十番組寮の美しい日本庭園から遥か遠く離れた、魔都の荒涼とした岩場。
山城恋の底知れない狂気と圧倒的な力の前に、自我を失い暴走した『殺牙』――和倉優希は、手も足も出ずに完膚なきまでに叩き潰された。
能力が限界を迎え、強制解除された優希は、元の少年の姿に戻り、全身の骨が軋むほどの激痛の中で地面に倒れ伏していた。
その無防備な腹の上に、下着姿の山城恋が優雅に腰を下ろしている。
だが、その直後。
絶対者たる彼女の身体が、己の意志とは無関係に、ピクリと不自然な動きを見せた。
「……っ!?」
恋の瞳が見開かれる。
主である彼女の右手が、自らの意志を無視してゆっくりと持ち上がり、倒れている優希の顔へと伸びた。
そして、あろうことか。魔防隊の頂点に君臨する彼女の顔が、無防備な少年の顔へと近づき――ペロッ、と。
仔犬がご主人様に甘えるように、優希の頬を優しく舐め上げたのだ。
「な……!?」
優希は、痛みも忘れて目を丸くした。
恋の身体はそれだけでは止まらない。今度は優希の広い胸板に顔を擦り寄せ、まるで「撫でて欲しい」と訴えかける大型犬のように、頭をグリグリと押し付け始めたのである。
(なんで……私がモフられる側に!?)
恋の頭の中で、完璧な計算式が音を立てて崩れ去っていく。
『無窮の鎖』のご褒美システム。それは、奴隷の潜在的な欲求に合わせて主の身体を強制的に動かすものだ。
夜雲の時は「触らせる(揉ませる)」ことだった。ならば、優希の深層心理にある欲求とは何か。
それは決して、己が奉仕されることではない。妹のような寧や、動物たちに向けられるような純粋な庇護欲――つまり、**「自分から可愛がって、モフりたい」**という、健全極まりない願望だったのだ。
だからこそ、主である恋の身体は、彼に「撫でさせる」ために、完璧な犬の真似事をして甘えているのである。
(モ……モフる。俺がモフるのか? この、さっきまで俺を殺しかけた総組長を……!?)
優希は、極限の混乱の中で、恐る恐る震える両手を持ち上げた。
ご褒美の強制力は、彼の手にも「撫でろ」と働きかけている。
優希は、恐る恐る恋のサラサラの黒髪に触れ、まるで本当の犬をモフるかのように、優しく頭を撫で始めた。
「んっ……」
恋の口から、微かな甘い吐息が漏れる。
優希は、さらに彼女の柔らかい頬を両手で包み込み、グニグニと優しく揉みほぐした。そして、彼女の小さな手のひらを自分の手で包み込んでマッサージし、頭から背中にかけて、ゆっくりと、何度も「なでなで」を繰り返した。
地球の答えとまで称賛された、生命の極み。
そんな彼女が今、少年の胸で、されるがままに全身を撫で回されている。
この間、恋の顔は、かつて誰も見たことがないほど、耳の先まで真っ赤に染まり上がっていた。屈辱、混乱、そして自身の身体が抗えない未知の快感に、彼女の完璧なプライドが悲鳴を上げている。
数分後。
ご褒美の規定時間が終了し、フッと魔法が解けたように、恋の身体に自由が戻った。
「身体が動く! 終わった!」
恋は、弾かれたように勢いよく立ち上がろうとした。
しかし、その焦りが仇となった。
彼女が急に身を起こした瞬間、着けていたブラジャーの紐が、優希の指に不運にも引っかかってしまったのだ。
「あっ」
