意識の底は、泥のように重く、暗かった。
身体の感覚がない。自分が何者なのか、ここがどこなのか、それすらも曖昧なまどろみの中。ただ一つ、強烈な飢餓感にも似た力の奔流だけが、体の奥底で渦巻いているのを感じていた。彼の名は
「オレは……生きてんのか……」
掠れた声が喉から漏れる。彼、黒嶺真護は魔都災害に巻き込まれ意識を手放した。
瞼を開けようとするが、鉛のように重い。思考が再び闇へと沈もうとした、その時だった。
「いい加減起きろ!!」
ドォォォォン!!
腹部に叩き込まれた衝撃は、目覚めの挨拶にしてはあまりに暴力的だった。
内臓が跳ねるような感覚と、灼けつくような痛み。
「グエッ!!」
情けない悲鳴と共に、真護の上半身がバネのように跳ね起きる。
肺の中の空気が強制的に吐き出され、彼は激しく咳き込んだ。涙目で痛みの元凶を睨みつける。
「いってぇ……! 何しやが……」
文句を言いかけた口が、止まった。
目の前に立っている人物。その姿が、あまりに衝撃的だったからだ。
白く変色した肌。白銀の髪。そして、人間離れした威圧感。だが、その顔立ち、そして何より、人を食ったような悪戯っぽい笑みには、強烈な既視感があった。
「あ……あんた……もしかして青羽さんか……?」
恐る恐る尋ねると、彼女――和倉青羽は、ニカッと歯を見せて笑った。
「ピンポーン! 正解!! シンちゃん久しぶり!!」
「マジかよ……」
その声を聞いて、ようやく真護の全身から力が抜けた。
幼馴染である和倉優希の姉、青羽。彼女が魔都災害に巻き込まれて行方不明になったと聞いた時、真護は絶望した。優希の悲しむ顔も見ているのが辛かった。
だが、彼女は生きていた。姿形は変わり果てているが、その魂の在り方は何一つ変わっていないように見えた。
「生きてたなら連絡ぐらいしろよ……って言いたいとこだけど、その姿じゃ無理か」
「ご名答。ま、色々あってね」
真護は周囲を見渡す。岩肌が剥き出しの殺風景な部屋。布団が一枚。そして、自分自身の体を見て――凍りついた。
「……え?」
何も着ていない。
鍛え上げられた肉体が、寒々しい空気に晒されている。
青羽は真護の体をつま先から頭のてっぺんまでジロジロと眺め、感心したように口笛を吹いた。
「へぇ……相変わらず筋トレ続けてたんだねぇ。いい体してんじゃん」
「うわっ! なんでオレ素っ裸!?」
真護は慌てて布団を引き寄せ、体を隠す。顔から火が出そうだった。
孤児院育ちで、下の子たちの世話や風呂入れなどで裸には慣れているつもりだったが、年上の、しかも幼馴染の姉にまじまじと見られるのは訳が違う。
「あはは、反応ウブだねぇ。ほら、これ着な。後で合わせたい奴らもいるんだ」
青羽が放り投げてきたのは、黒い布の塊だった。
真護はそれを受け取り、広げる。
それは、着物のようでありながら、もっと活動的な造りをしていた。袖は広く、袴のような形状をしている。所々が破れ、擦り切れているが、不思議と手に馴染む感覚があった。
「これは……?」
「あんたが倒れてた場所の近くにあったんだよ。なんか運命的じゃない?」
真護はその漆黒の装束――死覇装に袖を通す。
帯を締めると、背筋がスッと伸びるような感覚があった。ボロボロの布切れなはずなのに、まるで自分のためにあつらえられた戦闘服のようにフィットする。
「おー似合ってるねえ。やっぱ何着ても似合うねシンちゃんは」
「まぁ……ありがとな……」
少し照れくさそうに鼻をこすると、青羽は出口へと顎をしゃくった。
「さ、行くよ。みんなが待ってる」
岩窟のような通路を抜け、開けた場所に出る。
そこは、隠れ里と呼ぶにふさわしい場所だった。外の荒涼とした魔都の風景とは違い、生活の匂いがする。
だが、そこにいる「住民」たちは、決して普通の人間ではなかった。
青羽と同じように、角が生えていたり、肌の色が違ったりする異形の女性たち。人型醜鬼。
彼女たちの視線が、一斉に真護に突き刺さる。
「おいおい、なんだあの男」
「男?マジ?」
ざわめきの中、青羽は堂々と歩を進め、二人の人型醜鬼の前で立ち止まった。
一人は小柄で元気そうな角の生えた少女。もう一人は、長い髪を持つクールな雰囲気の女性だ。
「二人とも! 新入りだよ!」
青羽の声に、二人が反応する。
「あ! 青羽姉! 新入り?」
ココと呼ばれた少女が、興味津々といった様子で真護に近づいてくる。鼻をひくひくとさせ、匂いを嗅ぐような仕草をした。
「へぇー、男の人だ!私たちと同じ匂いがする!」
