「グガァァァァァァッ!!」
洞窟を震わせる鼓膜を破らんばかりの咆哮。
紫黒の放った漆黒の蛇に噛まれ、自我という名の枷を外された一本角の醜鬼――鬼童丸。その瞳からは、先ほどまで和倉青羽に従っていた微かな理性の光は完全に消え失せ、ただ破壊のみを渇望する魔都の純粋な暴威が宿っていた。
巨木のような腕が、圧倒的な質量と速度を伴って振り下ろされる。
狙いは、白き巨躯を持つ異形の獣――和倉優希だ。
「遅えな」
だが、その巨大な拳が優希を捉えるよりも早く、黒い死神が動いた。
『瞬歩』。
黒嶺真護の姿が掻き消える。卍解状態の彼にとって、理性を失い大振りになった醜鬼の攻撃など、止まって見えるに等しい。
残像すら残さぬ神速のステップで斜め前方へと滑り込み、鬼童丸の攻撃の軌道を完全に躱してみせた。
そして、空いた懐へと、優希が踏み込む。
『グルルルゥッ!』
主である七番組組長・羽前京香と繋がる無窮の鎖。そこから流れ込む圧倒的なエネルギーが、優希の全身の筋肉をパンプアップさせる。
鬼童丸もまた、真護に躱された勢いをそのままに、逆の腕で優希を粉砕せんと剛腕を突き出した。
巨獣と巨獣の、正面からの激突。
(合わせる……!)
優希は、自身の内に渦巻く破壊の衝動を、一点へと研ぎ澄ました。
力任せに殴るのではない。鎖の主から与えられた力と、己の意志を直結させる。
優希は大きく振りかぶった右拳に全てを乗せ、迫り来る鬼童丸の巨大な拳へと真正面から叩き込んだ。
『隷架拳(れいかけん)』!!
ドッバァァァァン!!
両者の拳が激突した瞬間、洞窟内の大気が爆発したかのような衝撃波が吹き荒れた。
拮抗したのは、ほんの一瞬。
メキメキと、嫌な音が響く。それは、鬼童丸の強靭な骨が内側から砕け散る音だった。
「ギャァァァァッ!?」
優希の隷架拳は、鬼童丸の巨大な右拳を、腕の付け根まで完膚なきまでに粉砕した。肉が弾け飛び、紫色の血が間欠泉のように噴き出す。
「へっ、やるじゃねえか」
その光景を横目で見て、真護はニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。
あの優しくて気弱だった幼馴染が、今や巨大な魔物と正面から殴り合い、圧倒している。
その事実が、真護の魂を熱く燃え上がらせた。
「オレも、負けてらんねえな!」
真護が刀を握り直す。
次の瞬間、黒い疾風が鬼童丸の周囲を包み込んだ。
速い。あまりにも速すぎる。
斬撃の音すら後から追いかけてくるほどの超高速戦闘。
上下左右、四方八方、あらゆる死角から、漆黒の刃が鬼童丸の巨体を容赦なく切り刻んでいく。
「ガァッ!? ギィィィッ!!」
硬質な皮膚が裂け、筋肉が断たれる。防御など意味をなさない。反撃しようにも、腕を振り回した空間にはすでに真護の姿はない。
数十、数百の斬撃をわずか数秒の間に叩き込まれ、鬼童丸の全身から血飛沫が舞い上がった。
ズシンッ、と鬼童丸が膝をつく。
全身血だるまになりながらも、その一つ目には、痛みを凌駕するほどの凄まじい怒りと憎悪が渦巻いていた。
「ゴォォォォォォッ!!」
空気を震わせる怒りの咆哮。
だが、その怒りすらも上回る、絶対零度の殺気が鬼童丸を見下ろしていた。
「……怒っているのか、一本角」
優希の手綱を握る、羽前京香だ。
彼女の瞳には、一切の感情がないように見えて、その奥底では地獄の業火のような怒りが煮えたぎっていた。
故郷を焼き尽くし、家族を奪い、友を殺した、憎き仇。
ようやく、本当にようやく、その首に刃を届かせる場所まで辿り着いたのだ。
「だがな……こちらの方が! 百倍荒ぶっているぞ!!」
京香の殺気に当てられ、鬼童丸の本能が死の危険を察知した。
このままでは殺される。
醜鬼は、生き残るための最終手段に出た。
バキバキバキッ!と、自身の体を覆っていた分厚い外殻(アーマー)を、強引に引き剥がしたのだ。
防御力を捨て、極限まで軽量化された肉体。
全ては、その頭部に生える「一本の角」に全存在を懸けるため。
「ルルォォォォォォッ!!」
装甲を脱ぎ捨てた鬼童丸が、地面を爆砕して跳躍した。
狙いはただ一つ。憎き京香の乗る、白き獣・和倉優希。
砲弾の如きスピードで、鋭利な角が真っ直ぐに突き出される。
「優希!!」
真護が叫ぶ。
今の真護の立ち位置からでは、その突進を弾き返すのにはコンマ一秒間に合わない。
直撃すれば、優希の分厚い胸板ごと心臓を貫かれる威力の突撃。
だが、優希は逃げなかった。
(俺が避ければ……後ろにいる京香さんがやられる!)
