七番組寮へと帰還したその夜。
夕食の片付けを終えた優希は、リビングのソファで少し寛いでいた京香の元へ歩み寄り、ずっと気になっていた疑問を投げかけた。
「京香さん。……さっきの海燕さんのお話の中で、少し気になったことがあるんですけど」
「なんだ?」
京香が淹れたてのコーヒーを置き、優希の方へ向き直る。
「その……能力を持った醜鬼なんて、初めて聞きました。姉ちゃんや真護みたいな『人型醜鬼』ならまだしも、そうじゃないのに能力を持ってる特殊醜鬼なんて……」
そこまで言って、優希はハッと我に返った。
京香の最も大切な人の命を奪い、その尊厳を汚した化け物のことだ。それを無神経に掘り返すような野暮な真似をしてしまったと、優希は血の気が引く思いだった。
「す、すいません! 俺、変なこと聞いちゃって……!」
「いや、いいんだ。気にするな」
慌てて頭を下げる優希を、京香は静かに制した。
「確かに、お前の疑問はもっともだ。蜘蛛のような醜鬼や一本角のような特殊醜鬼は確かにいる。だがあのような能力を持った醜鬼など前代未聞だ……現在進行形で陰陽寮による生態調査は行われているが、後にも先にも、あのような能力を持った野生の特殊醜鬼は、海燕殿を乗っ取った『奴』だけだったからな」
なぜ、あの醜鬼だけが能力を持っていたのか。
魔防隊の上層部でも、未だにその謎は解明されていない。だが、京香はその背後に、魔都の深淵で蠢くさらに巨大な闇――八雷神や、それを生み出した何らかの意図が絡んでいるのではないかと、密かに疑念を抱いていた。
やがて夜が更け、七番組の面々は最も広い和室に布団を並べ、全員で雑魚寝することになった。
深夜。優希はふと息苦しさを覚えて目を覚ました。
見れば、最年少の大川村寧が、優希の腕にではなく、胴体にガッシリと抱きついて、コアラのようにしがみついたままスヤスヤと眠っていた。
「……可愛いけど、ちょっと重いな……」
優希は苦笑しながら、寧を起こさないようにそっと寝返りを打ち、再び眠りについた。
翌朝。
「す、すいません! 私、寝相が悪くて……!」
寧が顔を真っ赤にして何度も頭を下げる。
「いや、いいんだよ。寧ちゃんが謝ることじゃない。……元はと言えば、夜中に忍び込んできた八雷神が悪いんだし」
「優希さん……優しいです……!」
朝食後、優希は日課となっているスレイブの訓練に向かった。
今回は、寧が手綱を握る番だ。
『無窮の鎖・煌星(スレイブ・きらぼし)』
寧の索敵能力と優希の身体能力が融合した、隠密と探知に特化した形態。
白い獣となった優希は、地面に耳を当て、七番組寮の周囲の地脈を広範囲にわたって索敵する。八雷神が仕掛けた呪いや、空間移動のための紋章などが残っていないかを念入りに探ったが、異常はなかった。
訓練を終え、人間の姿に戻った優希は、寧からご褒美の「なでなで」を頭に受けながら、ホッと息をついていた。
その、平穏な朝の空気を。
鼓膜を突き破るようなソニックブームが、一瞬にして引き裂いた。
「え……?」
空から、凄まじい速度で何かが降下してくる。
それは、重力など存在しないかのようにフワリと宙に浮いたまま、七番組寮の庭へと降り立った。
宙に浮く魔防隊総組長・山城恋。
「土産よ」
彼女がまるでゴミでも捨てるかのように無造作に放り投げたのは――血まみれになり、上半身の衣服(死覇装)を半分失い、完全に気を失っている黒嶺真護の身体だった。
おまけに、彼が黒い刀を握っていたはずの左腕は、肘のあたりから完全に吹き飛んでおり、切断面からはグズグズと黒い粒子が泡立って「再生」を試みている途中だった。
「なっ!?」
「真護!!」
京香と優希が、同時に絶叫する。
「寧は通常任務に戻っていいわ」
恋は、驚愕で固まっている寧に向かって、絶対的な命令を下した。
「は……はい……!」
寧は優希たちを振り返りながらも、逆らうことなどできず、逃げるように寮の奥へと引っ込んだ。
時は、数十分前に遡る。
魔都の深奥。新たな隠れ里で休息を取っていた真護は、青羽に「ちょっくら出てくる」とだけ言い残し、単独で魔都の荒野へと出ていた。
精神世界で斬月のおっさんから教えを受けたものの、ただ闇雲に剣を振るうだけでは、八雷神からは何も護れない。己の魂の深淵に触れ、力の底上げを図るための、実戦を伴う特訓が必要だったのだ。
