魔都の死神   作:アレクサンドル三世

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第16話 喪失の夜、寄り添う二つの魂

魔都の空は、いついかなる時も淀んだ紫色に染まっている。

太陽も月も星もない、永遠の薄明かりの中を、黒嶺真護と和倉青羽は無言で駆け抜けていた。

羽前京香たち魔防隊と別れ、新たな隠れ里へと向かう道程。

真護の歩みは力強かったが、その隣を走る青羽の足取りは、誰の目から見ても限界をとうに超えていた。

八雷神・壤竜の放った理不尽な衝撃波。そして何より、信頼していた鬼童丸の裏切りによる痛撃。身体的なダメージだけでなく、精神的なショックが彼女の生命力をゴリゴリと削り取っていた。

それでも彼女は、気丈に前を向いて走り続けていた。

だが、荒涼とした岩場を越えようとしたその時だった。

 

「あっ……」

 

ガクッ、と。

青羽の膝から唐突に力が抜け、その体が前のめりに崩れ落ちそうになる。

地面の鋭い岩肌が彼女の顔面に向かって迫る――が、それより早く、漆黒の袖が風を切った。

 

「っと……!」

 

真護が、倒れ込む青羽の体をがっしりと抱き留めた。

己の体ごとクッションにするようにして受け止め、その肩に腕を回す。真護の胸板に顔を埋める形になった青羽は、荒い息を吐きながら小さく「ごめん……」と呟いた。

 

「無茶しすぎだ」

 

真護の声には、非難ではなく、深い労わりの色が滲んでいた。

どれだけ強がっていても、彼女の体は限界だったのだ。それに気づいてやれなかった自分への苛立ちも、真護の中にはあった。

だが、青羽は真護の胸に額を押し付けたまま、自嘲するように弱々しく笑った。

 

「優希が見てたんだもん……。お姉ちゃんなのに、みっともないトコ、見せられないよ」

 

その言葉に、真護はハッとした。

かつて人間だった頃から、青羽はいつだって「強くて頼りになる和倉優希の姉」だった。

弟を深く愛し、弟を守るためならどんな無茶でもする。魔都という地獄に落ち、異形の姿に成り果ててもなお、彼女の魂の根底にあるそのプライドだけは決して折れていなかったのだ。

あの絶望的な状況下で、彼女が一度も膝をつかず、最後まで戦う姿勢を見せ続けたのは、他でもない優希の瞳があったから。

 

「……アンタって人は、ホントに」

 

真護はクソデカ溜息をつきそうになるのをグッと堪え、青羽の体をそっと引き剥がすと、彼女の前で背中を向け、しゃがみ込んだ。

 

「ほら、乗れ」

 

「え……いいよ、アタシ重いし……」

 

「アホ。今のアンタの体重くらい、卍解しなくても小指で担げるわ。いいから乗れ」

 

半ば強引に青羽の腕を引き、自身の背中へと負う。

真護が立ち上がると、青羽の体がふわりと宙に浮いた。かつて孤児院で下の子たちをおんぶした時と同じ、慣れた手つき。

だが、背中に伝わってくる青羽の体温は、ひどく冷たく、そして小刻みに震えていた。

真護は、彼女の足をしっかりと支え直し、前を見据えて歩き出す。

 

「しっかり休んでくれよ、リーダー」

 

「……うん。ありがと、シンちゃん」

 

青羽は真護の広い背中に顔をうずめ、そっと目を閉じた。

死覇装越しの真護の背中は、不思議なほど温かく、そして絶対に揺るがない大樹のような安心感があった。

数十分後。

真護たちは、あらかじめ用意してあった新たな隠れ里へと到着した。

そこは、以前の里よりもさらに深く、複雑な地下洞窟の奥底に位置する空間だった。

入り口を抜けると、以前の隠れ里から先に避難してきていた、非戦闘員の人型醜鬼たちが不安そうな顔で寄り集まっていた。

 

「あ……青羽さん! 真護くん!」

 

「帰ってきた……! よかった……!」

 

真護が青羽をおんぶして姿を現すと、里の中に安堵のどよめきが広がった。

だが、その安堵は長くは続かなかった。

真護の背中から降り、何とか自力で立った青羽の隣には、いつも彼女の傍らにいたはずの二つの影がなかったからだ。

 

「あの……波音さんと、ココちゃんは……?」

 

