小説ドラえもん 出木杉英才の異説回帰録 作:エコノミック・アニマル
この国でも随一の規模を誇る築地中央市場に合わせる月島にとって朝とは、人夫仕事の一段落した男達が中の休みで食し、また競りから帰った中小の卸売が雑多の雑居ビルの仕事場で、算盤を弾いて帳簿なりとの第2ラウンドのゴングが鳴る時間を指している。
そんな中で、未明からの雨は小雨に弱まった。
やっと身体の慣れた、王都バルトレーンの乾いた夏の気候とはまったく違う。
昭和41年6月20日月曜日の、少し肌寒くも肌に梅雨湿気のじわる東京の朝5時を、剣聖ベリル・ガーデナントは月島の廃墟ビルで迎えたのだった。
鉄筋で補強した改造コウモリ傘による素振りの一通りを終える。
汗を拭ったベリルは、欠けだらけの暗い階段を降りた。
卸したてのスーパーカブに跨った新聞配達の青年から、余りの朝刊をニホン銅貨2枚――20円で分けてもらう。
この国の出身たるササキやデキスギ君の口語を解せても、東方文字……日本語を読めるわけではない。
しかし、刷り上がった新聞紙の手触りといい、荒いモノクロであっても人物姿の版画が緻密になされた東西新聞の朝刊一面を見張る。
そうして、自分の『田舎者』がこの国において、もっともな矮小を意味するのだと嗤った。
汚れたビニール張りの事務椅子を転がして腐れた木サッシの大きな窓の採光を頼りに、新聞をシャラリと開いていく。
――ベリルが唯一わかるのは、縁に掲載された四コマ形式の漫画ぐらいで、簡略された絵の人物が、何をネタにして起承転結を繰り出しているか、ぐらいだ。
大きな鳥を飼うのに用意した土地が、官僚らしき黒山にいちいち変えられるその風刺の漫画に、ベリルは特段面白みを感じなかった。
「成田闘争」
トイレの水洗を流して出てきた出木杉がベリルの開いた新聞の、スクープ一面を見て、永らい闘争の序をぼんやりとぼやいた。
「おはよう、デキスギ君」
「おはようございます。ベリルさん」
――さすがに、4日も経れば整理が出来たのだろう。
腐れ窓の汚れる……それでもベリルが丹念に拭いた格子ガラス越しの外では、向かいに建つ看板建築を越えた隅田川の雑踏が、ここまで聞こえてくる。
70度に跳開した勝鬨橋の橋桁がサイレンと電鈴の止みでギリギリ下りていく。
20分も待たされた歩道の人も車も都電も溜まりに溜まって、ヒンジの噛む直前には激しく渡り始めていた。
「ん……?」
新聞を畳んだベリルは、真下の階段口で佐々木と高利貸しめいた狐目の老婆が、深く話し込んでいるのを見つけた。
トラブルにしては佐々木の頭下げが感謝めいていたのでしばらく待つと、錆び鉄扉を全身で開けた佐々木の顔は、いくらか明るかった。
「このビルの持ち主が、綺麗にしてくれるなら、そのまま使ってくれて結構と言ってくれまして」
露骨の冷酷が続いた事態に少しばかり光明が差して、佐々木もそうだが、ベリルだって胸を撫で下ろした。
簡素を極めた朝食を終え、起こるまで漂うだけの3人が一斉に振り向く。
錆びた鉄扉をガツガツ叩いたのは、朝に佐々木が頭を下げていた狐目老婆だった。
携える真新しい雪平鍋には、揚げの味噌汁がほんのり熱を上げている。
「孫がパン食に凝ってしまっていつも余っちまうからね。もっとも、そこのメリケンさんに油揚げというのは、薄いかもだけどさ」
ベリルを一瞥した老婆は、そうやってケタケタと笑う。
「そんなことはないですよ」
一通り啜り終えたベリルは解れて答える。――実際、実のおふくろの3倍はしょっぱい。
スタンド灰皿を引きずり出した老婆が、手縫いのニットベストのポケットからハイライトのタバコを咥える。
