魔都の死神   作:アレクサンドル三世

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第39話 乱れる心と、ただ一つの帰る場所

魔都の空が、いつもと変わらぬ淀んだ紫色に白み始めた早朝。

七番組寮の広大な庭で、羽前京香は一人、冷たい土の上に結跏趺坐(けっかふざ)を組み、静かに目を閉じていた。

精神統一。

日々の鍛錬の前に己の魂の波長を整え、研ぎ澄ますための、彼女にとって欠かすことのできない重要なルーティンである。冥加りうの道場で剣を握り始めた幼い頃から、そして兄弟子である海燕から「心」の在り方を教わってから、一日たりとも欠かしたことはない。

しかし――。

今朝の京香の心は、自分でも信じられないほどに、激しく波立ち、乱れていた。

 

(……雑念が、消えん)

 

京香は、ゆっくりと息を吐き出しながら、眉間に微かに皺を寄せた。

原因は明確だった。昨日行われた、五番組、六番組、そして十番組(山城恋)との合同訓練。より正確に言えば、自身の能力である無窮の鎖を、他番組の組長である蝦夷夜雲、そして総組長たる山城恋に「貸し出し」たことによる、精神的な強烈な疲労と後遺症である。

本来、『無窮の鎖』は京香自身の魂を起点として、奴隷である和倉優希の生命力や潜在能力を引き出すものだ。二人の間に構築された「見えない鎖」のパスは、強固な信頼関係の上に成り立っている。

だが、そのパスの主導権を他者に委ねるということは、京香という「中継地点(サーバー)」を通じて、他者の異質な精神波が優希へと流れ込むことを意味する。

夜雲に貸し出した時は、まだマシだった。

彼女の奔放で、嵐のように軽やかな、それでいて底抜けに明るい精神性がパスを通じて伝わってきた。優希が空を飛ぶ歓喜や、その後の……ご褒美による強制的なスキンシップの動揺までが、微かなノイズとして京香の精神を掠めた程度だ。

問題は、山城恋だった。

 

(……あの底知れない、圧倒的な『虚無』……)

 

京香の背筋に、冷たい汗が伝う。

恋が優希の背に乗り、鎖に触れた瞬間。京香の魂のネットワークに流れ込んできたのは、全てを飲み込み、押し潰し、一切の光を許さないブラックホールのような絶対的な支配の力だった。

優希の自我を完全に塗り潰し、殺戮本能のみを極限まで肥大化させた『殺牙(ころしきば)』の形態。あの時、パスを繋いでいた京香自身も、危うくその底知れない狂気と闇の奔流に精神を呑み込まれそうになっていたのだ。

寧や朱々、日万凛といった七番組の身内に貸し出した時とは、次元が違う。

彼女たちに貸し出した際の疲労が「全力疾走した後の息切れ」だとするならば、山城恋への貸出は「深海一万メートルの水圧を生身で受けた後のような、魂そのものの圧壊」に近かった。

 

「……ふぅっ」

 

京香が深く、重い息を吐き出して目を開けた、その時だった。

 

『ギャアァァァァッ!!』

 

庭の隅、結界の境界線付近の地面がボコッと盛り上がり、一体の野生の醜鬼が這い出してきた。魔都の瘴気が濃い時間帯、結界の僅かな揺らぎを突いて現れた下級の個体だ。

醜鬼は、座り込んでいる京香を獲物と認識し、鋭い爪を振り上げて飛びかかってきた。

しかし、京香は立ち上がることすら、そして腰の刀を抜くことすらしなかった。

 

「シッ!」

 

鋭い呼気と共に、京香は座った姿勢のまま、飛びかかってきた醜鬼の眉間へ向けて、神速の右掌底を叩き込んだ。

ゴガァァァァッ!!!

打撃の衝撃波が醜鬼の頭蓋を貫通し、その背後の空間ごと吹き飛ばす。

悲鳴を上げる間もなく、醜鬼の巨体は一瞬にして粉々に砕け散り、黒い塵となって魔都の風に消えていった。

完全なる、素手による一撃必殺。

瞬神・四楓院夜一のしごきによって、京香の白打(格闘術)の冴えもまた、一段階上の次元へと引き上げられていたのだ。

しかし、自らの拳を見つめる京香の表情に、喜びの色はなかった。

僅かに、本当に僅かだが、拳の軌道が自分の理想よりも数ミリずれていた。普段の彼女であれば、絶対にあり得ない誤差。

 

「……ここまで乱れるか……」

 

