。普段はレベリス王国のビデンって田舎村で剣術道場の師範をしている。そっちはササキ」
「警察庁刑事局の佐々木と申します」
ササキは表向きの身分を名乗り、下出な営業マン柄に、公僕名刺を出木杉に手渡した。
出木杉は、名刺にある『特殊犯罪対策課警部補』の肩書を二度見して佐々木を見るも、佐々木は「警察といっても、完全に巻き込まれただけですよ」と断った。
「名前を、教えてくれないかな?」
出木杉の強張りが解けたと判断したベリルが、ひと拍をついて出木杉に訊ねた。
「出木杉英才です」
ままの流れで出木杉は自身を名乗る。
「住所は?」
「東京都練馬区月見台、すすきヶ原3丁目――」
ベリルの正体を勘繰りながら、出木杉は自身の住所を言う。
「ここはカチドキ橋の近く、ツキシマという街区だが、帰り方はわかるかな?」
佐々木から発される音のまま、ベリルは問いに異郷の地名を織り交ぜていく。
「勝鬨橋ということは晴海通りがあって、近くに昔の築地市場がありますよね。だったらわかります」
出木杉は2019年の地理を意識へ展開して、帰り道をおおよそ割り出した。
「今、何年何日何時って、そらで言えるかい?」
一見は正気を確かめる様子――しかし別意図がありありと透けるベリルの踏み込み。
出木杉は怪訝を覚えたが、ぼかしても確実を述べた。
「込み入った経緯はあるんですけれど。……覚えている最新は2019年4月29日、午前11時を少し回ったところ……だったと思います」
「ふむ……ありがとう」
ベリルは齢シワの刻まれた笑窪を良く歪ませ、佐々木へ目配せする。
今度は佐々木が、出木杉へ向かった。
「落ち着いて、聞いてもらいたいのだけれど」
言いあぐねているのは出木杉にもわかった。
しかし、タイムマシンAIが発した理解不能なログやエラーの警報報知で、とんでもない事態になっているのだけは理解していた。
だからいまさら佐々木に遠慮されてもと、出木杉の方が埒を開けに切り出した。
「ここは何年ですか?」
ベリルの疲れ目も、この少年に釘付けだ。
佐々木は見開いた三白眼を静かに戻すと、確固として通告した。
「1966年、6月15日」
鴨居にかけられた古い柱時計が、ベリルにぜんまいを蒔かれてから2度目の、今度は昼の3時を、ぼーんと、重く鳴らす。
出木杉はすくっと立ち上がるも、これをベリルが肩を圧えて座らせた。