ブックマッチで火をつけると紫煙がくるると蜘蛛糸を引いた。
「事情はあんまり訊かないけど、けどこんな子どもまで連れ立ってルンペンするんなら、よっぽどのことなんだろうとは勘ぐるさ。……まああたしゃあ、あんたらがメットに角材振るって徒党で威張るようなド阿呆でなけりゃ、行儀よくしてくれりゃあなんでもええさ」
2杯目の味噌汁を汲んだ佐々木が薄切りの油揚げを咀嚼してから、「しばらく、お世話になります」と改まる。
老婆は狐に吊った眼の小さな瞳で、横目に佐々木を捉えた。
「タダメシはないよ」と突っけんし、佐々木の体躯を嗤ってからベリルの逞しさをもって「メリケンさんは喜ばれそうだね」と勘定している。
狐目の歪みにベリルは一瞬悪寒するも、老婆の値踏みが結論した。
「悪くはしないよ。ただ場外で人夫が足りないそうで周旋の兄ちゃんに前から頼まれたのさ。そっちの佐々木は使えねえけど、メリケンさんはテキパキと運べそうだ」
ベリルの笑みが引きつった。
45の身体がガタついてつらいと言ったって、それで老婆から返される言葉が容易に想像できた。
――この婆さん、ルーシーやイブロイより優れたやり手だ。長年の勘からして、間違いなく汚さに熟れて、えぐいだろう。
固まる中年男2人を余所に、味噌汁を綺麗に食べ終えた出木杉が「ごちそうさまです」と老婆に謝する。
また振り向いた老婆が出木杉の顔色から手足から服装から一通り値踏みする。
「うむ、流行りの誘拐じゃなさそうだね」
頷いて大人達に視線を戻し、ドラ声を続けた。
「おまわりがあんたらを尋ねたなら、入船町の瀬村トメが身元保証人と言いな。月島のマッポウや荒い連中ぐらいならそれで諦めるから、あたしゃ強いぞ」
「は、はあ」
佐々木とベリルは困惑顔を見合わせ、ありものを頼るしかない今を相互に確かめる。
トメ老婆は花屋敷のお化けのような戯けてよく笑う。
「さっそく明日にゃうちを片づけてもらうかんね」と、廃墟のコンクリ階段を降りていった。
昭和41年6月21日火曜日。
未明の生ぬるい梅雨が湿気をそのまま蓄えて、初夏の28度近くまであがってしまった。
交通戦争ともいうべき晴海通り・勝鬨橋の、正午からずれ込んだ定期跳開が閉まるのを待つ。
佐々木を助手席に、蒸し暑さにくたびれたベリルと窮屈そうな出木杉を狭い後部座席に収めた瀬村トメのスバル360。
そんな満員で、免停物の激しいクラクションと追い抜きで、月島側の一番を獲り停車した。
忙しない電鈴の中で、フジミ放送の全国ニュースが報じている。
――15日、特定勢力に属していると見られる、銃火器で武装した少女の集団が、兵庫県西部・西播磨の山林地帯で惨死しているのが発見された。
記者達の追求により開かれた記者会見において兵庫県警本部長は、テロリスト組織によって育成されていた少年兵が、別勢力と交戦になったとみているとするも、その別勢力は一切不明……。
出木杉の眉間が険しくなる。
隣のベリルは耳を研ぎ澄ませ、助手席の佐々木がトメに断ってからラジオのボリュームを上げた。
しかしそれ以上の続報はなかった。
13時の時報と共に当たり障りのない婦人番組へ移る。
乱暴な手つきでフロアシフトを2速へ落としたトメが、その流れのままチューニングダイヤルを掻き回す。
「あたしゃ人に指図されるのがいやなんだよ」
婦人番組の司会が『朗らかな家庭婦人になるために』と言いかけたところで、皺年輪の狐目が価値観に対し唾棄した露骨を、隣の佐々木は見てしまった。
トメのスバル360は築地電停の直前を右折して、市場通のトラック列を乱暴に縫っていく。
入船町に入ってすぐ、電電公社の交換局を過ぎた直後の路地へ右折する。
