魔都の空が、いつもと変わらぬ紫色の薄明かりに包まれている。
浦原喜助と四楓院夜一による、現世の地下道場での『地獄の特訓』が始まってから、早くも5日が経過していた。
黒嶺真護の毎日は、控えめに言って地獄だった。
午前中は夜一の容赦ない白打(格闘術)と歩法のしごきで全身の骨を軋ませ、絶え間なく襲い来る死の恐怖と内なる虚の暴走を必死に押さえ込む。
しかし、そんな殺人的なスケジュールの合間を縫って、彼は和倉優希と共に七番組寮の『管理人』としての家事労働もしっかりとこなしていた。
山ほどの洗濯物を干し、大量のじゃがいもの皮を剥き、温泉の床を磨き上げる。
満身創痍でヘトヘトになりながらも、決して手を抜くことはない。孤児院時代から染み付いた「生活を回す」という責任感と、何よりこの七番組寮という場所が、彼にとって奇妙なほど居心地が良くなっていたからだ。
そして、共に食卓を囲み、日常の他愛のない会話を交わす中で、七番組の隊員たちと真護との距離は、この5日間で劇的に縮まっていた。
特に、真護にありがちな『年下に異様に懐かれる』という特性は、ここ魔防隊の女子寮においても遺憾無く発揮されていた。
ある日の午後。
リビングで休憩していた駿河朱々は、ソファで繰り広げられている光景を見て、目を丸くして感心したような、呆れたような声を漏らした。
「……寧ちゃんがあそこまで懐くとはねぇ」
朱々の視線の先。
疲労でソファに沈み込み、静かな寝息を立ててうたた寝をしている真護の隣には、七番組の最年少・大川村寧がピタリとくっついて座っていた。
寧は、テーブルに広げた学校の算数の宿題を解きながら、時折ペンを置き、眠っている真護の
頬を突いたりしている
寧が満足そうに笑い、真護の寝顔を覗き込む。
真護は時折「ん……」と寝返りを打つが、寧を鬱陶しがる様子は微塵もなく、むしろ彼女が寄りかかりやすいように無意識に体勢を整えてやっていた。
起きている時も、寧が宿題で分からないところがあれば、真護はぶっきらぼうな口調ながらも、図解を交えて非常に分かりやすく教えてやっていた。その教え方の巧みさと、根気強さは、まさに「面倒見の良いお兄ちゃん」そのものである。
キッチンからお茶を運んできた優希が、その光景を見て苦笑交じりに言った。
「真護って、昔から妙に年下の子に懐かれるというか……放っておけないオーラが出てるんだよね」
「彼は孤児院の出身だったな。納得もいく」
優希の隣で書類に目を通していた羽前京香が、静かに同意する。
親の顔を知らず、小さな弟妹たちの面倒を一身に見て育ってきた真護にとって、寧のような小さな子供の世話を焼くことは、呼吸をするのと同じくらい自然なことなのだ。魔都で人型醜鬼という異形に成り果ててなお、その根底にある優しい人間性は決して失われていなかった。
だが、そんな「良きお兄ちゃん」の真護も、ひとたび寮の結界の外に出れば、彼女たちにとっての『最強にして最高の訓練相手』へと変貌する。
「いくわよ! 優希!」
『おう!!』
グラウンドでは、日万凛が『無窮の鎖・旋風(スレイブ・つむじかぜ)』の形態となった優希に跨り、真護を相手に激しい模擬戦を繰り広げていた。
真護は浅打の状態の刀を握り、夜一の特訓で培った歩法と霊力コントロールを駆使して、日万凛たちの波状攻撃を的確に捌いていく。
真護という、組長クラスに匹敵する圧倒的な強者が身近にいることで、日万凛や朱々の戦闘スキルは、この5日間で飛躍的に向上していた。
そして、日万凛たちとの模擬戦が終わった後。
今度は索敵と隠密の連携を高めるため、寧が優希の主となって訓練が行われた。
『無窮の鎖・煌星(スレイブ・きらぼし)』。
姿を消し、真護の死角から奇襲をかける寧と優希のコンビネーション。真護もこれには大いに手こずり、「お前ら、いい連携してんじゃねえか」と息を切らしながら賛辞を送った。
「ふぅ……! お疲れ様でした、優希さん!」
「お疲れ様、寧ちゃん」
訓練が終了し、優希が元の少年の姿に戻る。
そして、避けては通れない『ご褒美』の時間がやってきた。
「えっと……優希さん、少し屈んでください」
寧は、モジモジと顔を赤くしながら、優希の前に立った。
優希が言われた通りに少し膝を曲げて視線を合わせると、寧は背伸びをして、チュッ、と。
優希の頬に、可愛らしいキスを落としたのだ。
「いつもありがとうございます、優希さん……えへへ」
「あ、うん……こちらこそ」
優希も照れくさそうに頬を掻く。
微笑ましい、まるで歳の離れた兄妹のような光景。
――しかし。
その光景を少し離れた場所から見ていた黒嶺真護の表情は、地獄の底から這い出た悪鬼のように凍りついていた。
「…………」
真護の目は、白黒が逆転する虚化の時よりも恐ろしい状態になっていた。
鋭く吊り上がった三白眼。ハイライトが完全に消え失せ、光の宿らない漆黒の瞳。
