魔都の死神   作:アレクサンドル三世

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第25話 蛇の侵入

組長会議という魔防隊の巨大な重圧から解放され、京香と優希は七番組寮へと帰還した。

かつてないほどの緊張を強いられた優希は、帰るなり「少し横になります……」と力なく呟き、自室のベッドに倒れ込むようにして深い眠りに落ちていた。

その頃、寮の大浴場では、退院したばかりの東日万凛と駿河朱々が温泉に浸かり、戦いの疲れを癒やしていた。  

もうもうと立ち込める湯煙の中、日万凛は隣で念入りに、それこそ肌が赤くなるほどに全身を洗い続けている朱々を見て、呆れたように口を開いた。

 

「なんか、やたら体洗う時間が長いわね」

 

「んー? そう?」

 

朱々は誤魔化すように笑ったが、彼女の頭の中では、ある野望が猛烈な勢いで燃え上がっていた。

 

(フッフッフ……! 組長会議が早く終わったのは最大のチャンス……! 組長が報告書のまとめで忙しくしてる今のうちに、ピカピカの体でユッキーの部屋に遊びに行くんだ!)

 

恋の兵法、いざ実践。

朱々は「お先にー!」と温泉から上がると、手早く身支度を整え、自室へ戻るフリをして廊下を忍び歩いた。

そして、優希の部屋の前まで来ると、能力『玉体革命(パラダイムシフト)』を発動。身体をネズミほどのサイズに小さくして、襖の僅かな隙間から音もなく部屋へと侵入した。

 

(今日はガンガン攻める! ユッキーの寝顔を独り占めして、あわよくば……!)

 

ベッドの上では、優希が文字通り泥のように眠っていた。

朱々が元のサイズに戻り、そっとベッドに近づこうとした、その時だった。

ずずず……ずずずずっ……。

 

「え……?」

 

背後から、ひどく嫌な音がした。

振り返った朱々の視界に飛び込んできたのは、襖の隙間から這い入ってくる、紫色のヘドロのような不気味な物質だった。

それは床の上で渦を巻き、やがて一人の人間の形を構成していく。

 

(ふふふ……やっぱりね。力を極限まで抑えれば、僕でもこの結界内に侵入できる)

 

現れたのは、小柄な少女――八雷神の一角、『紫黒』だった。

魔都の深淵にいるはずの神が、魔防隊の寮のど真ん中に、音もなく現れたのだ。紫黒は不敵な笑みを浮かべ、熟睡している優希を見下ろした。

 

(! いきなり目の前にいるし。泥のように寝てる。……フフッ、今のうちに、お持ち帰り──)

 

紫黒が、無防備な優希の首元へ手を伸ばそうとした。

その瞬間。

 

「ユッキーに触るな!!」

 

ドゴォッ!!

背後から、朱々の渾身の拳が紫黒の後頭部にクリーンヒットした。

神に対する、恐れを知らぬ強烈な不意打ち。

しかし、紫黒は一歩前にたたらを踏んだだけで、全くダメージを受けた様子はなかった。ゆっくりと振り返るその瞳には、先ほどまでの無邪気さは消え、ドロドロとした怒りが渦巻いている。

 

「君……ただの隊員クラスだろ……? それが、僕に……」

 

紫黒の周囲の空気がザワザワと震え、圧倒的な力が込められていく。寮の結界など内側から容易く吹き飛ばせそうなほどのプレッシャー。

朱々は冷や汗を流しながらも、優希を庇うように両腕を広げて立ち塞がった。

だが、紫黒が攻撃を放とうとした、その直後。

バァァァンッ!!

突如として紫黒の足元の床が爆発したように跳ね上がり、紫黒は大きく吹き飛ばされて無様に尻餅をついた。

 

「不法侵入者め」

 

床の空間の歪みから、スッと姿を現したのは、六番組組長・出雲天花だった。

 

「アンタがいうか!?」

 

朱々が思わず魂のツッコミを入れる。天花もまた、どう見ても正規のルート(入り口)からではなく、空間移動を使って優希の部屋に夜這い……もとい、忍び込んできたのだ。

しかし、今はそんなことを言い争っている場合ではない。

天花はスッと朱々の横に並び立ち、冷徹な目で紫黒を睨みつけた。

 

「ユッキーには、手出しさせない!」

 

「ええ。優希くんは私のものですから」

 

二人の気迫を前に、尻餅をついていた紫黒は、パンパンと着物の埃を払いながら立ち上がり、スッと片手を前に出した。

 

