翌朝。黒嶺真護は、自室の壁に穿たれた簡易的なクナドの前に立っていた。
浦原喜助が構築したというその空間の歪みをくぐり抜けると、そこは七番組寮の景色から一変し、岩と土に囲まれた広大な地下空間が広がっていた。現世の地下深く、浦原と四楓院夜一が昔から使用しているという秘密の修行場だ。
「おお、来たな小僧」
「サイズ、ピッタリみたいッスね」
待ち構えていた二人の前で、真護は自身の身なりを確認した。
山城恋との激闘で消し飛んだ死覇装の代わりに、浦原が徹夜で仕立ててくれたという真新しい漆黒の装束。真護の霊圧に馴染むように特殊な素材で編み込まれており、着心地は抜群だった。
「早速やりますか」
真護が気を引き締めると、夜一は腕を組み、金色の瞳を獰猛に細めた。
「最初に言っておくぞ小僧。ワシは手加減せんからな。死にたくなければ必死で食らいついてこい」
「おう。つっても、何から始めんだ? いきなり斬り合いか?」
「そうっスねぇ……」
浦原が扇子をパチンと開き、口元を隠して目を細める。
「まずは、その『霊力』のコントロールからっス」
「霊力?」
「ああ、そう言えば教えてませんでしたね」
浦原は、この世界において真護のような存在がいかに特異であるか、そして彼らが扱うエネルギーの正体について語り始めた。
魔都の恩恵である『桃』。それは女性にのみ強大な異能を与える果実だが、真護が使っている力はそれに由来しない。魂の根源的なエネルギー――『霊力(霊子)』を燃やして戦っているのだと。
「マジかよ……。女の人以外で、そんな力があったのか……」
真護は、己の力のルーツを初めて理論的に理解し、目を見開いた。
「とりあえず黒嶺サン。本気で霊力を込めてみてください。限界までね」
「卍解でいいのか?」
「ええ。その卍解ってやつを、アタシたちにしっかり見せてもらいたいんス」
「わかった」
真護は深く息を吐き、右手に握った刀(浅打)を水平に構え、伸ばした右腕に左手を添えた。
魂の奥底で蠢く白と黒のエネルギーを、一本の刃へと収束させる。
「卍解!!」
ドゴォォォォォォン!!!
爆発的なエネルギーの奔流が、地下空間に吹き荒れた。
突風が収まると、そこには姿を変えた真護が立っていた。
刀身から鍔に至るまで完全に漆黒に染まり、鍔は『卍』の形を成している。柄の先からは短い黒い鎖が垂れ下がり、彼が纏っていた死覇装も、裾が長く風に靡く卍解特有のコート状の装束へと変化していた。
「なるほどの。確かに、凄まじい霊圧じゃ。あの小娘の腕を傷つけたというのも頷ける。じゃが……」
夜一が、真護の全身から立ち昇る黒いオーラを見て、厳しく指摘した。
「ええ。ダダ漏れッスね。まずはその、霊力の無駄遣いから治していきましょうかね」
浦原の言葉を合図に、夜一の修行という名の『地獄のしごき』が幕を開けた。
「いくぞ!」
夜一の姿が掻き消えた。
「ッ!?」
真護が反応する間もなく、背後から強烈な蹴りが鳩尾に突き刺さる。
「グハッ……!?」
「遅い! それに、動くたびに霊力に無駄が多い!」
次々と繰り出される神速の連撃。真護は必死に天鎖斬月で防ごうとするが、夜一の白打(格闘術)と歩法は、真護の超高速戦闘をさらに上回る次元にあった。
「グッ……! くそっ!」
「どうした! 力任せに振り回すだけか! その程度では、過酷な戦場に立つなぞできんぞ!」
容赦のない打撃が、真護の肉体を打ち据えていく。
霊力を無意識に放出しすぎているため、スタミナの消費も激しい。内なる虚(本能)の暴走を抑え込みながらの戦闘は、真護の精神を極限まで削っていった。
一日目。
修行が終わる頃には、真護は文字通りボコボコにされ、大の字になって地面に倒れ伏していた。卍解も解け、元の死覇装の姿に戻って荒い息を吐いている。
「まぁ、今日はこのくらいにしておいてやるかの」
夜一が、汗一つかかずに息を吐く。
「いやぁ、相変わらず厳しいっスねえ」
「何を言っておる喜助。男が戦場に立つということは、生半可な覚悟では立てんのじゃ。敵は男だからとて、戦場で手加減なぞしてはくれんからな」
夜一の厳しい言葉に、真護は痛む体を無理やり起こし、唇を噛み締めた。
「わかってる……」
そんな真護の頭を、夜一はポンと少しだけ優しく撫でた。
「だが、焦る必要はない。お主の目には、絶対に折れんという強い意志がある。お主ならば、その『内の者』を完全に制することはできるじゃろう」
「……ありがとう……夜一さん」
真護は、武の頂点を極めた者からの激励に、少しだけ救われた気がした。