パチンッ、という小さな音と共に、ホックが外れる。
重力に従い、黒い下着がハラリと滑り落ち――山城恋の、豊満で真っ白な胸が、完全に魔都の空の下に露出してしまった。
「…………」
「…………」
優希と恋の間で、永遠にも似た一秒の沈黙が流れた。
その、時だった。
『ピコン』
静寂を切り裂くように、ひどく間の抜けた電子音が、すぐ近くの岩陰から響き渡った。
それは間違いなく、スマートフォンの『録画終了ボタン』を押した時の音だった。
「あっ!? 音なっちゃったっス……やばいやばい……」
岩陰から、目深に帽子を被り、深緑の作務衣を着た男――浦原喜助が、ヒョコッと顔を出した。
手には、しっかりと最新型のスマートフォンが握られている。
「しかし、最後のはお宝っスねえ……。総組長のあんな姿、裏ルートで売ったら、アタシの退職金ぐらい…いや、それ以上にはなりますかねぇ」
「…………っ!!」
恋は、一瞬で顔を沸騰させ、凄まじい速度で落ちた下着と制服を拾い上げると、瞬きする間に身に纏った。
そして、絶対零度の、いや、宇宙の真空にも等しい殺意を纏い、浦原へと詰め寄った。
「消しなさい」
その声には、一切の感情が含まれていなかった。ただ純粋な『死』の宣告。
だが、浦原は全く怯む様子もなく、扇子で口元を隠してニヤニヤと笑った。
「いやっスよぉ。アタシを問答無用で陰陽寮から懲戒解雇にしたの、何処の誰っすか? おかげで退職金も一銭も出なかったんスよ。これはその正当な慰謝料ってことで」
「消しなさい。さもなくば……貴方ごと消すわよ、浦原喜助」
恋の周囲の空間が、ミシミシと悲鳴を上げ始める。
その一触即発の状況に、一筋の黒い影が割り込んだ。
『瞬歩』。
夜一の修行で飛躍的に速度を増した黒嶺真護が、音もなく優希の傍へと着地し、倒れている彼に手を貸して立たせたのだ。
「大丈夫か? 随分とやられたな」
真護が、呆れたように、しかし確かな安堵を込めて声をかける。
そもそも、恋が真護をわざわざこの合同訓練の場(十番組寮)へ呼んだのには理由があった。先日左腕を斬り飛ばしたあいつが、ちゃんと生きているか。そして、どれくらい強くなったのかを、その目で直接確かめる為だった。
恋は、真護の今の『瞬歩』のキレを見て、彼が短期間で劇的に実力を伸ばしていることを静かに確信していた。
優希は、真護の肩を借りてふらふらと立ち上がりながら、目の前で総組長を煽り倒している帽子男を見て、引き攣った笑いを浮かべた。
「う、うん。……でも、やっぱり浦原さんって只者じゃないよな。総組長の圧に全然屈してない……」
そんな二人のヒソヒソ話をよそに、恋の怒りは頂点に達していた。
「死になさい」
恋の蹴りが、閃光のように放たれる。
バキィッ!!
浦原の手から弾き飛ばされたスマートフォンが、宙を舞い、恋の追撃によって粉々の塵となって魔都の風に消えた。
「アッ!! アタシのスマホ!! ローンまだ残ってんのに!!」
頭を抱えて悲鳴を上げる浦原。
恋は、冷酷な瞳で彼を見下ろした。
「次は、あんたがこうなるのよ」
恋の足元に、途方もないエネルギーが圧縮される。先ほど優希の『殺牙』形態を打ち破った、あの一撃必殺の蹴りだ。
それが、寸分の狂いもなく浦原の胴体へと叩き込まれた。
ドギュゥゥゥゥンッ!!!
