魔都の死神   作:アレクサンドル三世

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第19話 漂流する魂の残滓、精神世界に立つ影

新たな隠れ里に身を寄せてから、数日が経過していた。

魔防隊との激突、そして八雷神・壤竜が見せつけた圧倒的な暴力。

黒嶺真護の肉体は、ココや波音を失った焦燥感と、己の無力さに対する怒りで、常にギリギリと軋み声を上げているようだった。

その夜。

見回りを終え、青羽が穏やかな寝息を立てているのを確認した真護は、洞窟の隅で座禅を組むように目を閉じた。

焦っても仕方がない。八雷神という次元の違う怪物から二人を取り戻すには、今の『天鎖斬月』の力だけでは足りない。

浦原喜助が現世で京香たちに語った「力の使い方」を、真護自身はまだ知らない。だが、本能が告げていた。己の内側深くへと潜り、この黒い力の源流に触れなければならない、と。

深く、深く、意識を沈めていく。

暗闇の中を落ちていくような感覚の果てに――不意に、真護の足の裏に「硬い」感触が伝わった。

 

「……ん?」

 

目を開けた真護は、息を呑んだ。

そこは、魔都の淀んだ洞窟ではなかった。

見渡す限りの青空。そして、重力を無視して横倒しになった、無数のガラス張りの高層ビル群。

真護自身もまた、その横倒しになったビルの窓ガラスの上に、垂直に立っていた。

 

「なんだ、ここは……魔都の新しいエリアか……?」

 

真護が周囲を見回した、その時だ。

 

『迷い込んだか。いや……ようやくここまで辿り着いたと言うべきか』

 

背後から、低く、重厚で、どこか深い哀愁を帯びた声が響いた。

真護が弾かれたように振り返る。

そこには、漆黒の外套を深く羽織り、顔の半分を覆うようなサングラスをかけた、長髪で無精髭の「見知らぬ男」が立っていた。

年の頃は中高年。だが、その身から発せられる威圧感は、真護がこれまで対峙してきた魔防隊の組長たちとも、八雷神とも全く異なる。

敵意はない。殺気もない。

ただ、そこに「在る」だけで世界を支配してしまいそうな、圧倒的な存在感。

 

「誰だ……アンタ……」

 

真護は警戒し、反射的に腰の刀に手をやろうとしたが、不思議なことに自分の腰には浅打すら帯びていなかった。

男は、真護の警戒を意に介する様子もなく、静かに薄い色のサングラスの奥の瞳を向けた。

 

「私か? 何を言ってる……? 私は『■■■■■■』だ」

 

「……?」

 

真護は眉をひそめた。

男の口は確かに動いた。音も鼓膜を揺らしたはずだった。だが、肝心の『名前』の部分だけが、まるで分厚いノイズに掻き消されたように、全く聞き取れなかったのだ。

 

「なんていったんだ? よく聞こえなかったぞ」

真護が問い返すと、男は僅かに目を伏せ、自嘲するように口元を歪めた。

 

「……なるほど。私の名は届かぬか。この新たな器、新たな世界においては、私は名を持たぬ亡霊に過ぎないということだな」

 

「亡霊? 器? 意味の分からねえこと言ってないで、ここがどこか教えろ。アンタ、オレを幻術か何かでハメた醜鬼か?」

 

真護の言葉に、男はゆっくりと首を横に振った。

 

「ここは、お前の内なる世界。お前の魂の形そのものだ、真護よ」

 

「オレの……魂?」

 

「そうだ。そして私は、お前の魂に宿り、お前が振るう力の源流……お前が『天鎖斬月』と呼ぶ刃の、本来の持ち主にして、かりそめの姿だ」

 

男の言葉に、真護はハッとした。

この男が、あの黒い刀の意思。

誰に教わるでもなく、本能のままに『卍解』という言葉を引きずり出し、己の肉体を黒き死神へと変貌させた力の正体。

 

「じゃあ、アンタが天鎖斬月。長えから斬月のおっさん……ってことか」

 

「……おっさん、か。かつての『彼』も、私をそう呼んだな」

 

斬月のおっさん――そう呼ばれた男は、横倒しになったビルの眼下に広がる青空を見つめながら、ひどく懐かしそうに、そして寂しそうに目を細めた。

 

「彼……?」

 

「かつて私は、ここではない別の世界にいた」

 

斬月のおっさんは、真護の問いには直接答えず、独り言のように語り始めた。

 

