翌日。
組長会議の重圧から解放された七番組寮は、日万凛たちの特訓や、浦原の結界強化への対応で慌ただしく動いていた。
だが、羽前京香は元々この日に休暇を取っていた。
彼女は私服姿で優希を連れ、一番組の管轄区と繋がるゲートを抜け、久々に現世の地を踏んでいた。
雲の隙間から、柔らかい陽の光が差し込む昼下がり。
二人は道すがら花屋に寄り、静かな色合いの墓参り用の花を購入した。
優希はこの時まで勘違いをしていた。てっきりお見舞いか冥加りうの家へ出向くと思っていた。しかし墓参り用の花を京香が購入したことで海燕は故人なのだと理解した。
「あの…京香さん。海燕さんって…」
「ああ。すまん、言ってなかったな。彼はもう亡くなってるんだ」
そして、現世の郊外にある静寂に包まれた墓地へと足を運ぶ。
整然と並ぶ墓石の中を歩き、やがて足を止めたのは、『冥加家』と深く刻まれた古い墓石の前だった。
京香は持参した手桶の水を墓石にかけ、花筒に花を供えると、静かに両手を合わせた。優希もまた、彼女の隣に並んで深く目を閉じ、手を合わせる。
「……すみません、海燕殿。忙しくてなかなか来れず」
京香の口から漏れた声は、普段の冷徹な魔防隊組長のものではなく、どこか一人の少女のような、切なく穏やかな響きを帯びていた。
(京香さんが、こんなにも尊敬する人……。よっぽどすごい人だったんだな)
優希は、手を合わせたまま京香の横顔をそっと盗み見た。昨日、りうが「剣術に関してはあの子にも及ばない」と語っていた人物。冥加海燕。
「……海燕さんって、どんな人だったんですか?」
隣で手を合わせ終えた京香に優希が静かに尋ねると、京香は墓石を見つめたまま、ふっと微かに微笑んだ。
「そうだな。……剣術だけで言えば、私が組長となった今でも、勝てないくらいには強い人だった」
優希は驚きに目を見開いた。
「えっ!? 京香さんよりもですか!?」
「ああ。天賦の才、というやつだろうな」
京香の瞳が、静かに過去の記憶へと沈んでいく。
それは、彼女がまだ剣を握り始めたばかりの、幼くも残酷な記憶と共にある、掛け替えのない日々だった。
故郷の村が、先日討伐した一本角の醜鬼によって一夜にして壊滅した。
家族も、友人も、帰る場所も、すべてを失った京香。彼女は魔防隊に保護された後、後の師匠となる冥加りうの家で生活を始めることになった。
復讐心だけを胸に秘め、心を閉ざしていた五歳の京香。
そんな彼女の前に、太陽のように底抜けに明るい一人の少年が現れた。
『よう! オレは海燕ってんだ! お前は?』
『羽前……京香……』
『京香か!! よろしくな!』
当時八歳だった海燕は、ニカッと歯を見せて笑うと、京香の頭をワシワシと乱暴に撫で回した。
『コラ海燕! あまりいじめるんじゃないよ!』
『別にいじめてねーよ、婆ちゃん!!』
りうの怒声にケラケラと笑って言い返す海燕。
頭を撫でるその手は、少し乱暴だったが、とても温かく、そして大きかった。孤独で凍りついていた京香の心に、初めて灯った小さな火のような温もりだった。
それから、りうの道場での厳しい稽古の日々が始まった。
りうは、京香に『剣は海燕を真似ろ』と教えた。海燕の剣には、迷いがなく、それでいて水のようにしなやかな強さがあった。
京香は海燕の背中を追いかけ、血の滲むような努力で着々と力をつけていった。
時が流れ、京香は十五歳、海燕は十八歳となっていた。
木刀が激しくぶつかり合う道場。激しい打ち合いの末、京香の木刀が弾き飛ばされ、海燕の切っ先が彼女の喉元にピタリと止められた。
『……参りました。本当に強いですね……海燕殿……』
『なぁに言ってんだ! そのうち、お前に追い越されちまうよ!』
海燕は汗を拭いながら、昔と変わらない屈託のない笑顔を向けた。
その強さは本物だった。りう曰く『剣術の筋は、死んだ私の旦那以上』とのことだった。
しかし、この世界において「男の強さ」は意味を持たない。
道場の外からは、時折心無い声が聞こえてきた。
『あの子、女に生まれていたらねぇ……』
『女だったら確実に魔防隊の組長、果ては総組長にまで上り詰めていた才能なのに。男じゃあ、哀れだねぇ』
同情や哀れみの声。能力を持てない男というだけで、どれほど剣の腕を磨こうとも、醜鬼の前では無力だと誰もが決めつけていた。
だが、海燕はそんな世間の声など一切無視して、ただひたすらに稽古に励んだ。誰かを守れる強さを得るために。
