組長会議という魔防隊の巨大な重圧から解放され、京香と優希は七番組寮へと帰還した。
かつてないほどの緊張を強いられた優希は、帰るなり「少し横になります……」と力なく呟き、自室のベッドに倒れ込むようにして深い眠りに落ちていた。
その頃、寮の大浴場では、退院したばかりの東日万凛と駿河朱々が温泉に浸かり、戦いの疲れを癒やしていた。
もうもうと立ち込める湯煙の中、日万凛は隣で念入りに、それこそ肌が赤くなるほどに全身を洗い続けている朱々を見て、呆れたように口を開いた。
「なんか、やたら体洗う時間が長いわね」
「んー? そう?」
朱々は誤魔化すように笑ったが、彼女の頭の中では、ある野望が猛烈な勢いで燃え上がっていた。
(フッフッフ……! 組長会議が早く終わったのは最大のチャンス……! 組長が報告書のまとめで忙しくしてる今のうちに、ピカピカの体でユッキーの部屋に遊びに行くんだ!)
恋の兵法、いざ実践。
朱々は「お先にー!」と温泉から上がると、手早く身支度を整え、自室へ戻るフリをして廊下を忍び歩いた。
そして、優希の部屋の前まで来ると、能力『玉体革命(パラダイムシフト)』を発動。身体をネズミほどのサイズに小さくして、襖の僅かな隙間から音もなく部屋へと侵入した。
(今日はガンガン攻める! ユッキーの寝顔を独り占めして、あわよくば……!)
ベッドの上では、優希が文字通り泥のように眠っていた。
朱々が元のサイズに戻り、そっとベッドに近づこうとした、その時だった。
ずずず……ずずずずっ……。
「え……?」
背後から、ひどく嫌な音がした。
振り返った朱々の視界に飛び込んできたのは、襖の隙間から這い入ってくる、紫色のヘドロのような不気味な物質だった。
それは床の上で渦を巻き、やがて一人の人間の形を構成していく。
(ふふふ……やっぱりね。力を極限まで抑えれば、僕でもこの結界内に侵入できる)
現れたのは、小柄な少女――八雷神の一角、『紫黒』だった。
魔都の深淵にいるはずの神が、魔防隊の寮のど真ん中に、音もなく現れたのだ。紫黒は不敵な笑みを浮かべ、熟睡している優希を見下ろした。
(! いきなり目の前にいるし。泥のように寝てる。……フフッ、今のうちに、お持ち帰り──)
紫黒が、無防備な優希の首元へ手を伸ばそうとした。
その瞬間。
「ユッキーに触るな!!」
ドゴォッ!!
背後から、朱々の渾身の拳が紫黒の後頭部にクリーンヒットした。
神に対する、恐れを知らぬ強烈な不意打ち。
しかし、紫黒は一歩前にたたらを踏んだだけで、全くダメージを受けた様子はなかった。ゆっくりと振り返るその瞳には、先ほどまでの無邪気さは消え、ドロドロとした怒りが渦巻いている。
「君……ただの隊員クラスだろ……? それが、僕に……」
紫黒の周囲の空気がザワザワと震え、圧倒的な力が込められていく。寮の結界など内側から容易く吹き飛ばせそうなほどのプレッシャー。
朱々は冷や汗を流しながらも、優希を庇うように両腕を広げて立ち塞がった。
だが、紫黒が攻撃を放とうとした、その直後。
バァァァンッ!!