門をくぐり、七番組寮の自室へ戻ってきた真護は、そのまま床にへたり込んだ。
「あー、キッツ……。あの人、手加減って言葉知らねえのかよ」
全身の骨が軋む。そこに、廊下を通りかかった和倉優希が顔を覗かせた。
「お疲れ様、真護。……相当きついのか?」
「ああ。でも、確実に強くなってる実感はある。……やっぱ、伊達に組長やってねえよ、あの人」
真護が服の埃を払いながら立ち上がると、優希が少しだけ暗い顔をして、ボソッと呟いた。
「そういえば……姉ちゃんたち、大丈夫かな……」
その言葉を聞いた瞬間。
真護は「あっ」と声を漏らし、その場に頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「そうだ……。青羽さんたちに、なんて言い訳しよう……。ぜってぇブチギレられるぞ……」
『ちょっくら出てくる』とだけ言って隠れ里を出てから、すでに数日が経過している。向こうは、真護が魔防隊や醜鬼にやられたのではないかと、死ぬほど心配しているはずだ。しかも、隠れ里のリーダーであり、自分に想いを寄せてくれている青羽のことだ。心配がピークに達して、怒髪天を衝いている可能性が極めて高い。
「でも、今帰るわけにはいかないよな。真護が動けば、あの山城総組長に察知されて、隠れ里の場所まで特定されかねないし……」
「ああ。通信機みたいな連絡手段もねえし、こればっかりは……強くなって、胸張って迎えに行くしかねえな」
真護は、幼馴染と顔を見合わせて、深々とため息をついた。
その後。
修行の汗を流すため、優希と真護は七番組寮の広大な温泉(大浴場)へと向かった。
「……で」
湯船の端で、真護はジト目で目の前の光景を睨んでいた。
「なんで、羽前さんたちもいんだよ……」
広い岩風呂の湯船。そこには、真護と優希だけでなく、羽前京香と東日万凛の姿があった。
二人は優希の肩を揉んだり、背中を流したりしている。
「こ、これは……スレイブ化のご褒美……いや、だから……!」
日万凛は顔を真っ赤にして、タオルで口元を隠しながら必死に言い訳をした。
日中の合同訓練に向けた特訓で、日万凛も優希の『無窮の鎖』を借りてスレイブ化した。今回は京香と日万凛の二人で彼を使役したため、二人揃って優希に『リラックス(一緒に入浴する)』というご褒美を与えている最中なのだ。
普通の思春期の男であり、かつ美女二人の全裸が目の前にあるというこの状況。優希は顔を茹でダコのように真っ赤にして、視線のやり場に困り、ガチガチに固まっている。
しかし、真護の表情は、悟りを開いた僧侶のように完全に『無』であった。
彼にとって、女性の全裸に対する羞恥心や動揺は、とうの昔に彼方へと消え去っていたのだ。
なぜなら彼は、この一年間、隠れ里の狭い風呂で、青羽や波音、ココといった女性たち(人型醜鬼)の全裸を日常的に見せられ続けてきたからだ。
『シンちゃーん、背中流してー!』
『シン兄、一緒に入ろー!』
隠れ里でのあのスパルタ環境により、真護の「女性の裸に対する免疫」は完全に振り切れて麻痺(賢者モード)していたのである。目の前で組長たちが艶やかな肌を晒していようとも、彼の心は水面のように凪いでいた。
京香は、全く動揺していない真護を一瞥し、冷静な組長の顔を取り繕って尋ねた。
「お前こそ、もう帰っていたのか。修行はどうだ」
「まあ、ボチボチだ」
真護は適当に返し、ふと疑問に思ったことを口にした。
「つかさ。ご褒美っつーか、能力の代償だろ? 他にも、そういうシステムで動く能力の人っていんのか?」
いくら魔都の力が理不尽とはいえ、男を奴隷にして、その代償として奉仕を強要するなどという能力がポンポンあってたまるか、という純粋な疑問だった。
京香は、優希の肩にお湯をかけながら、首を横に振った。
「いや、いないな。自身の力だけで完結しない、このような特異な代償を伴うのは、おそらく私の『無窮の鎖』だけだと思うぞ」
その言葉に、真護は「へえ……」と小さく頷き、湯船の縁に頭を乗せて天井を見上げた。
(羽前さんの能力が特別……か。まあ、オレの虚化みたいなヤバい代償に比べりゃ、風呂に入るくらい平和なもんだがな)
湯煙の向こうで、日万凛が「優希、どこ見てんのよ!」と照れ隠しに怒鳴り、優希が「すいません!」と謝っている。
魔防隊という人類の盾の中枢でありながら、どこか気の抜けた七番組寮の日常。
真護は、この平和な光景を守るためにも、絶対にあの『白き狂気』をねじ伏せなければならないと、湯の中で強く拳を握りしめた。