手始めに、群れを成していた数十体の野生の醜鬼を『天鎖斬月』の超高速戦闘で瞬殺し、真護が残心をとった、その時だった。
「へえ……」
背後から、少女の無邪気な声がした。
「ッ!!」
真護の全身の毛穴が開き、生存本能が警鐘を鳴らす。
考えるよりも早く、瞬歩で後方へと数十メートル飛び退く。
先ほどまで自分が立っていた場所のすぐ真後ろ。そこに、小柄な少女が音もなく宙に浮いていた。
(……このプレッシャー、この佇まい。間違いない)
隠れ里で青羽たちから聞いていた、魔防隊の頂点。
この人が、総組長・山城恋だと、真護の魂が瞬時に理解した。八雷神の紫黒や壤竜とはまた違う、底なしの虚無を内包した絶対的な「力」の化身。
「あなた、男の子でしょ? これ、やったのあなた?」
恋は、周囲に散らばる醜鬼の死体を見下ろしながら、面白そうに小首を傾げた。
「そうだ……って言ったら、どうする?」
真護が浅く腰を落とし、天鎖斬月を正眼に構える。
「決まってるじゃない。連れ帰って、徹底的に躾けるわ」
恋の姿が、ブレた。
速い。真護の瞬歩に匹敵するか、それ以上の速度。
一気に距離を詰められ、恋の白く細い腕から、想像を絶する質量の殴打が連続して放たれる。
「くそっ……!」
真護は必死に身を捩り、天鎖斬月の刀身でガードするが、そのたびに凄まじい衝撃が全身の骨を軋ませた。
力で完全に押されている。このままでは削り殺される。
真護は距離を取り、刀に黒いエネルギーを圧縮させた。
「『月牙天衝』ッ!!」
漆黒の斬撃が、魔都の地を抉りながら恋へと迫る。
しかし。
「無駄よ」
恋は避けることすらしなかった。
彼女の瞳の奥に、曼荼羅のような複雑な紋様が浮かび上がる。
山城恋の能力は、万物を総該した『無限宇宙の全一』。
八つの異なる仏の能力を瞳に宿し、それを自在に操る神の如き力。さらに恐るべきは、その強大な能力を「二つ同時に」発動できることだ。八つ全ての能力の真髄を知る者は、恋以外には存在しない。
恋の瞳が光った瞬間、真護の放った月牙天衝は、見えないエネルギーの壁に衝突したかのように、プツンと音もなく掻き消されてしまった。
「なっ……!」
「遅いわよ」
超高速による斬撃の連撃も、恋の見えない盾と、物理法則を無視した体術の前に、全て無為に帰す。
(嘘だろ……。俺の最大火力の攻撃が、全く通用しねえ……!)
絶望的な実力差。八雷神と戦った時と同じ、いや、それ以上の分厚い壁。
真護は奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばった。
(だったら……アレをだすしかねえ……!)
真護は、刀を持つ右手を下げ、空いた左手を自身の顔の前へと持っていった。
五本の指を立て、顔面を覆うようにして、一気に下へと引き下ろす。
「まだ何かあるのかしら?」
恋が余裕の笑みを浮かべた、次の瞬間。
真護の顔に、禍々しい骨のような『仮面』が現れた。
瞳は白黒が逆転し、全身から噴き出す霊圧が、先ほどまでの青白いものから、赤黒くドロドロとした『虚(ホロウ)』のそれに変質する。
内なる力の暴走を、無理やり理性の仮面で押さえ込んだ形態――『虚化』。
「ルォォォォォォッ!!」
獣のような咆哮と共に、真護が再び斬りかかる。
その速度と重さは、先ほどまでの比ではない。
「あら、さっきよりマシになったじゃない!」
恋は楽しそうに笑いながら、真護の斬撃を紙一重で躱し続ける。
虚化による超絶的なバフ。だが、それは今の真護にとって、極めて制限時間の短い諸刃の剣だった。
数十合の打ち合いの末、真護の顔を覆っていた仮面が、パチンと音を立てて砕け散った。
「……ハァ……ハァ……っ!」
反動と凄まじい疲労で、真護は片膝をついた。
(マジかよ……。アレを使っても、一太刀も届かねえのか……! 強ェなんてもんじゃねえ、バケモノだ……!)
「もう終わり? つまんないの」
恋は、容赦なく片膝をついた真護の腹部を蹴り飛ばした。
砲弾のように吹き飛んだ真護は、背後の岩盤に叩きつけられ、岩盤ごと崩落する。
だが、真護は倒れなかった。血反吐を吐きながらも、再び立ち上がり、天鎖斬月を構えて恋へと突進する。
「しぶといわね」
恋は、瞳の能力の一つを解放した。
無形のエネルギーの塊が、恋の蹴りのモーションと共に放たれ、真護へと直撃する。
ドゴォッ!!
