魔都の過酷な環境とは対照的な、温かなオレンジ色の光。
七番組寮の玄関の扉が開くと、待っていたかのようにパタパタと軽い足音が駆け寄ってきた。
「お帰りなさいです! 優希さんご無事で何より!」
出迎えたのは、七番組の索敵担当であり最年少の大川村寧だった。
和倉優希は、未だ『無窮の鎖』の能力を解除されておらず、天井に頭が届きそうなほど巨大な白い獣の姿のままだ。しかし、その恐ろしい外見とは裏腹に、彼から発せられる空気はひどく穏やかだった。
「皆んなのおかげで助かったよ」
「寧こそ通信役ご苦労だった」
優希と、彼の手綱を握る羽前京香が労いの言葉をかける。寧はホッとしたように胸を撫で下ろした。
「洞窟の中が見えなくてハラハラしました……! 温泉入れます。まずはサッパリしてください」
「ああ。そうさせてもらおう」
京香は小さく頷き、大浴場へと歩を進める。
残された巨大な優希と、小さな寧。二人は連れ立って、静かな寮の廊下を歩き始めた。
「温めれば食べられるご飯も用意しましたので」
「ありがとう、寧ちゃん」
優希は獣の顔を綻ばせ、感謝を伝える。しかし、その歩みはどこか重く、視線は床に落ちていた。
幼馴染の真護や、姉の青羽と再会できた喜び。それと同時に、自分たちを逃がすために盾となり、八雷神という規格外の化け物相手に重傷を負った魔防隊の仲間たちの姿が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
その様子に気づいた寧が、心配そうに見上げる。
「……優希さん? どこか痛むんですか?」
「俺は平気。だけど……みんなが入院を……」
日万凛、八千穂、サハラ、朱々。そして、無理を押して空間移動を使った天花も、今は魔防隊の医療班の元でベッドに横たわっているはずだ。
優希の大きな金色の瞳が、自責の念に揺れる。
「魔防隊の治療係は腕がいいので、数日で完治ですよ」
「京香さんもそう言ってたけど……」
それでも、彼女たちが傷つく原因を作ったのは自分なのではないか。優希が深く落ち込もうとした、その時だった。
「うんしょっ」
寧が、小さな両手をいっぱいに伸ばし、優希のぶ厚く巨大な白い腕を下から持ち上げようとしたのだ。
もちろん、小柄な彼女の力で獣の腕が持ち上がるはずもない。だが、その健気な行動に、優希は思わずハッとして寧を見た。
寧は、いつになく真剣な、少しだけ大人びた表情で優希を真っ直ぐに見据えていた。
「優希さんは、何かあれば治療している皆んなの分まで頑張らなきゃいけないんです。心労は溜めず、休める時はしっかり休んでください。上司の命令ですよ」
それは、ただの慰めではなく、魔防隊の先輩としての立派な「命令」だった。
彼女なりの精一杯の励ましに、優希の胸の奥にあった冷たいしこりが、ほんの少しだけ溶けていくのを感じた。
「……うん。ありがとう」
優希は、自分を励ましてくれた小さな先輩に、心からの敬意と感謝を込めて頭を下げた。
同時刻。七番組寮の大浴場。
もうもうと立ち込める湯煙の中、羽前京香は熱い湯に肩まで浸かり、深く、長い息を吐き出した。
「ふぅ……」
魔都の土埃と、醜鬼の返り血。そして何より、長年の悲願であった宿敵・鬼童丸を討ち果たした凄まじい疲労感が、湯に溶け出していくようだった。
京香は、お湯で濡れた前髪をかき上げ、天井を見つめる。
脳裏に浮かぶのは、自身の振るった剣技ではない。
漆黒の着物を纏い、黒い刀を振るって八雷神と渡り合った、あの男の姿だった。
黒嶺真護。
優希の幼馴染であり、男でありながら能力を発現させた特異な人型醜鬼。
京香は、彼が放っていたあの圧倒的な圧と、大切な者を守るために一切の迷いなく死地に飛び込むその真っ直ぐな瞳を思い出していた。
(あの男を見ていると、思い出すな……)
京香は、湯の中で自身の掌を見つめる。
(……"海燕"殿)
それは、京香がまだ剣の道に足を踏み入れたばかりの頃、彼女の心に深く刻まれた、ある気高き剣士の面影だった。
飄々としていながらも、その胸の内に誰よりも熱い炎を宿し、仲間のために己の命を懸けることを躊躇わなかった人。
黒嶺真護の背中に、かつての記憶の欠片が重なる。
彼もまた、異形に身をやつそうとも、その魂の在り方は気高い戦士のそれであった。
(和倉優希といい、黒嶺真護といい……男たちも、決して侮れないな)
京香の口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
その後、寧が十番組へと報告に向かい、寮は静寂に包まれた。
『無窮の鎖』の能力が解除され、優希は人間の姿へと戻った。
そして、待ち受けていたのは、契約による代償――「ご褒美」の時間である。
京香の私室。
薄暗い間接照明だけが灯るベッドの上で、優希はガチガチに緊張して直立不動になっていた。
「さぁ、優希。横になれ」
今回の貸し出しのご褒美は、『添い寝』。
それだけならまだしも、問題は二人の格好だった。
京香は、美しいプロポーションを隠そうともしない、布地の少ないセクシーな下着姿。優希もまた、下着一枚の無防備な状態である。
「し、失礼します……!」
ギクシャクした動きでベッドに潜り込む優希。
すぐに、京香の温かく滑らかな肌が背中から密着してくる。豊かな胸の感触がダイレクトに伝わり、優希の心臓は早鐘を打ち始めた。
「ん……」
ふいに、京香の顔が近づき、優希の頬に、そして唇に、柔らかいキスが落とされた。
戦場での冷徹な組長としての顔からは想像もつかない、熱を帯びた甘い吐息。
「きょ、京香さん……!?」
京香の手が優希の胸板をゆっくりと撫で下ろし、その体温が全身を駆け巡る。
優希は、顔から火が出そうなほど熱くなりながら、天井を仰いで内心で叫んだ。
(これ……絶対に寝られません……!!)