ハッタリをかませるような戦前の看板建築ばかり。
民家と商店と靴工房の乱立を車窓が流していく。
まもなくその1戸の間口にスバル360が停車したのだった。
幅1間7寸――約3メートルの間口のほとんどがシャッター代わりの雨戸で閉め切られている。
かつてはペンキで『瀬村革具店』と立派に書かれていたのだろう。
建付けの悪い雨戸を蹴飛ばすように開けたトメの手指図で、思わずベリルを先頭にして、中の暗闇に入り込む。
「ぐえ!!」
やけにでかい蜘蛛の巣……何重にも張り直されるたびに埃を溜め込んだ蜘蛛糸がベリルの頭に引っかかった。
吊るされた電球にも拍子で当たったのか、遠心力で切れたそれが薄ガラスの割れる音を出した。
「ちょっとちょっと、電気壊しちゃ何もできないじゃないか」
表に残る佐々木と出木杉に狐目で命じて残りの雨戸を開けさせると、思った通り、何十年単位で放置された店内だった。
空の陳列スペースより、作業台と大柄なシンガー製産業ミシンと、ありし日の古ゴミを堆積させる石の浴槽で占められる工房のほうが大きい。
その奥の居住スペースからわずかに日光が確認できる。
蜘蛛の巣のまとわりつくのが取れきれないベリルや戸惑う佐々木と出木杉に対し、トメは無遠慮に仕事を命じる。
「家前に車置いといたら駐禁切符を切られたんだ。そんな無礼の若いお上りおまわりは蹴散らしてやったが、またやられたら気分が好かん。だから今日明日で車を入れられるだけ片付けてもらおうかい」
冷風扇を2つもつけたトメがくつろぐ居間の隣の工房跡の片付けに、3人はかなりの苦業を強いられていた。
特に出木杉が元気を取り戻す代わりに、いちいち珍しい骨董物を探し当てた。
軍手と頭巾にマスクをしてランニングシャツ姿の佐々木も「後にしなさい」と苦言する。
そうやって見つけて5本目の太い和鋏は、革を相手に歴戦して研ぎすぎ使いすぎで寿命だったようだ。
「この馬鞍なんか、ゴミになるなら持って帰ってオヤジに贈ってやりたいよ。傷ひとつない新品じゃないか」
「ベリルさんも、そういうのはあとで頼んでください」
工房の熱気やら汗埃その他の臭いが居間に流れてきたのか、不快の顔をしたトメが孫の部屋から持ってきた扇風機を強風で回し始める。
裏の玄関がガラガラ開いて「ただいまー」とハツラツの女声がした。
赤毛に浅黒い肌にそばかすを蓄えたブレザー少女が、袋入りの竹なぎなたと防具を廊下に置いて襖を開ける。
冷風扇が嵐す居間の湿った清涼に目を細め、居間から通じるかつての工房の、わずかに開いた磨りガラスの先を見た。
「ばあちゃん、またどこで奴隷を拾ってきたの?」
そんな呆れが少女の声に含まれているのを、ベリルは気づいて得心を得てから木箱を潰す作業に戻った。
「無料で住まいを貸したんだ、奴隷とはいわないよ」
トメの反論も、佐々木には詭弁にしか聞こえない。
江戸職人が立派に細工した古ぼけ仏壇の3遺影に対して、孫娘はそそくさと線香を焚いて義務的に手を合わせてから、電気冷蔵庫の2ドアを開けてサイコロに成形された製氷とカルピスの原液瓶を出す。
今朝作って魔法瓶に入れておいた湯冷ましと盆載せの5つのガラスコップを用意し、気持ち濃いめになるよう、カラカラと注いでいく。
「ばあちゃん、ちゃんと労わないとまた面倒だよ」
「ふんだ。そんときゃアキラ、あんたの日本一な薙刀と合気道があるさ」
「それ、傷害罪だから。インターハイ出れなくなるどころじゃないんだよ」
磨りガラスの悪建付けを蹴飛ばしつつ孫娘アキラだ。
「ばあちゃんが悪いね。ちょっと休みな」
扇風機の回る煤けた小上がりに、工房の3人にせんべいとカルピスを用意したのだった。