一人の少女の人型醜鬼が、恐る恐る尋ねる。

その問いに、青羽は唇を噛み締め、俯いた。真護が一歩前に出て、重々しい口を開く。

 

「ワリィ。……ココと波音は、攫われちまった」

 

沈黙が、冷たい水のように里を満たした。

 

「まさか……!? 魔防隊に!?」

 

「あいつら、ついに私達を実験動物にする気なの!?」

 

パニックに陥りかける仲間たち。

真護は首を横に振り、さらに絶望的な事実を告げた。

 

「いや……もっとヤバい奴らだ。自らを『八雷神』と名乗る、神を自称するバケモノ共だ。……魔防隊の組長クラスですら、手も足も出なかった」

 

その言葉の重みに、誰もが息を呑んだ。

あの強大な魔防隊ですら敵わない存在。そんなものに、家族同然の仲間が連れ去られてしまった。

すすり泣く声が、洞窟の中に反響する。

青羽は何も言えず、ただ自責の念に押し潰されそうになりながら、その場にへたり込んだ。

見回りの配置を決め、動揺する仲間たちを落ち着かせた後。

真護は、洞窟の最奥に設けられた簡素な居住スペースに、青羽を横たわらせていた。

毛布代わりの獣の皮を何枚か重ねただけのベッド。だが、今の疲労しきった体には十分だった。

真護は、水で濡らした布で青羽の顔の汚れや血痕を丁寧に拭き取ってやった。

孤児院時代に培った手当のスキル。痛まないよう、優しく、繊細に。

 

「……よし。とりあえず、外傷で酷いところはない。あとはゆっくり休めば、アンタの治癒力なら治るはずだ」

 

真護が立ち上がり、血のついた布を洗うためにその場を離れようとした、その時だった。

ぐいっ。

真護の着ている死覇装の裾が、弱々しい力で引かれた。

振り返ると、毛布にくるまった青羽が、縋るような目で真護を見上げていた。

 

「もう少し……一緒にいて……?」

 

その声は、いつも豪快に笑い、皆を引っ張っていく『リーダー』のものではなかった。

ただの一人の、傷つき、怯える女性の声だった。

ココと波音。あの地獄のような魔都で出会い、共に生き抜き、心を通わせた大切な家族。その二人を、自分の目の前で、手も足も出ずに奪われたのだ。

その強烈な喪失感と無力感が、青羽の心をどす黒い虚無で満たしていた。

一人になれば、その暗闇に飲み込まれてしまいそうだった。だから、今だけは、この暗闇を埋めてくれる圧倒的な『熱』が欲しかった。

真護は、青羽の震える指先を見て、小さく息を吐いた。

 

「……分かった。どこにもいかねえよ」

 

真護は再び腰を下ろし、あぐらをかいて青羽の枕元に陣取った。

青羽はホッとしたように息をつくと、毛布の中から腕を伸ばし、真護の腰のあたりにギュッと抱きついた。

顔を真護の太ももに押し付け、まるで小さな子供が母親にすがるような姿勢。

 

(……オレは抱き枕か?)

 

内心でそうぼやきながらも、真護は彼女を振り払おうとはしなかった。

むしろ、腰に回された彼女の腕の細さと、伝わってくる微かな震えに、胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚を覚えていた。

強がってばかりのこの人が、自分にだけ見せてくれる弱さ。

それが、どうしようもなく愛おしい。

 

(悪くねえな……)

 

真護はそっと手を伸ばし、青羽の白銀の髪を、昔下の子たちをあやした時のように、ゆっくりと、一定のリズムで撫で始めた。

 

「ゆっくり寝とけ。……青羽さん」

 

真護の低く落ち着いた声と、規則正しい掌の温もり。

それが特効薬となったのか、青羽の呼吸は次第に深く、穏やかなものへと変わっていった。

洞窟の静寂の中、二人の心音だけが静かに重なり合っていた。

数時間後。

洞窟の中に設えられたかすかな明かりだけが揺らぐ中、青羽はゆっくりと重い瞼を開いた。

 

「ん……」

 

意識が浮上する。

体の痛みは驚くほど引いていた。そして何より、顔に触れる布の感触と、鼻をくすぐる懐かしい匂い。

見上げると、そこには目を閉じて壁に寄りかかりながら、自分に抱きつかれたままの姿勢で浅い眠りについている真護の姿があった。

 

「あ……」

 

青羽は、信じられないものを見るように目を丸くした。

 

「ホントに……いてくれたんだ……」

 