魔防隊の寮での夜は、別の意味で過酷な戦いとなっていた。
魔防隊の寮で穏やかな(そして少し刺激的な)時間が流れていた頃。
魔都の遥か深淵。永遠の闇に閉ざされた八雷神の根城では、おぞましい儀式が始まろうとしていた。
淀んだ空気が満ちる広大な地下空間。
空間が歪み、紫黒と壤竜が帰還した。壤竜の屈強な両腕には、完全に意識を失っている波音とココが、ボロ布のようにぶら下げられている。
その帰還を出迎えたのは、和服を着崩したような出立ちの八雷神・雷煉だった。
雷煉は、壤竜の両腕にぶら下がる二体の人型醜鬼を見て、不機嫌そうに眉をひそめた。
「何故2体も連れて帰った? あの黒い醜鬼でよかったのではないのか!?」
雷煉の問いに、紫黒は二人を見下ろしながら肩をすくめてみせた。
「あれは思ったより不純物が混じっててダメ。神の器には相応しくないよ。それに、これは保険だよ。この『餌』は食べないって言われた時のね」
「甘やかしおるわ」
雷煉が鼻を鳴らす。
壤竜は無言のまま、広間の奥へと顔を向け、低く重い声でその名を呼んだ。
「――空折(くうせつ)」
ペチャッ、ペチャッ、ズルルル……。
奥の暗闇から、湿った粘液の音が響いてきた。
現れたのは、およそ「神」という言葉からかけ離れた、名状しがたい化け物だった。
人間の背丈ほどの巨大な卵のような胴体。その中央部からは無数の太い触手が生えており、床を這うようにして、推し音を鳴らしながらゆっくりと近づいてくる。
目はなく、ただ巨大な亀裂のような「口」だけが存在していた。
空折は、壤竜の前に放り出された波音の体を、触手でゆっくりと探るように撫で回した。
そして――。
ガバァッ!!!
頭部が縦に大きく裂け、無数の牙が並ぶ巨大な口腔が姿を現した。
悲鳴を上げる間すらない。
空折は、意識を失った波音の体を頭から一息に丸呑みにしたのだ。
ゴクン、と。巨大な喉仏が蠢き、人一人の体が完全にその胎内へと消えていく。
「今回は食べた」
壤竜が淡々と事実を述べる。
「読み通り、気に入ってくれたようだね」
紫黒が満足げに微笑む。
雷煉は、触手をうねらせて蠢く空折を見下ろし、呆れたように息を吐いた。
「育つのに『餌』が必要とか、そんな面倒な神はコイツだけだぞ」
「まぁ、その分強い神になるでしょ」
紫黒がクスクスと笑う中、空折の触手が再び動いた。
今度は、床に転がっている小さな体――ココへと伸びる。
空折の巨大な口が、ココをじーっと見つめるように静止した。
「あ」
紫黒が短い声を上げた。
次の瞬間、空折は再び口を大きく開き、残されていたココをも容赦なく丸呑みにしたのである。
二体の人型醜鬼を立て続けに飲み込んだ空折の体に、異変が起きた。
グジュ……メキメキメキッ……!
体を覆っていた無数の触手が、ドロドロに溶けて胴体に吸収されていく。
足のように使っていた器官も消滅し、表面が滑らかに整っていく。
やがて、その姿は一切の突起を持たない、完全な「巨大な卵」の形態へと変化し、その場に鎮座した。
ドクン、ドクンと、卵の内側から巨大な心臓の鼓動のような音が鳴り響き始める。
「今回は孵るぞ」
壤竜が、その瞳に僅かな期待の色を浮かべて呟いた。
「あの二体は神の一部になれたわけだ。光栄だな」
雷煉の残酷な言葉に、紫黒は嬉しそうに同意する。
「そうだね。彼女達は空折の中で『電池』として生き続けるんだ。……永遠にね」
それは、死よりも恐ろしい絶望の宣告だった。
ココと波音は、決して消化されて死ぬわけではない。自我を封じられ、神を孵化させ、動かすための無尽蔵のエネルギー源として、永遠に生かされたまま搾取され続けるのだ。
「これで、残る八雷神は二柱……」
壤竜が、魔都のさらに深い暗闇を見つめて言う。
「廃れもの共に神罰を下すのが待ち遠しいぞ」
雷煉の顔に、獰猛で好戦的な笑みが浮かぶ。人間という矮小な存在を、そして自分たちに従わない醜鬼たちを、全て蹂躙し尽くす。それが彼ら八雷神の目的だった。
その時、紫黒がふと、何かを思い出したように人差し指を唇に当てた。
「ねえ、数人だけなら、人間残してもいいよね?」
「なんだ? 珍品でも集めるのか?」
訝しげに尋ねる雷煉に対し、紫黒は艶かしく、そしてひどく邪悪に舌舐めずりをした。
「ちょっと、気になるのがいてね」
紫黒の脳裏に浮かぶのは、自身の前で圧倒的な黒い力を解放した死神の男。そして、鬼童丸の角を真っ向から受け止めた白い獣の姿。
退屈な魔都の中で、久々に見つけた極上の「玩具」。
神の歪んだ愛と執着が、彼らに向けられようとしていた。
絶望を孕んだ卵が、魔都の闇の底で、静かに孵化の時を待っている。