「ココ、離れなさい」
鋭い声と共に、もう一人の女性――波音が前に出た。彼女の眼光は鋭く、値踏みするように真護を見据えている。
「青羽、どういうつもり? 男が人型醜鬼だなんて……前代未聞だわ。それに、男は桃の能力を得られない。ただの足手まといなら、ここには置いておけない」
波音の言葉はもっともだった。
この世界において、魔都の恩恵を受けられるのは女性のみ。男は守られるべき存在であり、戦う力を持たないのが常識だ。
「あはは、波音は相変わらず厳しいねぇ。でも大丈夫、こいつは特別だから」
「特別? 何がよ」
波音が訝しげに眉をひそめる。
青羽はニヤリと笑い、真護の背中をバンと叩いた。
「見せてやりな、シンちゃん。あんたのその力を」
真護は一つため息をつくと、一歩前へ出た。
ここに来るまでの記憶は曖昧だ。だが、体の中に眠る「力」の使い方は、なぜか本能が理解していた。
まるで、最初からそうであったかのように。
「……分かった。でも、驚かないでくれよ」
真護が右手を横に突き出す。
意識を集中させる。腹の底で渦巻く黒いエネルギーを、一点に凝縮させるイメージ。
大気が震えた。
「なっ……!?」
波音が目を見開く。
真護の手のひらから、漆黒の奔流が噴き出したのだ。それは形を成し、一本の刀へと収束していく。
通常の醜鬼が持つような、巨大で歪な武器ではない。
鍔が「卍」の形状をした、あまりに細く、あまりに美しい、漆黒の日本刀。
「名は……『天鎖斬月』」
真護がその名を口にした瞬間、彼を中心に爆発的なプレッシャーが放たれた。
重い。空気が鉛に変わったかのような重圧。
ココが「わあ!」と声を上げて尻餅をつく。波音でさえ、思わず数歩後ずさった。
「これが……男の能力……?」
波音の驚愕をよそに、真護は刀を構えることなく、ただ自然体で立った。
だが、その姿は先ほどまでとは別人のようだった。死覇装の裾が、風もないのにはためいている。
「波音さん、だったか。試してみるか?」
真護の挑発とも取れる言葉に、波音のプライドが刺激された。彼女の表情が戦士のものに変わる。
「……いいわ。その減らず口、きけなくしてあげる!」
波音の姿がブレた。
人型醜鬼特有の身体能力。瞬きする間に間合いを詰め、鋭い蹴りを放つ。岩をも砕くその一撃は、しかし――空を切った。
「え?」
波音の視界から、真護が消えていた。
いや、消えたのではない。
「遅い」
背後から声がした。
波音が振り返るよりも速く、首筋に冷たい感触が走る。
漆黒の刃が、波音の喉元寸前で止められていた。
「な……いつの間に……!」
誰も反応できなかった。
青羽でさえ、今の動きを目で追うのがやっとだった。
単なる高速移動ではない。初速からトップスピードに乗るまでのタイムラグが皆無なのだ。
「超高速戦闘……それがオレの持ち味らしい」
真護はふっと力を抜くと、天鎖斬月をスッと下ろした。刀身は黒い霧となって霧散し、彼の体の中へと戻っていく。
同時に、周囲を圧迫していたプレッシャーも消え失せた。
「……ふぅ。まだ慣れねえな、この感覚」
肩を回しながら言う真護に、静寂が訪れる。
やがて、パチパチパチと乾いた拍手の音が響いた。
「すっごーい!! シンゴお兄ちゃん、今の何!? シュッて! シュッて消えたよ!?」
「やるじゃん、シンちゃん。これなら文句ないでしょ、波音?」
青羽が得意げに波音を見る。
波音は悔しそうに唇を噛んだが、やがてふいと顔を背け、しかしその表情には微かな笑みが浮かんでいた。
「……まぁ、認めてあげるわ。掃除夫くらいには使えそうだし」
「掃除夫かよ。ま、家事全般は得意だけどな」
真護が苦笑すると、ココが目を輝かせて飛びついてきた。
「家事できるの!? ご飯作れる!? お腹空いたー!」
「わ、分かった分かった。何かあるなら作るよ」
孤児院で鍛えたスキルが、まさか魔都で役に立つとは。
真護は、自分を取り囲む異形の、しかしどこか温かい「家族」たちを見渡した。
かつての日常はもう戻らないかもしれない。
体は化け物に変わり、力を得た。
それでも――。
「(優希……オレは生きてる。必ず、お前たちが安心して暮らせる世界を取り戻すために……この力を使う)」
心の中で幼馴染に語りかけ、真護は青羽たちに向かってニカッと笑った。
「よし、じゃあまずは飯にするか。材料はあるか?」
「あるよ! 桃はないけどね!」
青羽の軽口と共に、黒い死覇装の男と異形の乙女たちの、奇妙な共同生活が幕を開けた。
初投稿です。よろしくお願いします