七番組寮、医務室代わりの空き部屋。
ベッドに横たわる黒嶺真護の肉体は、静かな寝息を立てていた。切断された左腕の断面からは、依然として黒い粒子が泡立つように蠢き、肉と骨を紡ぎ出している。その異様でありながらも神秘的な光景を、大川村寧は目を丸くして見つめていた。
ふと、寧の視線がベッドの脇へと向いた。
「あれ……? こんなところに、刀なんてありましたっけ?」
「え?」
寧の声に、優希と日万凛が振り返る。
壁に立てかけられていたのは、鍔のない白鞘の刀でも、魔防隊の支給品でもない。使い込まれたような、しかし異様なまでの重圧を放つ一振りの日本刀だった。
「あれ? ホントだ。いつの間に……」
日万凛が首を傾げる。山城恋が真護を放り投げた時、確かに刀など持っていなかったはずだ。彼が気絶している間に、まるで主の傍に寄り添うように、いつの間にか「そこ」に顕現していたのである。
京香は、その刀を無言で見つめ、微かに眉をひそめた。
(……ただの武器ではない)
京香の鋭い剣士としての直感が、警鐘を鳴らしていた。その刀からは、まるで呼吸をしているかのような、確かな『意思』が感じられたのだ。主を守ろうとする、静かで強烈な霊的な意志。
「日万凛、優希。その刀には絶対に触れるな。真護から目を離すなよ」
京香は短く命じると、自室へと踵を返した。
鍵をかけ、周囲の気配を完全に遮断した後、懐から浦原喜助に渡された黒い専用端末を取り出す。ダイヤルを回すと、数回のコールの後、間延びした声が耳に届いた。
『はいはい、浦原商店ッス。どうされました?』
「私だ。……黒嶺真護が、現れた。今、七番組寮のベッドで気を失っているがな」
端末の向こう側で、扇子を開くような「パチン」という音がした。
『おや、意外と早かったッスね。……状態は?』
「左腕を欠損するほどの重傷だ。今、彼自身の能力で再生している最中だが……彼をここに放り投げていったのは、他でもない、山城総組長だ」
浦原が、小さく「ほう」と感嘆の息を漏らしたのが分かった。
『あの絶対的強者の総組長サンと喧嘩して生きて帰ってきたと。……なるほど、これは一刻の猶予もありませんね』
「ああ。結界の件も急務だが、彼に『力の使い方』を教えるというお前の言葉、今すぐ実行してもらいたい」
『分かりました。では、正午頃そちらに伺いますんで。……"助っ人"とね』
助っ人。その単語に、京香は不快げに眉を寄せた。
「助っ人だと? すまんが、これ以上素性の知れない部外者を寮に入れるわけにはいかないぞ。魔防隊の目もある」
『大丈夫っスよ。見ず知らずの人間じゃありません。元魔防隊の人っスから。それも、元組長サンっス』
京香の目が見開かれた。
この胡散臭い男には、そんな人脈まであったのか。だが、すぐに納得もした。元陰陽寮の技術責任者であれば、魔防隊のOGと繋がりがあっても何ら不思議ではない。
「……誰だ。その『元組長』というのは」
『元・二番組組長。……四楓院夜一さんっス』
その名を聞いた瞬間、京香は息を呑んだ。
四楓院夜一。魔防隊に所属する者であれば、一度はその伝説を耳にしたことがあるだろう。
能力の強力さもさることながら、彼女の真髄はそこではない。素手による格闘術、そして何より高速移動術に至っては、歴代の組長の中でも右に出る者はいないと謳われた天才。(規格外の山城恋は例外として)
ついた渾名が、『瞬神・夜一』。
彼女は10年ほど前に突如として魔防隊を辞め、表舞台から姿を消したため、京香自身は直接の面識はない。だが、師である冥加りうからは、幾度となくその規格外の身のこなしについて聞かされていた。
「……瞬神か。なるほど、それほどの人物であれば、総組長の監視網を抜けて結界内に侵入することも可能だろう」
『ええ。アタシの技術と、夜一サンの足があれば、誰にも悟られずにそちらへ伺えます。……それでは、正午に』
通信が切れ、京香は静かに端末を置いた。
現世の闇に潜む技術者と、かつての伝説の組長。彼らが、あの特異な少年をどう導くというのか。京香は、窓の外の淀んだ紫色の空を見上げながら、静かに来たるべき刻を待った。
――ぽたり、ぽたり。
どこからか、水滴の落ちる音がする。
黒嶺真護の意識は、深く暗い海の底から浮上するように、ゆっくりと覚醒していった。
目を開けると、そこは魔都の天井ではなかった。
青空。そして、重力を完全に無視して横倒しに乱立する、無数のガラス張りの高層ビル群。