京香は、自身の掌をギュッと握り込み、忌々しそうに呟いた。

肉体的な疲労ではない。やはり、総組長とのパスを繋いだことによる精神的な摩耗が、自身の極限の集中力を削いでいるのだ。

 

(私がこれほどなのだ。……直接あの力を流し込まれ、自我を失って暴走させられた挙句、徹底的に痛めつけられた優希の負担は、計り知れない……)

 

優希の身を案じ、京香が眉をひそめていた、その時だった。

 

「随分、お待たせしちゃって」

 

寮の玄関の扉が開き、聞き慣れた、しかしどこか無理をして明るく繕ったような声が聞こえてきた。

振り返ると、そこには和倉優希の姿があった。

彼はいつものジャージ姿で、手には日々の訓練で使っている使い込まれたグローブをしっかりと嵌めている。

 

「優希……」

 

京香がスッと立ち上がり、彼へ向き直る。

優希は「おはようございます!」と元気よく挨拶をしながら小走りで駆け寄ろうとしたが、その足取りは明らかに重く、僅かに引き摺るような不自然さがあった。顔色も、普段の血色の良さはなく、抜けるように青白い。

 

「いいさ、時間は気にするな。よし、今日の訓練を始め──」

 

京香はいつものように厳格な口調で訓練の開始を告げようとしたが、途中でその言葉をピタリと飲み込んだ。

近くで見る優希の姿は、彼女の想像以上に限界を迎えていた。グローブを嵌めた手は微かに震え、呼吸も浅い。何より、彼の瞳の奥には、昨日味わった絶対的な暴力による恐怖と疲労の色が、まだ色濃く焼き付いていたのだ。

 

「……お前、まだ疲れているな」

 

京香が鋭く、しかし静かな声で指摘する。

 

「えっ? い、いや、全然平気ですよ! ぐっすり寝ましたし、今日もガンガン行けます!」

 

優希は慌てて両手を振り、作り笑いを浮かべて自身の胸をドンッと叩いてみせた。

だが。

 

「……ほう。行けるのか」

 

京香は、スッと優希の目の前まで距離を詰めると、人差し指をスッと伸ばし、彼の胸元――さきほど優希が自分で叩いた箇所――を、軽く「ツン」と小突いた。

 

ピキピキピキッ……!!

 

「おおぉ……っっ!!??」

 

その瞬間。優希の全身の筋肉と骨から、悲鳴のような軋む音が鳴り響き、彼はカエルが潰されたような奇声を上げてその場に崩れ落ちそうになった。

限界まで千切れかけていた筋肉の繊維が、たった一本の指の刺激によって一斉に抗議の声を上げたのだ。

 

「痛たたたたた……っ!! 全身の関節が外れる……っ!!」

 

ガクンと膝から崩れ落ちそうになった優希の身体を、京香は素早く踏み込み、その肩を自身の腕でしっかりと支え止めた。

 

「馬鹿者が。強がるな」

 

京香の顔のすぐ横で、優希が荒い息を吐きながら痛みに顔を歪めている。

 

「総組長の形態は、主の力の増幅率に比例して、奴隷の肉体にかかる反動があまりに大きすぎる。おまけに、最後はあの人にボロボロにされるまで直接痛めつけられたんだ。……気骨は買うが、完全に回復するまで寝てろと言ったろ」

 

京香の言葉は厳しかったが、優希を支えるその腕の力加減は、ひどく繊細で優しいものだった。

優希の体重のほとんどを自分が支えながら、京香は深くため息をついた。

 

「すみません……」

 

優希は、京香の肩に顔を預けたまま、消え入りそうな声で謝った。

 

「最近、ドタバタしてたから……八雷神が襲ってきたり、組長会議があったり、真護が来たりして……」

 

「ああ」

 

「だから……早く、また京香さんと、二人でいつもの鍛錬がしたいなって……そう思ったら、じっとしてられなくて……」

 

優希のその言葉を聞いた瞬間。

京香の胸の奥で、カチリと何かが鳴った。

先ほどまで彼女の精神を乱していた、得体の知れない焦燥感や不快なノイズが、まるで嘘のようにスッと霧散していくのを感じた。

 

(……そうか。こいつは、私が他人に貸し出したことを、こいつなりに気にしていたのか)

 

優希は、夜雲に弄られ、恋に尊厳を打ち砕かれた。

それでも彼が一番に戻りたかった場所は、他でもない、京香の隣という『日常』だったのだ。自分が主として、彼を厳しくも正しく導く、あの平穏で確かな鍛錬の時間。

京香の厳しかった表情が、春の雪解けのように、ふっと柔らかく和らいだ。

 

