その日の夜。
七番組寮が寝静まり、深い静寂に包まれる頃。黒嶺真護は、約束通り東日万凛を伴って自身の割り当てられた部屋へと向かった。
部屋の奥、何もないはずの壁面には、浦原喜助が構築した空間の歪み――簡易門(クナド)が、紫色の妖しい光を放って口を開けている。
「……行くぞ、日万凛。中は現世の地下だけど、魔都並みに空気が重いからビビるなよ」
「ええ。覚悟はできてるわ」
日万凛は、動きやすい特訓用の軽装に身を包み、ゴクリと固唾を飲んで頷いた。
五日後に迫った、東家の次期当主を決める血塗られた儀式『東の晩餐』。実の母であり、九番組組長である東風舞希から放たれた「母として日万凛を仕留める」という本気の殺意。
あの圧倒的なプレッシャーを跳ね返し、生き残るためには、一分一秒の猶予もない。藁にも縋る思いで、日万凛はこの禁断の修行場への扉を潜った。
空間の歪みを抜けると、そこには岩と土に囲まれた、途方もなく広大な地下空間が広がっていた。
しかし、ただの地下洞窟ではない。岩壁には無数の鋭い斬撃の痕が深く刻まれ、地面のあちこちが爆発で擂鉢状に抉り取られている。真護がここで、どれほど常軌を逸した死闘(特訓)を繰り広げてきたのかが、その無惨な地形から痛いほどに伝わってきた。
「ここが……修行場……」
日万凛が、その凄まじい熱気と残留する霊圧に息を呑んで呟く。
「おや? お客さんみたいっスね」
奥の岩場に腰掛け、扇子でパタパタと顔を扇いでいた浦原喜助が、二人の気配に気づいて飄々とした声を上げた。
その横で、ストレッチをするように首をコキリと鳴らしていた褐色の女性――四楓院夜一が、ゆっくりとこちらへ振り返る。
「ん? お主は……日万凛、だったかの?」
金色の鋭い瞳が、日万凛を真っ直ぐに射抜く。
かつての二番組組長であり、東家と双璧を成した名門『四楓院家』の現当主。そして、魔防隊の歴史にその名を刻む伝説の瞬神。
日万凛は、全身の毛穴がキュッと引き締まるのを感じながら、姿勢を正して深く、深く頭を下げた。
「は、はい!! 東日万凛です!! 夜一さん、どうか私を……私を鍛えてください!! よろしくお願いします!!」
悲痛なまでの決意を込めた、地の底から絞り出すような懇願。
五日後に自分を殺しにくる母と、天才である姉を越えるために。日万凛はプライドも何もかもを捨てて、伝説の武人に教えを乞うた。
しかし。
日万凛の真っ直ぐな瞳を受け止めた夜一は、少しだけ困ったように眉を掻き、ふぅと深い溜息を吐いた。
「……これから五日間、血反吐を吐くような厳しい修行を……といいたいところなんじゃがの」
「え……?」
日万凛が、予想外の反応に顔を上げる。
夜一は、腕を組んで静かに首を横に振った。
「すまんが……東の晩餐の関係での。うち(四楓院家)も色々とやる事が出てきてしまっての。残念じゃが、お主につきっきりで稽古をつけてやる時間がなくての」
「そんな……!」
日万凛の顔から、サッと血の気が引いた。
だが、横で聞いていた真護が、ポンと手を打って納得したように口を挟んだ。
「あ……。そういえば、夜一さんって『四楓院家』の当主だったんだよな。普段があんまりにも自由奔放だから、すっかり忘れてたぜ」
真護の言葉通りである。
『東の晩餐』は、単なる東家の内輪揉めではない。魔防隊の主要ポストを牛耳り、警察や官僚組織にも絶大な影響力を持つトップ・東家の次期当主が変わるということは、この国の軍事・政治のパワーバランスが根底から覆るという異常事態なのだ。
当然、同じく名門として政財界に太いパイプを持つ四楓院家としても、対岸の火事では済まされない。東家が揺れれば、それに乗じて様々な勢力が蠢き始める。当主である夜一が、呑気に現世の地下で特訓をしている場合ではなくなってしまったのだ。
「そんな……それじゃあ、アタシはどうすれば……!」
頼みの綱を絶たれ、絶望に顔を歪める日万凛。
その震える肩を見て、夜一はスッと目を細め、一歩だけ日万凛へと歩み寄った。
「お主……自分の力を、『人』に向けたことはあるか?」
静かで、ひどく冷たい問いかけ。
日万凛は、ハッとして息を呑んだ。
「人に……?」
「そうじゃ。組長たちとの訓練や、身内でのスパーリングの話ではないぞ。……相手の肉を裂き、骨を砕き、命を奪うという明確な『殺意』を持って、己の能力を人間に向けて撃ち放った経験があるか、と聞いておるのじゃ」
日万凛の脳裏に、五日後の『東の晩餐』の光景がよぎる。
東の晩餐は、いわば一族の精鋭たちによるバトルロワイヤルだ。殺し合いとまではいかないまでも、相手は本気で自分を『倒しに(あるいは再起不能にしに)』来る。手加減など一切ない、血を洗う権力闘争。
母である風舞希の、「仕留める」という冷酷な瞳。
優秀な姉、八千穂の圧倒的な時間操作の力。
それらを相手に、自分は『本気で』銃火器のトリガーを引けるのか?