真護の死覇装の左半分が完全に消し飛び、彼の肉体を深く抉った。天鎖斬月でガードしていなければ、即死していた一撃。
「あら? 頑丈な刀ね。デザインも素敵じゃない。醜鬼なんかには勿体無いわね」
恋は、完全に膝をつき、血まみれになった真護を見下ろした。
「あなたと私の違い、教えようか?」
恋の冷酷な瞳が、真護を射抜く。
「『格』よ。あなたは醜鬼で、私は魔防隊総組長。ただそれだけ。這いつくばって、私の靴でも舐めなさい」
圧倒的な強者の宣言。
だが、真護は首を垂れることはなかった。
血で片目が塞がった状態で、恋を強く睨み上げる。
「……うるせえよ……」
真護が、刀の柄を握る手に最後の力を込める。
「俺は、誓ったんだ。……ぜってぇ、全部護り抜くってな」
「誓うって、誰に? 家族? 仲間?」
「誰でもねえよ。ただ──」
真護の瞳の奥で、精神世界にいる斬月のおっさんの姿がフラッシュバックする。
「──オレの、魂にだ!!!」
ドォォォォォォン!!!
限界を超えた真護の体から、再び赤黒いエネルギーが爆発的に吹き上がり、砕けたはずの仮面が再び彼の顔を覆った。
命を削った、二度目の虚化。
そして、全霊圧を乗せた、渾身の『月牙天衝』が放たれる。
「無駄だって言ってるでしょ」
恋は、全く動じることなく、能力を纏わせた足でその漆黒のエネルギーを蹴り飛ばし、相殺しようとした。
だが。
真護の狙いは、月牙天衝を当てることではなかった。
月牙のエネルギーが相殺されるその爆発の陰から、真護が特攻を仕掛けていたのだ。
自らの防御を完全に捨て、左腕を恋の能力の軌道上に差し出し、肉を断たせることを前提とした、捨て身の一撃。
「なっ……!?」
初めて、恋の顔に驚きの色が走った。
真護の左腕が肘から先で綺麗に切断され、血飛沫が舞う。
しかし、その代償として、真護の握る天鎖斬月の切っ先が、恋の防御の隙間を縫い、彼女の制服の左腕を浅く斬り裂いたのだ。
シュパッ。
恋の純白の肌に、一筋の赤い線が走る。
そして、それを見届けた真護の意識は、限界を迎えてそのまま闇の中へ落ちていった。卍解の漆黒の装束が解け、元のボロボロの死覇装の姿となって、地面に倒れ伏す。
恋は、自身の左腕に刻まれた浅い傷を見つめた。
能力によって傷自体は即座に塞がり、元通りの綺麗な素肌に戻ったが、制服の左袖はスパッと切れたままだった。
(……この私に、傷をつけた……?)
恋の瞳の奥に、怒りよりも、狂気じみた歓喜の色が浮かび上がる。
彼女は、倒れた真護の袴の帯を無造作に掴み上げると、彼を十番組寮(本部)へと連れ帰って徹底的に調教しようと考えた。
しかし、ふと七番組寮に「お気に入り」の白い犬(優希)がいることを思い出し、予定を変更してソニックブームで飛翔したのだった。
そして、現在は七番組寮の庭。
「京香。コイツを躾けときなさい。いいわね?」
恋の理不尽な命令。
京香は、地面に転がる血まみれの真護を見下ろし、激しい怒りと疑問を感じていた。
あの冷酷な山城総組長が、人型とはいえ醜鬼を「殺さずに」連れて帰ってきたこと自体が異常だ。
そして、京香の鋭い観察眼は、恋の制服の左腕がスパッと切れており、そこから綺麗な素肌が露出していることを見逃さなかった。
(まさか……この男、総組長に一矢報いたというのか……!?)