「……いいから、今日はもう休め」

 

京香は、優希の耳元で静かに囁いた。

 

「でも……! 俺が休んでたら、家事とか、みんなのサポートが……」

 

優希がなおも食い下がろうとした、その時だった。

 

「わっ……!?」

 

優希の視界が、ふわりと反転した。

京香が、支えていた優希の膝裏と背中に両腕を回し、いとも軽々と、そして極めて自然な動作で、彼を抱き上げたのだ。

俗に言う、『お姫様抱っこ』である。

 

「きょ、京香さん!? な、何してるんですかっ!?」

 

突然地面から足が離れ、京香の胸の中にすっぽりと収まってしまった優希は、顔を真っ赤にしてジタバタと暴れようとした。しかし、全身の筋肉痛がそれを許さない。

京香は、腕の中の優希を全く重そうにすることもなく、呆れたように彼を見下ろした。

 

「暴れるな。落とすぞ」

 

「いや、でも、男がこんな抱えられ方するなんて……!」

 

「そんなボロボロの身体で鍛錬をしたところで、怪我を増やすだけで非効率の極みだろ。それとも、私の腕の中がそんなに不満か?」

 

京香が少しだけ悪戯っぽく、しかし絶対的な威圧感を込めて目を細めると、優希は「ひぅっ」と喉を鳴らして大人しくなった。

 

「……不満じゃ、ないです……けど……」

 

「なら、おとなしく運ばれていろ。これは第七番組組長としての、絶対の『命令』だ」

 

その凛とした響きに、優希はついに観念し、小さく頷いた。

 

「……はい」

 

優希が大人しく腕の中に収まったのを確認し、京香はそのまま寮の玄関へと歩き出した。

魔防隊の制服越しに伝わってくる、京香の温かい体温と、彼女特有の凛とした桜のような香り。優希は、恥ずかしさで顔から火が出そうになりながらも、その圧倒的な安心感に包まれ、知らず知らずのうちに強張っていた全身の力が抜けていくのを感じていた。

 

「……家事のことも、気にするな」

 

玄関の扉を足で器用に開けながら、京香が優希に告げた。

 

「お前が完全に回復するまでは、すべての雑務を真護に任せておけ。アイツには私からしっかりと言い含めておく」

 

「真護に……。でも、アイツも今、夜一さんの地獄の特訓で毎日ボロボロなのに……」

 

「構わん。アイツは人型醜鬼というタフな身体の持ち主だ。おまけに、あの夜一さんのしごきに耐え抜きながら、昨日も一昨日も夕食を作り上げてみせた。……口は悪いが、アイツは驚くほど生活力があり、器用で頼りになる男だ」

 

京香の言葉に、優希も微かに微笑んだ。

確かに、真護の家事スキルは優希も認めるほど高い。孤児院で培われたサバイバル能力と面倒見の良さは、この魔防隊の寮においても遺憾無く発揮されていた。

 

「それに」

 

京香は、廊下を歩きながら、少しだけ声を潜めた。

 

「アイツの内に潜む『虚(バケモノ)』を押さえ込むためには、単なる戦闘訓練だけではなく、こうして誰かのために日常の『役割』を全うさせることも、精神衛生上、非常に重要だ。……アイツに家事を押し付けることは、アイツ自身を人間として繋ぎ止めるための、一種の訓練でもある」

 

浦原喜助から聞かされた、真護の魂の危うさ。

彼をただの戦闘兵器やバケモノにしないためにも、七番組寮の「管理人」という居場所と責任を与え続けることは、京香なりの彼に対する気遣いでもあった。

 

「……そうですね。アイツなら、きっと文句を言いながらも完璧にこなしてくれますよね」

 

「ああ。だから、お前は今は自分の回復にだけ専念しろ。……私がまた、お前と思い切り鍛錬をするためにもな」

 

「……はいっ!」

 

優希は、腕の中で嬉しそうに、そして安心したように目を閉じた。

七番組寮の静かな廊下。

早朝の冷たい空気の中、二人の間に流れる時間は、魔都のどんな脅威からも切り離されたように温かく、穏やかなものだった。

絶対的な力を持つ総組長や、狂気を孕む八雷神。

それらの脅威がどれほど世界を揺るがそうとも、彼らが帰るべき場所は、ここにある。

京香は、腕の中で微かな寝息を立て始めた優希の顔を見つめ、彼をそっと自身のベッドへと寝かせるため、奥の部屋へと静かに歩みを進めていくのだった。

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