「まぁ、落ち着いてよ。君たちも彼に用があって来たんでしょ? ……僕もなんだよ」

 

紫黒が妖しく微笑んだ瞬間、部屋の空気がフッと変わった。

 

「ん……? うわっ!?」

 

背後で、優希が目を覚ます声がした。

朱々と天花が振り返ると、信じられない光景が広がっていた。

目を覚まして身を起こそうとする優希の顔の上に、紫黒がドカッと顔の上に座り込んでいたのだ。

 

「彼を一番誘惑できた者の勝ち。……で、どう?」

 

紫黒からの、あまりにも予想外で異常な提案。

 

「な!?」

 

朱々は顔を真っ赤にして驚愕したが、隣の天花は一秒も迷わずに即答した。

 

「のった」

 

「のるんかい!!」

 

紫黒は妖艶に舌舐めずりをすると、袖口から小さな漆黒の蛇を這わせ、優希の着ていたTシャツを器用に脱がせてしまった。そして、露出した優希の腹筋を、紫黒がゆっくりと這うように舐め上げる。

「ひゃあっ!?」と優希が情けない悲鳴を上げる中、負けじと天花も優希の背後に回り込み、その首筋に顔を埋めて熱い吐息を吹きかけ、艶かしく舐め上げる。

 

「ねえ、君も参加しないの?」

 

紫黒が、挑発するように朱々を見た。

 

「ア、アタシだって!! ユッキーのことはアタシが一番……!」

 

朱々が勢い込んでベッドへ向かおうとした。

だが、その足がピタリと止まる。

朱々の脳内で、猛烈な違和感のアラートが鳴り響いていた。

 

(……おかしい。いくら出雲組長(この人)がユッキーを好きでも、得体の知れない敵が目の前にいる状況で、こんなアホみたいな勝負に『のる』わけがない。というか、この部屋の空気……なんか甘ったるくて、頭がボーッとする……!)

 

朱々がハッとして周囲を見渡す。

景色が、ぐにゃりと歪んだ。

ベッドの上にいたはずの優希も、紫黒も、天花もいない。

朱々の目の前には、薄暗い紫色の霧が立ち込めていた。

場面は変わり、現実の優希の部屋の中。

紫黒は袖から放った蛇の口から「毒霧」を噴射し、朱々と天花の二人に幻術をかけていたのだ。

幻覚の中で優希に歩み寄ろうと、虚ろな目でふらふらと近づいてくる二人。

紫黒は、無防備な二人の心臓を的確に貫こうと、鋭い手刀を振り上げた。

しかし。

 

「――っ!」

 

幻術に落ちていたはずの天花の瞳に、突如として理性の光が宿る。

彼女は歩み寄る勢いをそのまま利用し、鋭いハイキックを紫黒の顔面へと放った。

 

「おっと」

 

紫黒は間一髪で首を逸らし、その蹴りを避ける。天花の空間操作による転移を警戒してか、紫黒は少しだけ距離を取った。

 

(やっぱ、組長格は小技じゃ無理か……)

 

紫黒が内心で舌打ちをした、その直後だった。

 

「小細工すんな!!!」

 

天花の蹴りを避けて体勢が崩れていた紫黒の顔面に、今度は朱々の強烈なストレートパンチがクリーンヒットした。

幻術を自力で打ち破った朱々の、怒りを乗せた一撃。

 

「チッ……!」

 

流石の紫黒も、これ以上ここで騒ぎを起こせば、他の組長たちや京香が駆けつけてくることを察知した。

紫黒の体が、足元からズブズブとドロドロのヘドロの中へと沈んでいく。

完全に退散する間際、紫黒は泥の中から朱々を真っ直ぐに指差した。

 

「君……僕に二発も当てたね。忘れないから」

 

その声は静かだったが、確かな凄まじい怒気が込められていた。神の顔に泥を塗った小娘への、明確な殺意。

しかし、朱々は全く怯むことなく、両手を腰に当てて「フンス!」と誇らしげに鼻を鳴らした。

 

「な、なんだ騒がしい……! 一体何が!?」

 

ようやく現実の優希が、ベッドの上で跳ね起きた。

目の前には、戦闘態勢の天花と、フンスと胸を張っている朱々がいる。

 

「八雷神が、優希くんの部屋に忍び込んだんだよ」

 

天花が、油断なく周囲の空間を警戒しながら答えた。

 

「なっ!?」

 

「幻術まで使って、こっそり連れ去ろうとしてたみたい。結界を抜けてくるなんて……許されない事だよ」

 