突如として紫黒の足元の床が爆発したように跳ね上がり、紫黒は大きく吹き飛ばされて無様に尻餅をついた。
「不法侵入者め」
床の空間の歪みから、スッと姿を現したのは、六番組組長・出雲天花だった。
「アンタがいうか!?」
朱々が思わず魂のツッコミを入れる。天花もまた、どう見ても正規のルート(入り口)からではなく、空間移動を使って優希の部屋に夜這い……もとい、忍び込んできたのだ。
しかし、今はそんなことを言い争っている場合ではない。
天花はスッと朱々の横に並び立ち、冷徹な目で紫黒を睨みつけた。
「ユッキーには、手出しさせない!」
「ええ。優希くんは私のものですから」
二人の気迫を前に、尻餅をついていた紫黒は、パンパンと着物の埃を払いながら立ち上がり、スッと片手を前に出した。
「まぁ、落ち着いてよ。君たちも彼に用があって来たんでしょ? ……僕もなんだよ」
紫黒が妖しく微笑んだ瞬間、部屋の空気がフッと変わった。
「ん……? うわっ!?」
背後で、優希が目を覚ます声がした。
朱々と天花が振り返ると、信じられない光景が広がっていた。
目を覚まして身を起こそうとする優希の顔の上に、紫黒がドカッと顔の上に座り込んでいたのだ。
「彼を一番誘惑できた者の勝ち。……で、どう?」
紫黒からの、あまりにも予想外で異常な提案。
「な!?」
朱々は顔を真っ赤にして驚愕したが、隣の天花は一秒も迷わずに即答した。
「のった」
「のるんかい!!」
紫黒は妖艶に舌舐めずりをすると、袖口から小さな漆黒の蛇を這わせ、優希の着ていたTシャツを器用に脱がせてしまった。そして、露出した優希の腹筋を、紫黒がゆっくりと這うように舐め上げる。
「ひゃあっ!?」と優希が情けない悲鳴を上げる中、負けじと天花も優希の背後に回り込み、その首筋に顔を埋めて熱い吐息を吹きかけ、艶かしく舐め上げる。
「ねえ、君も参加しないの?」
紫黒が、挑発するように朱々を見た。
「ア、アタシだって!! ユッキーのことはアタシが一番……!」
朱々が勢い込んでベッドへ向かおうとした。
だが、その足がピタリと止まる。
朱々の脳内で、猛烈な違和感のアラートが鳴り響いていた。
(……おかしい。いくら
朱々がハッとして周囲を見渡す。
景色が、ぐにゃりと歪んだ。
ベッドの上にいたはずの優希も、紫黒も、天花もいない。
朱々の目の前には、薄暗い紫色の霧が立ち込めていた。
場面は変わり、現実の優希の部屋の中。
紫黒は袖から放った蛇の口から「毒霧」を噴射し、朱々と天花の二人に幻術をかけていたのだ。
幻覚の中で優希に歩み寄ろうと、虚ろな目でふらふらと近づいてくる二人。
紫黒は、無防備な二人の心臓を的確に貫こうと、鋭い手刀を振り上げた。
しかし。
「――っ!」
幻術に落ちていたはずの天花の瞳に、突如として理性の光が宿る。
彼女は歩み寄る勢いをそのまま利用し、鋭いハイキックを紫黒の顔面へと放った。
「おっと」
紫黒は間一髪で首を逸らし、その蹴りを避ける。天花の空間操作による転移を警戒してか、紫黒は少しだけ距離を取った。
(やっぱ、組長格は小技じゃ無理か……)
紫黒が内心で舌打ちをした、その直後だった。
「小細工すんな!!!」
天花の蹴りを避けて体勢が崩れていた紫黒の顔面に、今度は朱々の強烈なストレートパンチがクリーンヒットした。
幻術を自力で打ち破った朱々の、怒りを乗せた一撃。
「チッ……!」
流石の紫黒も、これ以上ここで騒ぎを起こせば、他の組長たちや京香が駆けつけてくることを察知した。
紫黒の体が、足元からズブズブとドロドロのヘドロの中へと沈んでいく。
完全に退散する間際、紫黒は泥の中から朱々を真っ直ぐに指差した。
「君……僕に二発も当てたね。忘れないから」
その声は静かだったが、確かな凄まじい怒気が込められていた。神の顔に泥を塗った小娘への、明確な殺意。
しかし、朱々は全く怯むことなく、両手を腰に当てて「フンス!」と誇らしげに鼻を鳴らした。
「な、なんだ騒がしい……! 一体何が!?」
ようやく現実の優希が、ベッドの上で跳ね起きた。
目の前には、戦闘態勢の天花と、フンスと胸を張っている朱々がいる。
「八雷神が、優希くんの部屋に忍び込んだんだよ」
天花が、油断なく周囲の空間を警戒しながら答えた。
「なっ!?」