凄まじい爆発と共に、浦原の身体は上半身から消し飛び、残った下半身も衝撃でバラバラに粉砕された……かに見えた。
「あーあ。スマホが……お宝映像が……。まだクラウドに上げてなかったんスよぉ……」
「……!」
恋が背後を振り返ると、そこには無傷で頭を掻いている浦原喜助の姿があった。
恋の蹴りで粉砕されたはずの浦原の身体は、よく見ると、ピンク色のチューインガムのような物質が破裂して飛び散った残骸に過ぎなかった。
霊子をチューインガムのように膨らませて作った、精巧な偽物(身代わり)。それが破壊されたのだ。(ただし、手に持っていたスマホだけは本物で粉々にされている)。
いくら恋の力が絶対的であろうと、この得体の知れない技術屋を完全に殺し切るには、少々骨が折れそうだった。
恋は小さく舌打ちをすると、浦原を殺すのを一旦諦め、真護の方へと振り返った。
そして、彼が確実に強くなっていることを評価しつつ、顎で浦原を指し示した。
「黒嶺真護。……ちゃんと、この男を躾ときなさい」
「は!?」
突然の理不尽な命令に、真護は素っ頓狂な声を上げた。
「オレかよ! 多分だけど、無理だぞ……。その人を根っこから矯正すんのは……」
「口答えは許さないわ」
恋が冷たく言い放った、まさにその時だった。
「優希!!」
遠くから、血相を変えた羽前京香が、土煙を上げて駆けつけてきた。
優希が暴走して飛び去ってから、必死にその後を追跡してきたのだ。彼女は刀を抜き放ち、どんな惨状が広がっているかと覚悟を決めて現場へと飛び込んだ。
しかし。
そこに広がっていたのは、京香の想像を遥かに絶する、あまりにもシュールな光景だった。
「……これは……どんな状況だ……?」
京香は、刀を構えたまま呆然と立ち尽くした。
そこには、全身ボロボロになっている優希。
何故か、地面に上半身だけをスッポリと埋められ(先ほど恋が鬱憤晴らしに地面に蹴り込んだのだ)、下駄の足だけをバタバタさせている浦原。
そして、その埋まっている浦原を、ひどく呆れた顔でしゃがんで覗き込んでいる真護。
カオス極まりない光景の中で、恋は乱れた髪をスッと掻き上げ、何事もなかったかのように威厳を取り繕って京香を見据えた。
「京香。私の形態は……奴隷の疲労が激しすぎるわ。もっと彼を鍛えなさい」
「……は、はい。加えて、あの自我を失う暴走具合……実戦で使うには、あまりにも危険です」
京香が組長としての正論を進言するが、恋はフッと余裕の笑みを浮かべ、優希を見下ろした。
「そっちは心配ないわ。……私が、きっちり躾けていくから」
その言葉には、優希という強靭な「おもちゃ」に対する、歪な執着が込められていた。
恋は、ヒラリと身を翻すと、そのまま虚空を蹴り、ソニックブームを轟かせて魔防隊本部へと飛び去っていった。
嵐が去り、静寂が戻った魔都の岩場。
「……それにしても、そこに埋まっているのは……浦原か?」
京香が、地面から突き出ている緑色の作務衣の裾と下駄を見て、疲れた声で尋ねた。
「ああ。引き抜くぞ、浦原さん」
真護が、浦原の両足を掴み、大根でも抜くように力を込める。
ボゴッ!という間抜けな音と共に、顔中泥だらけになった浦原が地面からスポンと抜け出た。
「いやぁ……相変わらず、手厳しいお方っスねぇ……」
浦原は、ペッペッと口に入った泥を吐き出しながら、どこまでも飄々と笑っていた。
一方、その頃。
優希たちの視界から完全に消え去り、十番組寮の上空、遥か高い雲の上まで飛び去った山城恋は。
「うーーーーーっ!!」
誰の目もない空の上で、彼女は手足をバタバタと振り回し、激しく暴れ回っていた。
絶対者の威厳など見る影もない。その顔は、耳の先から首筋に至るまで、茹でダコのように真っ赤に染まり上がっている。
「思い出すだけで……っ! 私の胸が……あんな……!!」
下着姿で少年に胸をすり寄せ、犬のように頭を撫でられ、あまつさえブラが外れて胸を丸出しにしてしまった、あの極限の羞恥。
地球の答えとまで称賛された彼女のプライドが、音を立てて崩壊していく。
「和倉優希……!!」
恋は、空に向かってその名を叫んだ。
それは、彼を意のままにできなかった悔しさ半分、そして、今まで感じたことのない強烈な「恥ずかしさ」が半分の、彼女自身にも理解しきれない、初めての感情の爆発だった。