「……ない、です……」
日万凛は、震える声で正直に答えた。
魔防隊に入隊して以来、彼女が照準を合わせ、引き金を引いてきた相手は、常に『醜鬼』という人間の形をしていないバケモノだけだった。
人間を、それも血を分けた実の家族を撃ち抜き、その身体を破壊する感触など、日万凛は全く知らなかった。
「ないようじゃの」
夜一は、日万凛の怯えを見透かしたように、静かに頷いた。
「良いか? お主だけではない。魔防隊の連中は皆、麻痺しておる。……『桃』を食べた女は、いとも簡単に人を殺められる力を得た。お主がその手で呼び出す銃火器も、本来は醜鬼の硬い皮膚を撃ち抜くための規格外の破壊力を持っておる。それを生身の人間に向ければどうなるか……想像に難くないじゃろう」
夜一の言葉が、重く、重く日万凛の心にのしかかる。
「東の晩餐で、お主が直面するのは『人との殺し合い』に等しい極限状態じゃ。相手が本気で殺しに来るのなら、お主も本気で殺す気で力を振るわねば、一瞬で呑み込まれて死ぬ。……じゃが、恐れを知らぬ力は、必ず己を破滅させる」
夜一は、日万凛の目の前でピタリと足を止め、その肩にガシッと手を置いた。
「自分の力を、畏れよ。日万凛」
「自分の力を……畏れる……?」
「そうじゃ。自分がどれほど恐ろしい暴力を持っているか。一歩間違えれば、相手の命をいとも容易く奪い去ってしまう理不尽な力であることを、誰よりもお主自身が理解し、恐怖しろ。……己の力を『正しく畏れ』、その上で、決して呑まれずに使いこなせ。それができぬ者に、東という魔境を生き抜く資格はない」
夜一の言葉は、物理的な特訓や技術の指導などではなかった。
人間を破壊する力を持ってしまった者としての、絶対的な『覚悟』と『死生観』の指導だったのだ。
「五日間で、お主の身体能力や能力を劇的に引き上げる魔法など存在せん。じゃが、心の在り方一つで、お主の放つ弾丸の『重さ』はまるで変わる。……今日から五日間、お主は自分の心と、自分の力という暴力性に、徹底的に向き合え」
夜一の手から、力強い熱が日万凛の肩へと伝わってくる。
日万凛は、夜一の金色の瞳の奥にある、数多の死線を越えてきた者だけが持つ深い悲哀と優しさを感じ取り、強く、強く頷いた。
「……はい! 夜一さん……ありがとうございます!!」
日万凛の瞳から、先ほどまでの迷いと絶望が消え去っていた。
母に殺される恐怖でも、姉に対する劣等感でもない。ただ純粋に、己の力と責任に向き合うための、静かな闘志の炎が灯っていた。
その様子を黙って見守っていた真護は、ふと自身の浅打の刀を肩に担ぎ直し、夜一に尋ねた。
「……ってことは、夜一さんが忙しくなるなら、オレもしばらくは修行は無しってことか?」
「ああ。そういうことじゃ」
夜一は、日万凛から手を離し、真護の方へ向き直った。
「お主は、これまでの特訓で十分に霊力のコントロールと歩法の基礎を叩き込んだ。これ以上の詰め込みは、逆に内なる『虚(バケモノ)』を刺激して暴走の危険を高めるだけじゃ」
夜一は、真護の胸元――魂の中心を指差した。
「東の晩餐が終わるまでは、お主もしっかり身体を休めておけ。……休息もまた、重要な修行の一つじゃ。次にワシと手合わせする時までに、教えたことを魂の奥底まで定着させておくのじゃな」
「……おう。分かったよ」
真護は、少しだけ物足りなそうな顔をしながらも、夜一の指示に素直に従った。
日万凛が文字通り命を懸けた家族の闘争に挑もうとしているこの五日間は、七番組寮の家事やサポートに専念するのも悪くないと思ったのだ。
「それじゃあ、アタシたちはこれで失礼するッス」
岩場から降りてきた浦原が、帽子を押さえながら日万凛と真護に声をかけた。
「東の晩餐……アタシたち外部の人間は手出しできない神聖な儀式ッスけど、陰ながら応援してますよ、日万凛サン」
「はい。浦原さんも、夜一さんも……本当にありがとうございました」
日万凛が再び深く頭を下げると、浦原と夜一は簡易門(クナド)を通じて、どこか別の空間(現世の四楓院家か、陰陽寮の裏ルート)へと姿を消していった。
静まり返った地下修行場。
残された日万凛と真護は、無言のまま、寮へと繋がる門を見つめていた。
「……行くか、日万凛」
「ええ。戻りましょう」
真護が先に門をくぐり、日万凛がそれに続く。
七番組寮へと戻る短い空間のトンネルの中で、日万凛は自身の両手を見つめた。
この手から放たれる、魔都の恩恵である能力。
醜鬼の肉を容易く弾け飛ばすその破壊力が、もし、母・風舞希の美しい身体を、あるいは姉・八千穂の身体を撃ち抜いたら。
(……怖い)
日万凛の全身が、微かに震える。
だが、それは恐怖に呑まれた震えではない。夜一の教え通り、己の力を『正しく畏れ』始めた証拠だった。
畏れるからこそ、覚悟が決まる。畏れるからこそ、決して慢心せず、最善の引き金を引くことができる。
「……真護」
「ん?」
「アタシ……絶対に、勝つから」
日万凛の呟きに、真護は振り返ることなく、前を歩いたまま短く答えた。
「ああ。知ってるよ。……お前は、羽前さんが認めた七番組の副組長なんだからな。負けるわけがねえ」
その不器用で、しかし確かな信頼のこもった真護の言葉に、日万凛の強張っていた心が少しだけふわりと軽くなった。
魔都の夜は深く、そして静かに更けていく。
運命の『東の晩餐』まで、あと五日。
己の力と心の在り方に向き合う少女の、最も過酷で、最も静かな戦いが始まろうとしていた。