小説ドラえもん 出木杉英才の異説回帰録   作:エコノミック・アニマル

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6話

 昭和41年6月22日水曜日。

――泣き面のような曇り空の向こうで、朝日が霞んで照っている。

 

 柱時計が5時を鳴らす。やや遠の勝鬨橋が鳴っているが、古びた事務所は隔絶されて、カビた空気が震えていく。

 

 先の鋭い、75センチ長の古びたコウモリ傘は、傘布に隠された補強の幾重の鉄筋がたわんで軋む。

 それであっても、長く採られたストレート柄をベリルは力まず握りしめて、基本形を繰り返し、速めて繰り返し。

 繰り返し横に薙ぐ。払う、薙ぐ、払う。

 敵の脛を打って薙ぐ。間合いに入れば鳩尾を澄まして打つ。振り下ろしの顔面線を寸で払って眩ませ、怯ませる。

 想像で模した眼敵は、ベリルの従来予測では確かに転倒する。

 だが先日襲ってきた黒衣の、ダガー使いの狂戦士達に差し替えると、自滅を恐れない突進力ありきで集団と突っ込む。

――仲間の区別がされないなら、薙ぐ前に串刺しになっている。

 つまり停まれば死……ならベリルから攻勢に転じ、今度は刺突を繰り返す。

 基本形から上・中・下段。立て直しからの上・中・下段。

 相手に見立てた積み上げ事務椅子の、初手で詰め、間合いに入り、懐からためての顎への上突、変則してフェイントかけ、腹に対する一突。

 生き残れるだろう。しかし――この得物がよく歪む。実際たわんでいる。

 血払いにすんと振ってから、ベリルは右手の得物にとても呆れた。

――やはり軽すぎて、切っ先が重すぎる。

 ゴブリンの棍棒と考えたって、鉄筋身へあまりに重量比がのってしまっている。

 それでいて耐久性を考えると……ビデンの道具鍛冶どころか、バルトレーンの職工もこの作りには唸る、ベリルにだって判るほど精巧に造られた細いパイプ骨の長傘だ。

 それ故、どんなに補強したって、本来の用途以上には強くないだろう。

「ふむ……」

 開かない傘の隠れた親骨を芯にして、幾重にもきつく結んで補強したつもりの、錆びた鉄筋の歪む隙間を見る。

 これではいくらやり直しても大して変わらないと、ベリルは肩を落として諦めるしかない。

――せいぜい他に、マシな何かを探すしかない。

 何せいつもの、ゼノ・グレイブルから打ち出された剣は、おそらくはレベリオ騎士団の道場ベンチに、持ち主をなくして置き去りになっていた。

 今頃は打ってくれたバルデルと、贈ってくれたスレナが、とても残念がっていることだろう。

 

 白バイのサイレンが一瞬で通り過ぎて、橙色のトヨペット・パブリカ700デラックスが路側に停まる。

 ブラインドを堂々と開けた腐れの窓を観音開き、汗を拭う半裸のベリルが身を乗り出してよく拝んだ。

 すれ違いで敷島重工の工場――佃島への抜け道に急ぐ白緑ツートンの中古ヒルマンミンクスも、一時停止の無視で別の白バイにサイレンを鳴らされている。

 ……その白バイに引っついて、日産セドリックの黄色い帝王無線タクシーがすっとばしていく。

 その後ろをダイハツ・ハイゼット、また後ろをダットサン・サニー、またまた後ろにフォルクスワーゲン・ビートルの空冷バタバタ……。

 きりがないと、とうとうベリルは引っ込む。

 給湯室では割烹着姿の佐々木が、魔法で冷蔵庫の氷を補充しながら、下のドアの中身を確認して唸っている。

 ベリルの真下を、自転車を押して練り歩く納豆売りの少年喚呼に佐々木が気づいた。

 錆び鉄扉を乱暴に開けてドタドタと階段を降りていく。

 納豆売りから一藁を買い、行商農婦の山にも当たれた佐々木は、時季のワラビやフキの山菜をいくつか買う。

 世間話がつい深くなって娘の行商が何か勘ぐった。

 そうして「どうせ早目で売れないから」と熟れ過ぎた大玉トマトを1つサービスしてくれた。

 次いで中年や高齢の行商も「売れ残ったらこっちに戻っから、待っといで」と続ける。

 割烹着を羽織った佐々木が、へこへこと頭を下げて礼を繰り返すのだった。

 

――佐々木さんもベリルさんも、僕がすすきヶ原に行くのを制止するはずだ。

 抜け出せるとすれば、瀬村家を片付け終える直前。

 幸い、持ち合わせは当時でも通じる10円や50円玉ばかりだ。

 

 カランが錆水から水道水に戻っていくのを見た出木杉は、そろそろと顔を洗って歯を磨いていく。

 

――確かめよう。まずは安心したいし、どう狂ったかは実際に確認したい。

 最良、パラドックスの整合で元に戻れるかもしれない。

 もちろん期待できないけど、期待したい。

 