「幻術まで使って、こっそり連れ去ろうとしてたみたい。結界を抜けてくるなんて……許されない事だよ」
「守ってもらったんですね……。俺、全然気づかなくて……」
優希は、自身の不甲斐なさに冷や汗を流しながら二人に頭を下げた。すると、天花は親指で隣の朱々を指差した。
「最初に守ってたのは彼女だよ。私は援軍」
「えっ、朱々ちゃんが?」
「任せて! 何度だって守るよ! ユッキー!」
朱々は太陽のような笑顔でVサインを作った。
だが、その内心では(よっしゃ! これで好感度爆上がり! また次の機会に絶対忍びこもっと!)と、全く懲りていないガッツポーズを決めていた。
そこへ、異常を察知した京香が、寝巻きのまま血相を変えて部屋に駆け込んできた。
「何事だ! 優希、無事か!」
「はい、京香さん。天花さんと朱々ちゃんが助けてくれました」
天花が、紫黒の侵入から幻術、そして撃退に至るまでの事情を手短に説明する。京香の顔が、怒りと危機感で険しくなった。
「八雷神が、この結界を抜けてきただと……? それでは、寮にいても安全の保障はないということか」
「ねえ、京ちん」
天花が、真剣な表情で一つの提案をした。
「結界のこと、浦原さんに頼んでみるってのはどう?」
「……浦原に、だと?」
京香は眉をひそめた。
「うん。彼は『霊子』という、私たちの知らない力のエキスパートだった。もしかしたら、魔防隊の術式よりも強力な結界を知っているか、あるいは施せるんじゃないかな?」
天花の言葉に、京香はハッとした。
確かに、あの胡散臭い男の力は底知れない。現世の駄菓子屋で、京香自身が身をもって受けたあの「六杖光牢」という霊子の拘束。アレを応用できれば、魔都の神でさえ容易には侵入できない防壁を作れるかもしれない。
「……わかった。やってみる価値はある」
京香はすぐに自室へ戻り、浦原喜助から渡された専用の黒い端末を持ってくると、ダイヤルを回した(ボタンを押した)。
数回のコールの後、間延びした声が響く。
『はいはい。浦原商店ッス。どうされました?』
天花が京香から端末を受け取り、周囲に誰もいないことを確認してから、小声で告げた。
「浦原さん、出雲です。この会話はオフレコでお願いします。実は……」
天花は、紫黒が結界を抜けて侵入してきた経緯と、新たな防壁の構築を依頼した。
端末の向こうで、浦原は少しだけ思案するような沈黙を置き、やがて飄々とした声で答えた。
『分かりました。その状況なら、とりあえずアタシがそちらの寮に直接行かなければなりませんね。……ただ、山城サンの目を掻い潜って魔都に侵入するのは、至難の業ッス。準備しますんで、ちょっと時間をください』
通話を終え、端末の電源を切る。
その会話を隣で聞いていた京香は、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
(あの男……)
『至難の業』と言った。
だが、それは裏を返せば、まるで「準備さえすれば、あの山城総組長の監視網すら掻い潜れる」と言っているようなものだ。
魔防隊の頂点たる総組長の絶対的な力を、ただの『越えるべきハードルの一つ』程度にしか捉えていない。あの男の持つ「霊子」という技術は、陰陽寮の技術責任者という肩書き以上に、危険で底知れないものだった。
「……とりあえず、浦原さんが来て結界が強化されるまでの間は、みんなで一部屋に集まって雑魚寝することにしよっか。バラバラに寝るのは危険だし」
天花がそう締めくくり、空間移動で自身の六番組寮へと帰っていった。
結果として、七番組の面々は、最も広い和室に布団を並べて全員で寝ることになった。
「わぁっ! なんだか旅行に来たみたいです!」
寧が、修学旅行の夜のように目を輝かせてはしゃぐ。
京香と日万凛が布団の配置(主に誰が優希の隣で寝るか)で牽制し合っているのを見ながら、朱々は自分の布団の上で膝を抱えた。
(まー、こうなるよね……)
二人きりの甘い夜這い計画は粉砕され、結局全員での雑魚寝。
ため息をつきつつも、優希が無事であったことにホッと胸を撫で下ろす朱々だった。
魔防隊の結界すら無意味とする、神の侵攻。
そして、現世から魔都へと足を踏み入れようとする、謎の技術者。
七番組寮の夜は、嵐の前の静けさの中で、ゆっくりと更けていった。