驚愕を隠しきれない京香は、奥に引っ込もうとしていた寧を怒鳴りつけるように呼んだ。
「寧!! 日万凛と朱々を呼んで、コイツを中へ運べ! 絶対に死なせるな!」
「は、はいっ!」
寧が慌てて寮の中へ駆け込んでいく。
恋は、そんな七番組の慌ただしさを意に介さず、京香に尋ねた。
「そういえば京香……能力をうまく拡張してるわね。他人があなたの『スレイブ』を使えていたわ。どういう条件なの?」
「……っ」
先ほどまで優希に乗っていた寧の姿を見られていたのだ。
京香は、渋々といった様子で、『無窮の鎖』の貸し出しという拡張機能について、必要最低限の説明を行った。
「へえ! 面白い拡張じゃない! 私も試したいわ!」
「自分が著しく疲弊するので、連続使用は出来ません。それに、対象との信頼関係も必要です」
京香が釘を刺すが、恋は「ええ〜」と少し悔しそうに唇を尖らせた後、悪戯っぽく笑った。
「でも、私の奴隷にできるっていうのは朗報ね」
「……優希は、私の奴隷です!!」
京香が、かつてないほどの強い語気で反論する。
二人の組長の間で、見えない火花が散った。
恋は、少しの間京香と睨み合っていたが、やがて「フフッ」と笑い、「現世で任務があるから、今日はこの辺にしておくわ」と言い残し、再びソニックブームを轟かせて空の彼方へと飛び去っていった。
飛行中、恋は魔都の風を受けながら、ニヤリと深く、歪な笑みを浮かべていた。
和倉優希と、黒嶺真護。
退屈な魔都で、最高に面白くて頑丈な「お気に入り」の玩具を二つも見つけてしまった喜びに、彼女の胸は高鳴っていた。
恋の姿が完全に見えなくなると、京香はふらりと優希に近づき、無言で彼にガバッと抱きついた。
「きょ、京香さん……?」
「……馬鹿者が!!」
抱きしめられたと思った次の瞬間、京香の両腕が万力のような力で優希の背中をギリギリと締め上げ、強烈な説教が始まった。
「会議前に、あれだけ総組長と目を合わせるなと忠告したはずだ! お前、会議室に入って即行で総組長を見てたろ!!」
「ぐえぇぇっ!? す、すいません!」
「案の定、完全に気に入られてしまっているではないか!」
京香の怒りは、優希が命令に背いたことよりも、彼が恋の「玩具」として目をつけられてしまったことへの強烈な危機感と、ほんの少しの独占欲から来ていた。優希自身も、まさか恋が自分を見ているとは思っていなかったのだ。
「すっ、すみません! まさかあっちが俺を見てたなんて思わなくて!」
「目をかけられたのは、アレだけではないだろうが……。お仕置きをしてやらんとな!」
「すみませんでしたぁぁ!」
「……『警告』ではなく、『命令』にすべきだったな」
京香は、ようやく優希を解放し、深いため息をついた。
「気をつけます! ……でも、目をかけられるとどうなるんですか?」
「大義名分をつけて、玩具のように弄り続けてくる。組長会議での、三番組のベルがいい例だ」
「玩具……」
優希は、ベルの怯えきった顔を思い出し、ズーンと頭を抱えて落ち込んだ。
だが、すぐにハッとして顔を上げる。
「そうだ! 真護!!」
優希は弾かれたように走り出し、寮の中へと駆け込んだ。
医務室代わりの空き部屋。簡易ベッドに寝かされた真護は、全身血まみれだったが、胸は静かに上下して息をしており、切断された左腕からの出血もすでに止まっていた。
ただの気絶だ。そして、失われた左腕の断面からは、黒い粒子が蠢き、骨と肉を少しずつ「再生」させている途中だった。
「うげっ、なんか気持ち悪……」
傍で見ていた朱々が、顔をしかめる。
「朱々……! 怪我人に向かって失礼でしょ!」
日万凛が窘める中、優希がベッドの傍らに滑り込んだ。
「日万凛! 真護は無事なのか!?」
「ええ。さすが人型醜鬼ってとこね。致命傷になりそうな傷も塞がりつつあるし、腕の再生も始まってるわ」
日万凛の言葉に、優希はヘナヘナとその場に座り込み、ホッと胸を撫で下ろした。
そこへ、京香が静かに部屋に入ってくる。
「……腕一本で済んで、本当によかったな。あの山城総組長が、敵(醜鬼)を生かして持ち帰るなど、前代未聞の異常事態だぞ」
京香の言葉に、その場にいた全員が、山城恋という存在の底知れなさを改めて痛感していた。
そんな重い空気の中、朱々がベッドに身を乗り出し、気絶している真護の頬をツンツンと指で突いた。
「でもさー、こうして間近で見ると、やっぱり結構イケメンだよねー。ひまりんもそう思うでしょ?」
「は!? いや、まぁ……否定はしないけど……って、こんな時に何言ってんのよ!」
顔を赤くして怒る日万凛。
その後ろで、寧は真護の腕が再生していく様子を、「おぉ〜……」と興味津々のキラキラした目で見つめていた。
強大すぎる敵との遭遇。
そして、七番組寮に転がり込んできた、手負いの黒き死神。
休む間もなく続く波乱に、優希は深く長い息を吐き出すのだった。