てっきり、自分が寝付いたら適当に毛布をかけて、見回りか何かにいくものだとばかり思っていた。

しかし彼は、痺れるであろう体勢のまま、ずっと自分の『抱き枕』になって、そばにいてくれたのだ。

その不器用な優しさに、青羽の胸の奥がジンと熱くなる。同時に、こんな長時間拘束してしまったことへの申し訳なさが込み上げてきた。

 

「ごめん、ごめん……シンちゃん、足痺れたよね……アタシ、重かったでしょ……」

 

青羽が慌てて体を離し、起き上がろうとした、その瞬間だった。

ガシッ。

 

「え?」

 

真護の大きな手が、起き上がろうとした青羽の腕を力強く掴んだ。

見上げると、真護はいつの間にか目を開けており、漆黒の瞳で青羽を真っ直ぐに見つめていた。

 

「別に、重くねえよ」

 

真護はそう言うと、掴んだ腕を強引に引き寄せた。

 

「わっ!?」

 

バランスを崩した青羽の体が、真護の広い胸の中にすっぽりと収まる。

真護はそのまま、青羽の背中に腕を回し、彼女を力強く抱きしめたのだ。

 

「シ、シンちゃん……!?」

 

突然の行動に、青羽はパニックになりかける。

しかし、真護の腕の力強さと、耳元で聞こえる彼の力強い心音に、次第に抵抗する力が抜けていった。

 

「……いいから、もう少しこのままでいろ」

 

真護の声は低く、少しだけ掠れていた。

この魔都に迷い込んでからの一年間。

右も左も分からず、ただ化け物として狩られる恐怖に怯えていた日々。

能力に目覚め、戦う力を得たものの、人間からかけ離れていく自分への絶望感。

そんな暗闇の中で、真護が正気を保ち、「黒嶺真護」という人間のままでいられたのは、他でもない。

和倉青羽という太陽のような存在が、彼の手を引いてくれたからだ。

もちろん、波音やココとの出会いも大きかった。彼女たちも大切な家族だ。

だが、青羽は違った。

幼馴染の姉というかつての記憶の繋がりであり、この地獄を共に背中を合わせて生き抜いてきた絶対的な相棒。

そしていつしか、彼女の笑顔を守ることが、真護にとっての「生きる意味」そのものになっていた。

 

(……ああ、そうか)

 

真護は、青羽の温もりを腕の中に感じながら、自分の中にある感情の正体に、はっきりと気づいていた。

弟の姉でも、ただの幼馴染でも、隠れ里のリーダーでもない。

一人の女性として、かけがえのない存在。

波音やココも大事だが、青羽はそれ以上の、真護の魂の半身なのだ。

 

「……アンタがいてくれたから、オレはオレでいられたんだ。だから……一人で抱え込もうとすんな。オレがいる」

 

その不器用で、しかし真っ直ぐな言葉に、青羽の目からポロリと涙がこぼれ落ちた。

青羽もまた、真護の腕の中で同じことを感じていた。

幼い頃から知っている、弟の友人。昔から面倒見が良くて、しっかり者で、ちょっと不愛想な男の子。

それがいつからだろうか。

魔都で再会し、ボロボロになりながらも剣を振り、自分たちを守るために死神のような力を振るう彼の背中を見るたびに、胸が締め付けられるようになったのは。

弟である優希を愛する気持ちとは、決定的に違う。

甘えたい。頼りたい。背中を預けたい。

そして、誰よりも深く、愛し合いたい。

人間だった頃から、心のどこかにあった微かな恋心。それが魔都での極限状態を経て、燃え上がるような確かな『愛』へと変わっていたことに、青羽も今、ハッキリと気づいたのだ。

 

「……バカ。シンちゃんのくせに……生意気……」

 

青羽は、涙声で悪態をつきながらも、真護の背中に腕を回し、その抱擁を強く返した。

 

「アタシも……シンちゃんがいなきゃ、ダメになっちゃうよ……。だから、ずっと……傍にいて……」

 

「ああ。約束する」

 

淀んだ魔都の地下深く。

仲間を失った絶望と喪失感の夜に、二つの魂は互いの欠落を埋め合わせるように、強く、深く結びついた。

魔防隊との確執、八雷神という絶対的な絶望。

これから彼らを待ち受ける運命がどれほど過酷なものであろうとも。

この腕の中の温もりさえあれば、決して折れることはないと、二人は確信していた。

 

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