「死と魂が巡る世界。そこで私は、一人の青年の魂の奥底に潜み、彼の歩みを見守り、時に導き、時に刃を交えた。……彼は、お前と同じように、雨を嫌い、大切な者を護るために泥にまみれて戦う、真っ直ぐな男だった」

 

その言葉の響きには、深い慈愛と、どうしようもない後悔が入り混じっていた。

 

「私は本来、彼らの世界を統べるべき存在であり、同時に世界を滅ぼす存在だった。……やがて私は、彼自身の刃によって討たれ、無に還った。すべては終わり、私の魂は時間の塵となって消え去るはずだったのだ」

 

男の外套が、存在しないはずの風に揺れる。

 

「だが……無に還るはずだった私の残滓は、次元の底を漂い続け、やがてこの淀んだ『魔都』へと流れ着いた」

 

真護は黙って聞き入っていた。

男が語っているのは、この世界(魔都)の理とは全く違う、途方もなく壮大で、悲しい物語のようだった。

死神も、虚も存在しないこの世界に、別の宇宙から流れ着いた、強大すぎる魂の破片。

 

「私は、この淀んだ世界で消滅の時を待つはずだった。だが……魔都の瘴気に当てられ、異形へと変貌しかけていたお前の魂を見た時、私はそこにかつての『彼』と同じ、強烈な守護の意志を感じ取った」

 

斬月のおっさんが、ゆっくりと真護の方へ向き直る。

 

「だから私は、お前の魂に根を下ろした。お前を完全な化物に堕とさせないための楔として。そして、私の残された僅かな力を、お前に託すために」

 

「オレに……」

 

「そうだ。だが、真護よ。今のお前は、私の力をただ表面だけ掬い取り、振り回しているに過ぎない」

 

男の瞳が、剣のように鋭く真護を射抜いた。

 

「あの八雷神とやらと対峙した時、お前はただ己の怒りと本能に任せて刃を振るった。圧倒的な速度と力に頼り、力でねじ伏せようとした。……それでは、絶対に届かない。お前の刃は、まだ泣いている」

 

「刃が、泣いてる……?」

 

「そうだ。刀と対話し、己の魂の深淵を知れ。ただ刃を振るうのではなく、刃と共に在るのだ」

 

斬月のおっさんが、外套の中からスッと右手を伸ばす。

その手には、いつの間にか真護がいつも使っている浅打の刀が握られていた。

 

「立て、真護。お前がその力の真の重みを知るまで、私はここでお前を鍛え上げる。……二人の娘を取り戻したいのだろう?」

 

その言葉に、真護の瞳に強い光が宿る。

ココと波音の顔が、そして、隣で震えながら眠っていた青羽の顔が脳裏に浮かんだ。

これ以上、誰にも悲しい顔はさせない。そのために得た力だ。出どころが別の世界の亡霊だろうが何だろうが、使えるものは全て食らい尽くしてやる。

 

「……ああ。やってやるよ、おっさん」

 

真護の手に、意志に呼応するように黒い刀が顕現する。

精神世界という、時間も空間も現実とは異なる領域。

かつて別の世界で全てを統べようとした王の残滓と、魔都で異形となった青年の、魂を削るような対話と修行が、今、静かに幕を開けた。

 

「……んっ……」

 

微かな岩の雫の音で、真護は現実世界へと意識を引き戻された。

目を開けると、そこはいつもの薄暗い隠れ里の居住スペースだった。

全身が、鉛のように重い。精神世界での修行の疲労が、そのまま肉体にフィードバックされているかのようだった。

 

「……信じられねえくらい、疲れた……」

 

真護がぼやきながら体を起こすと、隣で寝ていた青羽が「んん……」と寝返りを打ち、真護の腕にギュッと抱きついてきた。

相変わらずの抱き枕扱いだが、今はその温もりがひどく心地よかった。

真護は自身の右手を見つめる。

そこには何も握られていない。だが、不思議と以前よりも、自分の中にある黒い力との『繋がり』が深くなっているのを感じていた。

 

(斬月のおっさん……いや、アンタの本当の名前が何であれ)

 

真護は、そっと青羽の頭を撫でながら、強く拳を握りしめた。

 

(オレは強くなる。この力を完全に自分のものにして……必ず、全部護り抜いてやる)

 

現世で浦原喜助が予見した通り、黒嶺真護の魂は今、大きな進化の過渡期を迎えていた。

来るべき八雷神との再戦に向け、黒き死神は静かに、そして確実に、その牙を研ぎ澄ましていく。

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