自身の『精神世界』だ。
「……また、ここか……」
真護は、横倒しになったビルの窓ガラスの上に立ち、ゆっくりと自身の左腕を見た。
現実世界では山城恋の攻撃によって吹き飛んだはずの左腕が、この世界では五体満足のまま存在している。しかし、その腕の奥底には、圧倒的な力の前に何もできずに切り捨てられたという、生々しい無力感と敗北感が重い鉛のようにこびりついていた。
「ハァ……ハァ……っ!」
思い出すだけで、ギリギリと奥歯が鳴る。
総組長・山城恋。あの女の力は、次元が違った。虚化という命を削る奥の手を使ってさえ、彼女の衣服を微かに斬り裂くのが精一杯だったのだ。
『己の無力さを、骨の髄まで味わったか。真護よ』
背後から、重厚な声が響いた。
振り返ると、漆黒の外套を羽織り、色付きのサングラスをかけた無精髭の男――『斬月のおっさん』が、静かに真護を見下ろしていた。
「おっさん……。ああ、ボロ負けだ。オレの攻撃は、何一つ通用しなかった。あのバケモノから青羽さんや優希を護るには……オレは、まだ弱すぎる」
『お前は恐れ、焦っている。圧倒的な深淵を前にして、己の刃が砕けることを。……だが、真に恐れるべきは外の敵ではない。お前の内にあるものだ』
「内にあるもの……?」
真護が眉をひそめた、その瞬間だった。
『ギャハハハハハハハッ!!』
突然、空気を引き裂くような、狂気に満ちた甲高い笑い声が、ビルの谷間に木霊した。
ただの笑い声ではない。刃物を直接脳髄に突き立てて掻き回すような、暴力的で、おぞましく、それでいてひどく聞き覚えのある『声の響き』。
「誰だ……!?」
真護が声のした方へ身構えると、空間が歪み、一人の男が姿を現した。
ビルの縁にしゃがみ込み、まるで猛禽類のように真護を見下ろしているその男の姿を見て、真護は絶句した。
顔立ち、背格好、体つき。どれをとっても、真護自身と「全く同じ」だったのだ。
しかし、その色彩は完全に反転(インバート)していた。
肌は、病的なまでに真っ白。
髪も、雪のように色素の抜けた純白。
纏っている死覇装も、本来の漆黒とは真逆の、不気味なほどに純白な装束。
そして何より異様なのは、その両目だった。白目にあたる強膜は漆黒に染まり、その中心で、獣のような金色の虹彩がギラギラと殺意を放って輝いていた。
「よう! みっともなく地面舐めてたなァ、相棒!」
白き男は、自分と同じ顔をニヤァと三日月の形に歪め、嘲るように舌を出した。
その声は真護と同じ声帯から発せられているはずなのに、エフェクトがかかったように二重に響き、背筋が凍るような殺意を孕んでいた。
「てめえ……誰だ! なんでオレと同じ顔をしてやがる!」
真護が叫ぶと、白き男は軽業師のようにフワリと跳躍し、真護の数メートル先へと着地した。
「誰かって? ギャハハ! 決まってんだろ。俺は『お前』だ。……いや、正確には、お前の中に巣食う『本能』。戦いを求め、敵を殺し、蹂躙することを渇望する、絶対的な破壊衝動そのものさ」
白き男は、純白の刃を肩に担ぎ、金色の瞳を細めた。
「お前さァ、あの女にボコボコにされてる時、思ったろ? 『どうすれば勝てる』『どうすれば護れる』ってよ。……頭で考えてるうちは、テメェは一生弱ェままだ」
男の姿が、掻き消えた。
「ッ!?」
反射的に防御姿勢をとった真護の背後に、いつの間にか白き男が回り込んでいた。
その純白の刃が、真護の首筋スレスレを通り抜け、数本の前髪を切り落とす。
「戦いってのはなァ、理屈じゃねえ! 敵の肉を断ち、骨を砕き、その血をすする! ただ純粋な殺意と生存本能……それが俺たちの真髄だろうが!」
白き男が、歓喜の咆哮と共に刃を振り下ろす。
真護は間一髪でその場から飛び退いたが、男の振るった刃から放たれた『純白の月牙』が、後方のビル群を真っ二つに両断し、ガラスの雨を降らせた。
「俺は、お前の理性が押さえ込んでる本当の力だ。……王の座に座ってんのが、こんな弱っちい腑抜けじゃ、俺が下敷きになってる意味がねえんだよォ!」
狂気に満ちた金色の瞳が、真護を射抜く。
「教えてやるよ、相棒。本能と理性の違いを。……『王』と『騎馬』の違いをなァ!!」
真護の精神世界。
静かなる斬月のおっさんが見守る中、己の魂の主導権を懸けた、白と黒の凄絶な殺し合いが、今まさに幕を開けようとしていた。
現実世界で彼が目覚める時、その魂は果たしてどちらの色に染まっているのか。
正午の接触まで、残り数時間。