そして、京香が『桃』を食べ、魔防隊への入隊を控えたある日のことだった。
二人は真剣での手合わせを行った。
結果は、京香の初めての勝利だった。
『はぁ、はぁ……強くなったなぁ! 京香!!』
床に仰向けに倒れた海燕が、嬉しそうに笑う。
だが、勝ったはずの京香の表情は、ひどく暗く沈んでいた。
『いえ……今のは剣術で勝ったのではありません……。桃による、圧倒的な膂力と反射速度でねじ伏せただけです。純粋な剣術では、海燕殿に比べたら、私はまだまだ……』
何年もかけて追いかけてきた偉大な背中を、桃という「理不尽な力」だけであっさりと越えてしまった。その事実が、京香にとってはどうしようもなく空虚で、海燕に対して申し訳なかった。
しかし、海燕はバンッと床を叩いて立ち上がると、京香の肩を強く掴んだ。
『何言ってんだよ! その膂力も、選ばれて桃を食ったお前の力だろうが! 自分の力に引け目なんか感じてんじゃねえ! 胸張って、前だけ見ていけ!』
『……はい!』
海燕の真っ直ぐな言葉に、京香は顔を上げた。
『そういや、お前、いよいよ魔防隊に入るんだろ?』
『はい……ただ……』
『なんだよ?』
『私は……故郷を滅ぼした醜鬼への復讐だけを考えて稽古してきました。そんな私怨にまみれた気持ちで魔防隊に入って……本当に、人々を守れるんでしょうか……』
それは、常に自分に厳しく生きてきた京香が、海燕にだけ見せた、彼女らしくない弱気だった。
海燕は腕を組み、空を見上げて少しだけ考え込んだ。
『そうだな……。人々を守るってのは、確かに魔防隊の使命だ。大事なことだ。ただな……同時に、絶対に守らなきゃいけねえモンがある。それはな───』
海燕は、京香の目を真っ直ぐに見据えた。
『「心」だ』
『……心……?』
『ああ。京香、心ってのは、どこにあると思う?』
突然の問いに、京香は戸惑いながら自分の胸のあたりを指差した。
『えっ? そうですね……この辺り、でしょうか……?』
海燕は笑い、自分と京香の間に、スッと握り拳を置いた。
『オレが思うに心ってのはな、ここにあるんだ』
『ここ、ですか?』
『ああ。俺とお前が触れ合う時。誰かが誰かを考えて、誰かを想う時……その間に、初めて「心」は生まれるんだ。多分、この世界に自分一人だけだったら、心なんてのは何処にもねえんじゃねえのかな』
京香は、目を見開いた。
自分の内側にあると思っていたものが、他者との繋がりそのものだという考え。
『それに、魔防隊に入るに当たって、お前が絶対やっちゃいけねえことがある!』
『え……なんでしょう……』
『それはな、一人で死ぬことだ』
海燕の顔から笑みが消え、真剣な剣士の顔になった。
『魔都で戦ってりゃあ、どんなに強くても、万が一って時がある。そん時、大体は醜鬼共に喰われるか、運が良くて遺体が現世に戻ってきたとしても……火葬されて、ただの灰になっちまう。その時、「心」は何処へ行く?』
『……』
『心は仲間に預けていくんだ。そうすりゃあ、そいつの中で、ずっと生き続ける。……そうだろ?』
その言葉は、復讐という孤独な暗闇の中にいた京香にとって、一条の光だった。
海燕の教えを胸に刻み、京香は魔防隊に入隊した。そして、持ち前の執念と海燕から学んだ剣術、桃の力を結集させ、メキメキと頭角を現していった。
だが、残酷な運命は、突然彼らを襲った。
ある日、海燕の恋人が、魔都災害に巻き込まれて命を落としたのだ。
原因は、人間に寄生し、身体を乗っ取る能力を持つ『特殊醜鬼』。恋人の遺体は運良く現世に戻ってきたが、下半身は無惨に喰いちぎられていた。
霊安室で、海燕は血の涙を流し、激しい怒りに震えた。
だが、彼は男だ。どんなに剣術が優れていようとも、桃の能力を持たない生身の身体では、醜鬼には絶対に勝てない。それが世界の理だった。
『早まるんじゃないよ、海燕。……彼女の仇は、私ら魔防隊で取る』
祖母であるりうが、悲痛な声で海燕を諭した。
しかし、数日後に再び魔都災害が発生し、あの特殊醜鬼が単独で現世の境界付近に現れた時。
海燕は、りうの制止を振り切り、祖父の形見である日本刀だけを握りしめ、たった一人で魔都へと飛び出していったのだ。
愛する者の魂を辱めた化け物を、己の手で討ち果たすために。
一番組、そして京香の所属する七番組が、緊急討伐任務として現場に急行した。