極限の集中。
優希は両足で岩盤を深く抉り、重心を落とす。
そして、迫り来る死の角に対し、己の「顎」を大きく開いた。
ガギィィィィィンッ!!!
凄まじい金属音。
優希は、鬼童丸の全力の突進を、その強靭な牙と顎の力だけで、正面からガッチリと受け止めたのだ。
「ギ……グゥゥゥゥッ……!」
優希の足元の岩盤がクレーター状に陥没し、牙が悲鳴を上げる。
しかし、決して後ろには下がらない。角は優希の口の中で完全に固定され、鬼童丸の動きが完全に停止した。
「へえ……」
その光景を、上空に浮遊する八雷神・紫黒は、まるでサーカスの見世物でも見るかのように、面白そうに目を細めて眺めていた。
「人間が醜鬼を飼い慣らすだけでも異常なのに、あんな力技で止めるなんてね。面白いおもちゃを見つけ……」
「よそ見してんじゃねえ!!」
紫黒の真横の空間が歪み、真護が現れた。
優希が角を受け止めた瞬間、真護は瞬歩で一気に上空の紫黒へと肉薄していたのだ。
横薙ぎに一閃される、必殺の黒き刃。
だが。
「おっと」
紫黒は、重力を無視したような不自然な軌道でスッと後方へスライドし、真護の斬撃をいとも容易く躱してのけた。
「今、面白いとこなんだよ。邪魔しないでくれる?」
紫黒の余裕の笑みに、真護は舌打ちをする。だが、真護の目的は紫黒を倒すことではない。この神の視線を、一瞬でも京香たちから逸らすことだった。
(今だ……組長さん!優希!)
地上。
優希の顎に角を封じられ、身動きが取れなくなった鬼童丸。
その無防備な巨体の前に、羽前京香が静かに歩み出た。
彼女の脳裏に、いくつもの光景がフラッシュバックする。
炎に包まれた故郷の村。
瓦礫の下で息絶えた家族。
助けられなかった友人たちの絶望の顔。
あの日から、彼女の時計は止まっていた。幼き頃に厳しいリハビリを乗り越えて鍛錬を積み
同年代の少女たちが、恋をし、お洒落を楽しみ、輝かしい青春を謳歌している間。
京香はただ一人、薄暗い修練場で木刀を振り続けた。
手に豆ができ、それが潰れて血が滲み、やがて分厚いタコに変わるまで。
涙を流すことすら自分に禁じ、心に鬼を棲まわせ、ひたすらに強さだけを求めてきた。
女性としての幸せなど、とうの昔に捨て去った。
すべては、ただ一つ。この憎き一本角を、己の刃で討ち果たす、その瞬間のためだけに。
「……長かった」
京香は、愛刀の柄を静かに両手で握りしめた。
研ぎ澄まされた刃が、魔都の淀んだ空気を切り裂いて冷たく輝く。
「この命、この青春……すべてはお前を斬るために」
静かな、祈りのような構え。
そして、京香の姿がブレた。
優希が固定する鬼童丸の巨体。その周囲を、桜の花びらが舞うかのように、美しくも苛烈な剣閃が覆い尽くす。
「乱れ山桜!!」
一閃、二閃、三閃。
いや、数えることなど不可能なほどの、神速の連撃。
京香のこれまでの人生のすべてを乗せた刃が、鬼童丸の肉体を、骨を、そしてその穢れた魂を、一切の慈悲もなく切り刻んでいく。
「ギ……ガァァァァァ……ッ……!!」
断末魔の叫びすらも、次の斬撃によって断ち切られる。
優希が顎の力を緩めると、すでに生命活動を停止した鬼童丸の肉体は、自重を支えきれずにドサリと崩れ落ちた。
細切れになった肉塊からは、紫色の血が止めどなく流れ出し、魔都の土を黒く染めていく。
静寂が、訪れた。
上空で剣を交えていた真護も、紫黒も、そして地上の優希も、その圧倒的な決着をただ見つめていた。
京香は、血に濡れた刃を静かに振り下ろし、残心をとる。
彼女の顔に、復讐を果たした狂喜はない。
ただ、ひどく静かな、長い長い重荷を下ろしたような安堵だけが浮かんでいた。
彼女は、鬼童丸の死骸を見下ろしたまま、誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。
「――この剣は、故郷に捧ぐ」
数十年に及ぶ、一人の少女の長きにわたる復讐劇が、今、魔都の最深部でひっそりと幕を下ろしたのだった。