(…………相手は、11歳の小学生だぞ…………)
真護の心の声が、絶対零度の冷たさを帯びて響く。
真護は、何も言わずに無言で優希からススス……と距離を取り、「警察(魔防隊)に通報すべき事案を目撃してしまった」というような顔で、自身の刀の柄をトントンと指で叩き始めた。
その異常なまでの軽蔑の視線に気づいた優希は、背筋に冷や汗をドッと噴出させた。
「ち、違う! やめてッ! 真護、お願いだからそんな目で俺をみないでくれぇ!!」
優希は両手を激しく振って弁明した。
「これは不可抗力なんだよ! 俺の意志じゃない! 能力の強制的な代償なんだってば!! 信じてくれ!!」
「……俺は何も言ってないぜ、和倉クン。ただ、世間一般の倫理観ってやつに思いを馳せていただけだ。……小学生相手に、お前ってやつは……青羽さんが知ったら泣くぞ」
「だから誤解だって言ってるだろぉぉぉ!!」
寮の庭に、優希の悲痛な叫び声がこだまする。
日万凛と朱々は「自業自得ね」「ユッキー、ドンマイ」と容赦なく肩をすくめ、寧だけが「?」と不思議そうに首を傾げていた。
そんな騒動を交えつつも、真護自身の修行は着実に成果を上げていた。
現世の地下道場。
バチィッ!!という甲高い音と共に、真護の黒い刃が、夜一の放った不可視の蹴りを間一髪で弾き返した。
「ほう。今のをガードするか。随分と目が慣れてきたようじゃの」
「ハァ……ハァ……! アンタの動きが、人間やめてるだけだろ……!」
真護の全身からは、5日前のように黒い霊力が無駄にダダ漏れになることはなくなっていた。
極限の集中力で自身の霊力を体内に留め、必要な瞬間にだけ爆発させる。この『霊力のコントロール』が身についたことで、スタミナの消費は激減し、何より内なる虚(本能)の暴走を抑え込む「心の防壁」が分厚くなっていた。
「いい傾向っスねぇ」
少し離れた岩の上から、浦原が扇子を叩いて評価する。
「霊力操作の基礎はクリアッス。……ただ、一つだけ誤算がありましたね」
「なんじゃ、喜助」
「黒嶺サン……『鬼道』のセンスは絶望的にゼロみたいっス」
浦原は、やれやれと肩をすくめた。
昨日、浦原は真護の戦術の幅を広げるため、自身の霊力を呪文と共に放つ『鬼道』(破道や縛道)を教えようと試みたのだ。
『君臨者よ! 血肉の仮面・万象・羽ばたき・ヒトの冠を戴くものよ! 真理と節制、罪知らぬ夢の壁に僅かに爪を立てよ!』
浦原の教え通り、真護が真剣な顔で破道の三十一『赤火砲』の詠唱を行った結果――。
『破道の三十一! 赤火砲!!』
ボフゥゥゥッ……。
真護の手のひらから放たれたのは、業火の玉などではなく、湿気った花火のような情けない煙と、真護自身の顔面を黒焦げにする自爆の小爆発だけであった。
何度やっても、霊力が明後日の方向へ暴走するか、自身の前で自爆するかの二択。
「……おう。悪いかよ。オレは根っからの脳筋なんだよ」
「いえいえ。向き不向きは誰にでもありますから。……というわけで、黒嶺サンの修行カリキュラムから『鬼道』は完全割愛! 引き続き、夜一サンの白打と剣術、そして虚化の制御に全振りで行きましょう!」
浦原の明るい宣告に、真護はホッと息を吐き、再び夜一との死闘へと身を投じていった。
その夜。
七番組寮のベランダで、羽前京香は一人、魔都の冷たい風を浴びながら夜空を見上げていた。
彼女の瞳の奥には、確かな手応えが宿っていた。
黒嶺真護という、本来なら魔防隊と相容れない異形の存在。彼をこの寮に匿うことは、組長としての立場を危うくする諸刃の剣だった。
だが、結果として、彼の存在は七番組の隊員たちに劇的な化学反応をもたらした。
組長クラスの強さを持ちながら、驕ることなく共に家事をこなし、背中を預けて訓練に付き合ってくれる。彼のそのひたむきな姿勢と、仲間を守るという強烈な意志が、日万凛たちにも伝染し、七番組全体の結束と実力を底上げしているのだ。
(確実に……真護が来てから、皆が成長している)
京香は、腰に差した自身の愛刀の柄を、ギュッと強く握りしめた。
(隊員たちだけではない。……私もだ)
明日に迫った、五番組・六番組との合同訓練。
さらに、そこに元二番組組長であり伝説の瞬神・四楓院夜一が特別講師として参戦する。
八雷神、そして山城総組長という規格外の壁を越えるためには、今の自分ではまだ足りない。
「私とて、立ち止まっている暇はない……!」
京香は、夜のグラウンドへと一人降り立つと、己の限界を超えるための苛烈な素振りを開始した。
空気を引き裂く木刀の音が、静寂の魔都に何度も響き渡る。
魔都の暗闇の中、誰もが「誰かを守るため」に己の牙を研ぎ澄ましていた。
それぞれの想いと覚悟が交差する中、魔防隊の次代を担う少女たちと、黒き死神による、かつてない規模の合同訓練の朝が、静かに幕を開けようとしていた。