魔都の死神   作:アレクサンドル三世

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第22話 梳かされる髪と想い

魔防隊や八雷神という脅威から逃れ、新たな地下深くの隠れ里へと拠点を移した人型醜鬼たち。

一時の安息を得た彼らだったが、生活が落ち着き始めたことで、ある現実的な悩みが浮上していた。

それは、「物資の不足」である。

 

魔都には、人間が生活するためのインフラなど存在しない。

歯ブラシ、歯磨き粉、ボディソープ。そして、女性にとって心のオアシスとも言えるシャンプー、リンス、トリートメントといった日用品。さらには、人間としての味覚を満たすための食料品。

以前の隠れ里では、これらをどうやって調達していたかというと、波音の能力『隠された美』に頼りきりだった。影に潜み、あらゆる場所に侵入できる彼女の能力で、現世の廃墟や倉庫から物資を「失敬」してきていたのだ。

 

なぜ、そこまでして現世の物にこだわるのか。

理由は一つ。人間らしい生活を維持することで、自分たちが「バケモノ」に成り果ててしまったという絶望から目を背け、人間としての尊厳と希望を失わないためだ。

甘い香りのするシャンプーで髪を洗い、歯を磨いてから眠る。そんな些細な日常のルーティンが、魔都の瘴気から彼女たちの正気を繋ぎ止める絶対的な錨となっていた。

しかし、その要である波音は今、ココと共に八雷神の手に落ちている。

 

「……まぁ、後2ヶ月くらい持つけど。それまでに、絶対にココと波音を取り戻さなきゃね」

 

備蓄庫の棚を眺めながら、和倉青羽が腕を組んで呟いた。

その隣で、黒嶺真護はこれ以上ないほど深い溜息を吐いた。

 

「あのなぁ……アンタ、いくらなんでも貯め込みすぎだろ。避難する時、死ぬほど荷物が重かった理由が今分かったわ」

 

「えへへ、備えあれば憂いなしってね! 優希を攫えば、絶対に魔防隊とドンパチやり合うことになるって踏んでたからさ。あらかじめ波音にお願いして、いつもより多めに物資を調達しておいたのよ」

 

青羽はドヤ顔でピースサインを作ったが、真護はジト目で彼女を睨んだ。

 

「荷物多かった時点で気づくべきだったぜ……。あの時、止めとけばこんな事態には……」

 

「まぁまぁ! 過ぎたことは気にしない! そんなことより、お風呂入っちゃお!」

 

「は? 風呂って……まさか、あの『温泉』持って来れたのか?」

 

「うん。バッチリ! 避難のついでにね、皆に持って行かせてんだ。岩風呂のセット、組み立て終わったみたいだよ!」

 

青羽の言葉通り、洞窟のさらに奥まったスペースには、魔都の地熱を利用して沸かした立派な岩風呂が完成していた。

だが、隠れ里におけるこの「温泉」には、現世の常識とは大きく異なる暗黙のルールがあった。

それは、複数人で一斉に入浴すること。そして、当然のように「真護も一緒に入る」ということだ。

理由は単純かつ切実である。

魔都では、いついかなる時に敵(野生の醜鬼や魔防隊)が襲撃してくるか分からない。入浴中という最も無防備な時間に個々がバラバラに行動していると、各個撃破されるリスクが高まる。全員が一部屋に集まっていれば、有事の際も即座に連携が取れるという、極めて合理的な防衛策なのだ。

とはいえ、真護がこのルールに順応するまでには、それなりの葛藤があった。

──1年前。前の隠れ里に身を寄せたばかりの頃。

真護が一人で岩風呂の湯に浸かり、疲れた体を癒やしていた時のことだ。

ガラッ!

