淀んだ魔都の空気が澱む、地下深くの隠れ里。
ココと波音という大切な家族を奪われ、静まり返った居住スペースの片隅で、和倉青羽は一人、膝を抱えて暗闇を見つめていた。
「……どこ行っちゃったんだよ……シンちゃん……」
ポツリとこぼれ落ちた声は、誰に届くこともなく虚空へと消えていった。
怒りと、それ以上に胸を押し潰しそうなほどの不安が、青羽の心を黒く塗り潰していた。
『どこにもいかねえよ』と、あの夜、震える自分を抱きしめて誓ってくれた男が、「ちょっくら出てくる」と言い残したきり、もう数日間も帰ってきていないのだ。
ただの迷子や、道草であるはずがない。彼は誰よりも責任感が強く、今の自分がどれほど不安な状態にあるかを分かっているはずだ。
ならば、考えられる最悪の事態は一つ。
(もしかして……魔防隊に見つかって……あるいは、あの八雷神に……殺されたんじゃ……)
ブルリと、青羽の背筋に悪寒が走る。
ココと波音に続き、シンちゃんまで奪われたら、アタシはどうやって息をしていけばいいのか。
ギリッと奥歯を噛み締め、青羽は膝に顔を埋めた。
ふと、暗闇の中で、ある時見た『夢』の記憶が脳裏に蘇ってきた。
――それは全てが終わり、自分たちが元の『人間』に戻れた世界線の夢だった。
白く変色した肌ではなく、温かく血の通った人間の肌。
青羽は、真護と共に、日差しの差し込むごく普通のマンションの一室で暮らしていた。
朝目覚めれば、隣には彼の広い背中がある。
夜になれば、互いの体温を確かめ合うように、幾度となく深く、甘く身体を重ね合わせた。戦いの傷跡もない、ただ互いを求め合うだけの愛の営み。
やがて二人は結婚し、真っ白なウェディングドレスを着た青羽の隣には、少し照れくさそうにタキシードを着た真護が立っていた。
弟の優希が泣きながら笑って祝福してくれて、天花や京香、ココや波音も、綺麗なドレスを着て花束を投げてくれた。
そして、場面が変わり……青羽の腕の中には、真護の面影を持つ、小さな小さな赤ん坊が抱かれていた。
『よく頑張ったな、青羽』
真護が優しく微笑み、赤ん坊の小さな手を指で握る。
これ以上ないほどの、完璧で、温かな幸せ。
そこで、目が覚めたのだ。
目を開ければ、そこは冷たい岩肌の洞窟で、自分の手は白く変色した異形のそれだった。
夢と現実の落差に、あの時は声を出して泣いてしまった。だが、あの夢の感触だけは、今でも肌に、胸の奥に、しっかりと焼き付いている。
「……やっぱ私……シンちゃんのこと、好きなんだなぁ……」
青羽は、膝に顔を埋めたまま、自嘲気味に、しかし確かな熱を帯びた声で呟いた。
幼馴染の延長でも、戦友としての情でもない。
一人の女性として、彼と共に生きたい。彼の子を産み、彼と生涯を添い遂げたい。あの夢は、青羽の魂の底にある、最も純粋な願いそのものだった。
その切実な想いと、彼を失ったかもしれない絶望に、青羽の目からポロリと涙がこぼれ落ちそうになった、その瞬間。
『にょんっ』
「え?」
青羽が弾かれたように顔を上げると、何もない空間が泥のようにぐにゃりと歪み、そこから一人の女性が、大量の段ボール箱や物資の袋と共に姿を現した。
「お久しぶりです。お義姉さん」
私服姿の六番組組長・出雲天花が、まるで近所に回覧板でも届けに来たかのような、おっとりとした笑顔で立っていた。
「天花……!?」
青羽は驚きで目を丸くし、慌てて立ち上がった。魔防隊の組長が、なぜ自分たちの新しい隠れ里の場所を知っているのか。
「……何しにきたの? 討伐なら、大人しく首を差し出す気はないよ」
青羽が警戒心を露わにすると、天花はパタパタと両手を振って否定した。
「違いますよ。支援です。……私と、ある『協力者』からの」
「協力者? 誰?」
「今は言えません。現世の、とても頼りになる技術屋さんです。ですが、彼がこう言っていました。『連れ去られた二人(ココと波音)を取り戻したら、是非そちらへ伺いたい』と」
浦原喜助の名は伏せつつも、天花は青羽たちに強力なバックアップが存在することを伝えた。
目の前に積まれた物資は、日用品からシャンプー、保存食に至るまで、隠れ里で喉から手が出るほど欲しかったものばかりだ。波音を失い、物資調達の術を絶たれていた青羽たちにとって、これ以上の支援はない。
「……そう。なら、ありがたく受け取っておくわ」
青羽は少しだけ警戒を解き、物資の山を見つめた。
しかし、そんなことよりも、青羽にはどうしても聞かなければならないことがあった。
「それと……真護くんのことですが」
天花がその名を口にした瞬間。
青羽の顔色が、サッと変わった。紅い瞳が大きく見開かれ、天花の肩を掴まんばかりの勢いで詰め寄る。
「知ってるの!? シンちゃんが……シンちゃんが今、どうなったか!?」
必死で、悲痛な声。
天花は、青羽のその取り乱した様子を見て、彼女がいかに真護を深く想っているかを悟り、安心させるように優しく微笑んだ。
「大丈夫です。生きてますよ」
「っ……!!」
「今は、七番組寮で保護されています。山城総組長と遭遇して怪我はしましたが、命に別状はありません。優希くんと一緒にいますから、安心してください」
その言葉を聞いた瞬間。
青羽の全身から、ピンと張り詰めていた糸が切れたように力が抜け、その場にヘナヘナと座り込んでしまった。
「生きてる……よかったぁ……ほんとに……あのバカ、心配かけさせやがって……!」
青羽は、両手で顔を覆い、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
最悪の想像が外れた安堵感。愛する男が、弟と同じ場所で保護されているという事実。
泣きじゃくる青羽の背中を、天花はそっと優しく撫でた。
「物資の支援は、京ちんが総組長になるまでは、私たちが責任を持って続けます。だから、希望を捨てないでくださいね、お義姉さん」
「……うん。……ありがと、天花」
青羽が涙を拭いながら礼を言うと、天花は「それじゃあ、また来ますね」と微笑み、再び空間転移の能力を発動させた。
『にょんっ』
青羽の涙と安堵の残る隠れ里から、天花の姿が完全に消え去る。
空間の狭間。
七番組寮へと戻るための次元のトンネルの中を漂いながら、天花はふと、先ほど号泣していた青羽の顔を思い出していた。
あれは、ただの幼馴染を心配する顔ではない。完全に、一人の男を愛し抜いている女の顔だった。
天花は、自身の口元に人差し指を当て、少しだけ首を傾げて思考を巡らせた。
(えーっと……私が優希くんと結婚するから、優希くんは私の旦那様でしょ?)
(で、
(そして、そのお義姉さんと真護くんが結ばれるってことは……)
天花は、脳内に見えない家系図を描き出し、ポンッと手を打った。
(真護くんは、私の『義兄』になるのかな?)
魔都の理不尽な世界で、数奇な運命によって結ばれようとしている異形の者たちと、魔防隊の組長。
「うん、なんだか大家族みたいで楽しくなってきたかも♪」
天花は、まだ見ぬ未来の奇妙で温かい家族関係を想像し、一人でフフッと上機嫌に微笑みながら、現実の空間へと帰還していくのだった。