「守ってもらったんですね……。俺、全然気づかなくて……」

 

優希は、自身の不甲斐なさに冷や汗を流しながら二人に頭を下げた。すると、天花は親指で隣の朱々を指差した。

 

「最初に守ってたのは彼女だよ。私は援軍」

 

「えっ、朱々ちゃんが?」

 

「任せて! 何度だって守るよ! ユッキー!」

 

朱々は太陽のような笑顔でVサインを作った。

だが、その内心では(よっしゃ! これで好感度爆上がり! また次の機会に絶対忍びこもっと!)と、全く懲りていないガッツポーズを決めていた。

そこへ、異常を察知した京香が、寝巻きのまま血相を変えて部屋に駆け込んできた。

 

「何事だ! 優希、無事か!」

 

「はい、京香さん。天花さんと朱々ちゃんが助けてくれました」

 

天花が、紫黒の侵入から幻術、そして撃退に至るまでの事情を手短に説明する。京香の顔が、怒りと危機感で険しくなった。

 

「八雷神が、この結界を抜けてきただと……? それでは、寮にいても安全の保障はないということか」

 

「ねえ、京ちん」

 

天花が、真剣な表情で一つの提案をした。

 

「結界のこと、浦原さんに頼んでみるってのはどう?」

 

「……浦原に、だと?」

 

京香は眉をひそめた。

 

「うん。彼は『霊子』という、私たちの知らない力のエキスパートだった。もしかしたら、魔防隊の術式よりも強力な結界を知っているか、あるいは施せるんじゃないかな?」

 

天花の言葉に、京香はハッとした。

確かに、あの胡散臭い男の力は底知れない。現世の駄菓子屋で、京香自身が身をもって受けたあの「六杖光牢」という霊子の拘束。アレを応用できれば、魔都の神でさえ容易には侵入できない防壁を作れるかもしれない。

 

「……わかった。やってみる価値はある」

 

京香はすぐに自室へ戻り、浦原喜助から渡された専用の黒い端末を持ってくると、ダイヤルを回した(ボタンを押した)。

数回のコールの後、間延びした声が響く。

 

『はいはい。浦原商店ッス。どうされました?』

 

天花が京香から端末を受け取り、周囲に誰もいないことを確認してから、小声で告げた。

 

「浦原さん、出雲です。この会話はオフレコでお願いします。実は……」

 

天花は、紫黒が結界を抜けて侵入してきた経緯と、新たな防壁の構築を依頼した。

端末の向こうで、浦原は少しだけ思案するような沈黙を置き、やがて飄々とした声で答えた。

 

『分かりました。その状況なら、とりあえずアタシがそちらの寮に直接行かなければなりませんね。……ただ、山城サンの目を掻い潜って魔都に侵入するのは、至難の業ッス。準備しますんで、ちょっと時間をください』

 

通話を終え、端末の電源を切る。

その会話を隣で聞いていた京香は、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。

 

(あの男……)

 

『至難の業』と言った。

だが、それは裏を返せば、まるで「準備さえすれば、あの山城総組長の監視網すら掻い潜れる」と言っているようなものだ。

魔防隊の頂点たる総組長の絶対的な力を、ただの『越えるべきハードルの一つ』程度にしか捉えていない。あの男の持つ「霊子」という技術は、陰陽寮の技術責任者という肩書き以上に、危険で底知れないものだった。

 

「……とりあえず、浦原さんが来て結界が強化されるまでの間は、みんなで一部屋に集まって雑魚寝することにしよっか。バラバラに寝るのは危険だし」

 

天花がそう締めくくり、空間移動で自身の六番組寮へと帰っていった。

結果として、七番組の面々は、最も広い和室に布団を並べて全員で寝ることになった。

 

「わぁっ! なんだか旅行に来たみたいです!」

 

寧が、修学旅行の夜のように目を輝かせてはしゃぐ。

京香と日万凛が布団の配置(主に誰が優希の隣で寝るか)で牽制し合っているのを見ながら、朱々は自分の布団の上で膝を抱えた。

 

(まー、こうなるよね……)

 

二人きりの甘い夜這い計画は粉砕され、結局全員での雑魚寝。

ため息をつきつつも、優希が無事であったことにホッと胸を撫で下ろす朱々だった。

魔防隊の結界すら無意味とする、神の侵攻。

そして、現世から魔都へと足を踏み入れようとする、謎の技術者。

七番組寮の夜は、嵐の前の静けさの中で、ゆっくりと更けていった。

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