 

『おいおい!! 今、オレが入ってんだぞ!? 正気か!?』

 

脱衣所から堂々と全裸で入ってきた青羽とココを見て、真護は湯船の隅に縮こまり、顔を真っ赤にして叫んだ。

 

『いいのいいの。時間短縮だよ、シンちゃん。敵が来たら困るっしょ?』

 

『おお! シン兄、服着てると分かんないけど、やっぱムキムキだねえ! 触っていい!?』

 

『バカ! 寄るな! おまえらもちょっとは恥ずかしがれ!!』

 

女性に守られるのが常識の世界において、男の裸など彼女たちからすれば「愛玩動物」を見るようなものだったのかもしれない。

青羽に至っては、全く隠す素振りもなく湯船に浸かり、「あー、極楽極楽」とオッサン臭い声を出していた。

当時、人間としての常識を捨てきれていなかった波音だけは、顔を真っ赤にして外で待っていたが、一月経った頃には「もう、面倒くさいわね。どうせアンタ、私達のことなんて女として見てないんでしょ」と諦め顔で一緒に入り始めるようになっていた。

波音の言葉通り、真護は決して彼女たちに欲情の目を向けるようなことはしなかった。

家族であり、戦友。その一線を、彼は己の強靭な理性で守り抜いていたのだ。

現在──。

風呂から上がり、簡素な居住スペースに戻った二人は、静かな時間を過ごしていた。

真護はあぐらをかいて座る青羽の背後に回り、手櫛とブラシを使って、彼女の長く美しい白銀の髪を丁寧に梳かしていた。

 

「……相変わらず、髪梳かすの上手いね、シンちゃん」

 

目を細め、心地よさそうに身を預ける青羽がポツリとこぼす。

 

「この一年、アンタらの髪梳かしてんだ。こんくらい、なんともねえよ。ココなんか、じっとしてねえからもっと大変だったぞ」

 

真護は淡々と答えながら、絡まった毛先を優しく解いていく。

その手つきは繊細で、決して痛みを与えないよう、指先に神経を集中させていた。

 

「そっか……。ココも波音も、アタシがもっとしっかりしてれば……」

 

「自分を責めんな。あのバケモノ共は、オレの卍解でも止められなかった。……必ず、オレが強くなって取り戻す。だから、今はゆっくり休め」

 

真護の力強く、揺るぎない声。

背中から伝わってくる彼の体温と、均等なリズムで髪を梳かす手の感触に、青羽の胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じていた。

この世界において、男は本来、女の加護の下で生きるか弱い存在だ。

だが、青羽の背後にいる男は違う。

魔都の瘴気にも屈せず、己の意志で死神の如き黒き刃を顕現させ、八雷神という神にすら真っ向から牙を剥いた。

どんどん逞しく、力強くなっていく真護の背中を見るたびに、青羽の中にあった彼への認識は、少しずつ、しかし決定的に変化していった。

 

(……昔は、ちょっと生意気で、でも優希の面倒をよく見てくれる、可愛い弟分だったのに)

 

青羽は、目を閉じたまま自身の胸の奥で渦巻く感情の正体を見つめていた。

人型醜鬼として理不尽な世界を生き抜く中で、彼が隣にいてくれることの安心感。

この世界でただ一人、背中を預けられる男。

彼を守りたいという庇護欲はある。だが、それ以上に、彼に守られ、彼に寄りかかっていたいと願う自分がいる。

絶対に、失いたくない存在。

それは、最愛の弟である優希に対する「家族愛」とは、明確に異なる感情だった。

胸が苦しくなり、触れ合いたいと願い、彼の一挙手一投足に心が揺さぶられる。

人間だった頃から、無意識の底に沈めていた感情。それが今、この極限状態の魔都で、確かな『愛』という輪郭を持って芽生えていた。

 

(シンちゃん……。アタシ、あんたのことが……)

 

青羽が心の中でその言葉を紡いでいた時、真護もまた、全く同じように胸の内を焦がしていた。

真護が青羽に抱く感情。それは、魔都に迷い込んでから芽生えたような、浅いものではない。

彼女が人間だった頃。魔都災害に巻き込まれるずっと前から、真護にとって和倉青羽という女性は、絶対的な「憧れの人」だったのだ。

幼い頃。

優希の家に遊びに行くと、そこには大抵、青羽がいた。

活発で、声が大きくて、太陽のように明るい人。

 

『おっ、シンちゃん来たな! 今日も優希をよろしく頼むよ!』

 