 朝支度を終えた出木杉も交えた3人は、牛脂の臭い野菜炒めの朝食をどうにか平らげると、柱時計が8時の鐘を鳴らしていた。

 佐々木が買い込んだ行商農婦の一団が、口約束通りに戻ってきた。

「空荷にしたいついでだよ」

 置いていく大量の緑野菜を、空箱を携える3人がかりで事務所に上げていく。

 佐々木と出木杉が野菜の分別をして冷蔵庫の狭い庫内に収まるよう、錆びの残る包丁で切り分けていく。

 そうした最中に、外からクラクションが急かして叫んでいた。

「今年はずいぶん寒いから、あんまり出来の良くないね」

 ネズミに食われないようにと、ベリルの提案で天井から吊るした常温保存分の野菜をトメ婆の狐目が品定めする。

「ま、無料なら上等さ」と締めくくった。

 そして「支度しな。今日で終わるだろう」とよく急かす。

 実際、瀬村革具の在りし日の残骸は、3人の手で速やかな解体のうえで分別された。

 木箱とずだ袋に詰めると、あとは呼んですぐ来れると言ってくれたゴミ収集車を待つばかりだ。

 建屋建具の拭き作業が残っている。

 久しぶりに開栓された工房のカランから、佐々木がホース口を潰して水をよく撒いて、たまに水圧をかけて飛ばしていく。

――予想外に早く済みそうだ。隙ができるなら、ゴミ収集車に積み込む頃合いか。

 拝借する古くて臭うゴム長靴を履いたベリルと出木杉が、毛の少ないデッキブラシで玉砂利の平らに削れきったセメント床の汚泥を、ガシガシと擦り上げて取り除いていく。

 

 昼食と休憩を経て再開される。

 大柄のベリルが外した陳列棚をよく磨いて、いにしえのニス塗りが日から光沢を照り戻す頃。

 雨戸を外した店前に『東京都清掃局』と書かれたマツダT2000のダンプカーが横付けしようとした。

 しかしトメ婆の雑なスバル360の駐車に運転手と作業員が文句たらたらだった。

 学校から帰ったそのままでアキラが「ばあちゃんちょっと考えてよ!!」と怒鳴っている。

 スバル360を月極駐車場へ駐め直しに出され、仕切り直す作業員らを加えた大人男4人がかりで、関東大震災以来、40年もの歳月で堆積した全部をダンプに載せていく。

――誰も、自分を見ていない。

 ゴム長を自分のスニーカーに履き替えて着衣を整えた出木杉は、破れ音を起こすゴミの積み出しから密かに抜け出す。

 背広で混雑する地下鉄日比谷線を霞が関で乗り換えて新宿駅へ至る。

 未完成のダンジョンを迷うことなく踏破して一旦外へ、武埼電鉄駅へたどり着いて新宿線ホームで次発を待つ。

 時刻表をよく確かめなかったが、20分もすれば本川越行きの鈍行が折り返しで入線した。

 

 高田馬場駅までの直線を行き、神田川を弧に曲がりながら渡ってから新目白通りと並走してほどなく『下落合』。

 平らのまま細かな蛇行と時折の左右急カーブを繰り返しながら『都立家政』を出たらすぐに『鷺ノ宮』だ。退避ホームに当駅止まりの発車待ちを、流れ始める車窓から出木杉はただ見る。

 鈍行を担う4両編成の701系電車は速度をのせる。

 曇る車窓は青茂をただの色として流し、出木杉の張り詰めがより競っていく。

『下友引』、『井荻』、『上友引』、――ただの記号だと出木杉は流していく。

そうして月見台――『月見台』。

 

 翌42年以降の現行デザインたる100円硬貨や令和の合金500円玉を抜かして、1円5円10円50円と残り額はざっと600円。

 現代に通う小学校にほど近い自宅は、のび太の家よりそこそこ歩く。

 裏山大通りよりかなり外れた住宅街の真ん中だ。

 1週間前に来た際に、概ねの街路は同じでも細かに覚えと違うばかりだったのを考えると、迷うリスクを考えなきゃならない。

 ロータリーには個人の行灯を冠したダットサン・ブルーバードが客待ちで控えている。

 窓に貼られる『初乗り60円』、それに賃走を考えると、今の手持ちでギリギリだが……。

「足りないなら足りないで、家に帰るってんなら不足分は親が払えるかね」

 小綺麗な中年運転手に、迷う出木杉がとりあえず手持ち額を伝える。

「それで十分だよ」

 そう素っ気なく答える。インパネ下のノブを引いて後部ドアを開けた。

 生まれてずっと住んでいる住所をそのまま伝え「小学校の近くかい?」と確認されたので頷く。

 バックミラーで後席左方に黙り縮こまる出木杉を見た運転手は、赤丸の空車レバーを白革手袋で丁寧に下ろした。

 タクシーメーターが60円を示すと、プロパン仕様の1299ccに対して優しくアクセルを込めた。

 現代に撤去された噴水のまだ吹く、真新しい駅前ロータリーをゆっくり回り、裏山大通りの濁流に応じる。

 ダッシュボード上にタクシーメーターと並ぶ丸みを帯びた箱型の時計は、17時07分を40秒に差し掛かっていた。

 

 タクシーは小学校へ至る路地へ左折して、不注意めいたすべての相手をそろそろと躱して、やり過ごしながら進んでいく。

「そこを左に、すぐ右へ」

 校門を確認した出木杉は運転手に告げるも、困惑している。

「本当にここなの?」

 エンストに気を使ってコラムシフトを頻繁に上げ下げしながら、細ステアリングを大回しする。

 言われた場所へ辿り着き、「もっと先の分譲じゃないのかい?」と出木杉へ振り向く。

 ……顔面蒼白の少年が、それでも震える手でメーターの示す180円を支払おうと、起毛マットの敷かれた床へ溢しかけていた。

 

 提示の料金を支払えていたので理由はない。

 それでもこのタクシーは少し離れた砂利道で、出木杉を見張って引き返してくるのを待っている。

 そんな運転手の視線を背に受ける、夕日になりかけた曇りの太陽で青々と茂る畑跡へ立った出木杉には、待たれることこそ『自分に対する存在否定』と同義だった。

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