バケツをひっくり返したような、冷たく激しい雨が降る夜だった。
『海燕殿ォ!!』
泥濘む大地を蹴り、京香は叫びながら走った。
視界の先、雨に打たれながら立っている見慣れた背中を見つけ、安堵しかけたその時。
ゆっくりと振り返ったその顔には、かつての太陽のような笑顔はなかった。
『……なんじゃ? ワシを呼んだか、小娘』
醜悪に歪んだ顔。人間離れした濁った瞳。
それは、特殊醜鬼に身体を完全に『乗っ取られ』、自我を失った海燕の姿だった。
絶望。
京香の手から、刀が滑り落ちそうになる。
『殺せ!! 京香!! そいつはもう、海燕ではない!!』
駆けつけたりうが、雨に打たれながら、血を吐くような声で命じた。
だが、京香の足は動かなかった。恩人であり、憧れであり、最も尊敬する兄弟子。その身体を、どうして斬れるというのか。
乗っ取られた海燕が、狂気的な笑い声を上げながら京香へと飛びかかってきた。
己の命を奪いに来る、愛した人の顔。
京香は無意識のうちに目を閉じ、刀を前に突き出した。
ズブリ、と。
嫌な肉を断つ感触が、両手に伝わった。
京香が恐る恐る目を開けた時。
彼女が突き出した刀の刃は、海燕の胸を深々と貫いていた。
いや、違う。海燕自身が、自らその刃へと飛び込んできたのだ。
海燕の身体が、京香にもつれかかるように倒れ込む。
その瞬間、特殊醜鬼の支配が解け、海燕の瞳に、本来の優しい光が戻った。
『……婆ちゃん……ありがとな……オレを、戦わせてくれて……』
りうは、雨に顔を隠すように、深く俯いた。
『……海燕、殿……?』
京香は、海燕の血に染まっていく手を震わせながら、掠れた声で呼んだ。
『……京香……俺の我儘に、付き合わせちまって……悪い……。ヒデー目に合わせちまったな……キツかったろ……』
海燕は、血を吐きながら、力なく京香の身体を抱きしめた。
自分の手で恩人を刺してしまった絶望に、京香の瞳から雨粒とは違う大粒の涙が溢れ出す。
『海燕殿っ……!』
『……ありがとな……』
海燕は、最期の力を振り絞り、京香の耳元で優しく囁いた。
『……お陰で……心は……此処に、置いていける……』
その言葉を最後に。
彼を抱きしめていた京香の腕から、力が、命の重さが、ふっと抜け落ちた。
雨音だけが響く魔都の大地に、一人の気高き剣士が散った。
「……彼からは、心を預けてもらった」
静かな墓地。
京香の横顔には、一筋の涙の痕があった。だが、その瞳は決して悲しみに沈んではいなかった。
「だから、私の中で……海燕殿は、今も生き続けているんだ」
優希は、京香の語る壮絶な過去と、その言葉の重みに、深く感銘を受けていた。
一人で死ぬな。心を預けろ。
魔都という地獄を生きる魔防隊にとって、それがいかに難しく、そしていかに尊い教えであるか。
京香は、優希の顔を見つめ、静かに告げた。
「優希。私は……あの男、黒嶺真護の戦う姿を見た時、海燕殿と重ねた」
「え? 真護と……ですか?」
優希は驚いた。真護は口が悪く、海燕のように誰にでも好かれる太陽のようなタイプとは少し違う。
「顔も背格好も違う。だが、あの雰囲気……自分の身を挺してでも、絶対に仲間を守り抜こうとするあの姿勢は、紛れもなく海燕殿のものだった。彼もまた、誰かに心を預け、誰かの心を預かっているのだと、一目で分かった」
京香の言葉に、優希の胸が熱くなる。
真護は、魔都で孤独に戦っていたわけではない。姉の青羽や、仲間たちの心と共に、あそこで刃を振るっていたのだ。
「……そうですか。真護が……」
優希が誇らしげに微笑んだ、その時だった。
「おや、京香。もう来てたのかい」
背後から声がして振り返ると、一番組副組長の冥加りうと、組長となった多々良木乃実が、大きな花束を抱えて歩いてくるのが見えた。
「師匠。木乃実も」
「押忍! 姉弟子、優希殿! お疲れ様です!」
木乃実が元気よく一礼する。りうは、京香の顔を見て、すべてを悟ったように優しく目を細めた。
「相変わらず、あの子の前じゃ泣き虫だねぇ、お前は」
「……雨が降っただけです」
京香が静かに微笑み返すと、りうと木乃実もまた、海燕の墓前に進み出て、花を供えた。
四人が並んで、静かに手を合わせる。
雲が完全に晴れ、温かな陽光が現世の墓地を照らし出していた。
受け継がれた心は、京香の刃となり、木乃実の拳となり、そして優希や真護の未来へと繋がっていく。
魔都の闇を斬り裂くために、彼らの戦いは終わらない。