そう言って笑う彼女は、何かにつけて優希や真護にプロレス技をかけてきた。

ヘッドロック、コブラツイスト、時には容赦のないバックドロップ。

子供の真護にとっては死ぬほど痛くて、いつも『やめろってば!』と文句を言っていたが、今思えば、あれが彼女なりの不器用な愛情表現だったのだと分かる。

そして真護自身も、痛がりながらも、彼女のその真っ直ぐな愛情と、太陽のような眩しさに、子供心に強く惹かれていた。

初恋、などという可愛らしい言葉では言い表せない。もっと根源的な、魂の深い部分で彼女の強さに憧れ、いつか彼女と並び立てる男になりたいと願っていたのだ。

だからこそ。

6年前。突発的な魔都災害によって、和倉青羽が行方不明になったと聞いた時。

家族である優希の次に、いや、もしかするとそれ以上に絶望し、心を砕かれたのは間違いなく真護だった。

あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。

冷たい雨が降る日だった。

姉を失い、泣き崩れる優希の前で、真護は決して涙を見せなかった。

 

『大丈夫だ、優希! あんなゴリラみたいな青羽さんが、死ぬわけねえだろ! 絶対どこかで生きてるって!』

 

真護は、必死に作り笑いを浮かべ、優希を励まし続けた。

優希を支えなければならないという使命感。

だが、実のところ、その空元気は、他でもない自分自身の心が壊れてしまわないための、ギリギリの防衛本能だったのだ。

誰もいない公園の土管の中で、一人で声を殺して泣いた夜。

強くなりたいと、誰かを守れる力が欲しいと、血が滲むほど拳を握りしめた日々。

その根底には、いつも失われたはずの「彼女」の笑顔があった。

そして5年後、真護自身も魔都に迷い込み、絶望の中で彼を拾ってくれたのは、異形に姿を変えた彼女だった。

白銀の髪に、白く変色した肌。それでも、豪快に笑うその姿は、真護が憧れ続けた和倉青羽そのものだった。

奇跡だと思った。神など信じてはいなかったが、この再会だけは、運命というものを信じざるを得なかった。

だから、真護は心に誓っているのだ。

自分の命に代えても、この黒き刃が砕け散ろうとも、絶対に彼女を守り抜くと。

 

「……よし。終わったぞ」

 

手櫛で最後の引っ掛かりを丁寧に解き終え、真護はブラシを置いた。

月明かりもない洞窟の中だが、手入れされた青羽の白銀の髪は、まるでそれ自体が光を放っているかのように艶やかで美しかった。

 

「ありがと。……やっぱり、シンちゃんにやってもらうと、すごく落ち着く」

 

青羽は、静かに振り返った。

その紅い瞳が、真護の漆黒の瞳を真っ直ぐに捉える。

普段の豪快なリーダーとしての顔はそこにはなく、ただ一人の女性としての、熱を帯びた、ひどく甘い眼差しだった。

トクン、と。

互いの心臓の音が、静かな洞窟内に響くような気がした。

青羽は、ゆっくりと手を伸ばした。

膝の上に置かれていた真護の大きく、骨張った右手を、自身の両手でそっと包み込む。

戦いで傷つき、黒い刀を振るうためにマメだらけになったその手を、愛おしむように。

 

「……青羽さん?」

 

真護が小さく名前を呼ぶと、青羽はそのまま真護の手を引き寄せ、彼の広い胸の中へと、自身の体を滑り込ませた。

 

「もう少し、このままで……」

 

青羽の両腕が、真護の背中にしっかりと回される。

顔を彼の首筋に埋め、その体温と匂いを全身で感じ取るように、ギュッと、力を込めて抱きしめた。

それは、言葉によるどんな告白よりも雄弁な、魂からの求愛だった。

真護の体が一瞬だけ硬直する。

憧れの人からの、熱烈な抱擁。

だが、次の瞬間、真護は迷うことなく、自身の両腕を青羽の華奢な背中に回した。

 

「……ああ。ずっと、こうしてやるよ」

 

真護の低く、優しい声が青羽の耳元で紡がれる。

女が男を守る世界。

魔都というバケモノたちの住処。

そんな理不尽な世界のルールなど、今の二人には何の意味も持たなかった。

ただ、互いが互いを必要とし、互いを守り抜くと誓い合う。

失われた日常を埋めるように、二つの孤独な魂は、静寂の夜の中で深く、確かに重なり合っていた。

迫り来る八雷神との死闘。そして世界の真実が明かされる日を前に、二人の絆は、もう誰にも断ち切れない鋼のような強さを帯びていた。

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