東日万凛にとって、魔都とは「証明」の場所だった。
名家・東家の娘として生まれながら、その才能を認められず、家を飛び出したあの日。
彼女を拾い、その才覚を見出してくれたのは七番組組長・羽前京香だった。
魔防隊という実力主義の世界で、日万凛は血の滲むような努力を重ねてきた。桃の能力をコピーし、学習し、自身の技として昇華させる『
すべては、東家の人間を見返すため。
そして、自分を認めてくれた京香の期待に応えるため。
この世界において、「強さ」とは女性の特権だった。
男は守られるべき弱者であり、魔都の脅威に対抗できるのは桃を食べた女だけ。それが絶対的な真理であり、疑う余地のない常識だった。
だが。
(……なんなの、こいつは)
日万凛の額を、一筋の冷や汗が伝う。
目の前に立つ男――黒嶺真護。
ボロボロの着物を纏い、息を切らせているにもかかわらず、その瞳からは戦意が消えていない。それどころか、底知れないプレッシャーが滲み出ている。
八千穂の時間操作、朱々の巨大化攻撃、サハラの強化突撃。これだけの猛攻を受け、何度も致命傷に近いダメージを負いながら、彼は倒れない。
常識が、音を立てて崩れていく。
男が強いはずがない。男が能力を使うはずがない。
その「枠」に当てはめて考えていた自分が、愚かだったと認めざるを得ない。
日万凛は、震えそうになる右手を強く握りしめた。
カシャッ、ウィィン……。
『青雲の志』により、右腕がガトリングガンの形状へと変形する。冷たい金属の感触が、彼女の理性を繋ぎ止める。
「八千穂」
日万凛は、視線を敵から外さずに隣にいる姉の名を呼んだ。
かつては反発し、憎んでいた姉。だが今は、背中を預けられる数少ない戦友だ。
「なんじゃ?」
東八千穂もまた、その表情から余裕を消していた。
『
「この人は今までの常識は通用しない。今ハッキリとわかった」
「……ふん。そのようじゃの。私様も驚いたわ。魔都には未知の化け物がいるとは聞いていたが、まさか男の姿をしているとはな」
八千穂が銃を構え直す。
その後ろで、巨大化を解いた駿河朱々が、忌々しそうに髪をかき上げた。
「あーもう! なんなのよコイツ! しぶといし、強いし……」
「ほんとにねぇ」
若狭サハラが同意する。
だが、朱々はそこでふと、敵の顔をまじまじと見つめた。
「んで無駄にイケメンだし。腹立つわー。顔だけならユッキーより上じゃない?」
「朱々、今そんなこと言ってる場合!?」
日万凛が鋭く突っ込むが、その軽口が少しだけ場の空気を緩めた。
そうだ。相手が何者であろうと関係ない。
自分たちは魔防隊。魔都を守り、人を守る盾であり矛だ。
真護は、彼女たちの会話が終わるのを静かに待っていた。
浅打の刀身をだらりと下げ、しかしその切っ先は、確実に日万凛の急所を捉えている。
「話は終わりか? んじゃ、こっちから行くぞ」
その声は低く、重く、戦場に響いた。
空気が変わる。
物理的な風ではない。もっと重苦しい、濃密な霊子の圧力が、真護を中心にとぐろを巻き始めた。
「……来るわよ! 最大警戒!!」
日万凛が叫ぶ。
八千穂が時間を止める構えを取る。
朱々が再び巨大化の予備動作に入る。
サハラが闘争本能を全開にする。
だが、遅かった。
真護の行動は、彼女たちの予測の「外」にあった。
真護は、右手の刀を前に真っ直ぐに構えた。
そして、左手を右腕に添える。
ドクン。
日万凛の心臓が、早鐘を打つ。
本能が警鐘を鳴らしている。
『見てはいけない』『逃げなければならない』
生物としての根源的な恐怖。
真護の唇が動く。
「卍(ばん)!」
轟ッ!!
爆発的な霊圧が解放された。
地面が陥没し、瓦礫が舞い上がる。
視界が黒く染まるほどのエネルギーの奔流。それは魔都の瘴気とは違う、純粋で鋭利な「力」の塊だった。
「なっ……!?」
「なにこれ……重い……!」
朱々とサハラが、その圧力に耐えきれずに後退る。
日万凛でさえ、ガトリングを構える腕が鉛のように重く感じられた。
八千穂が歯を食いしばる。
「くっ……時間を……!」
八千穂が能力を発動させようとした、その瞬間。
「解(かい)!」
真護の声が、世界を切り裂いた。
ドォォォォォォォン!!
黒い土煙が、竜巻のように巻き上がる。
その中心に、闇よりも深い黒があった。
日万凛たちは、動けなかった。あまりの異質な光景に、目を奪われてしまったのだ。
やがて、風が止む。
土煙が晴れ、その姿が露わになる。
そこにいたのは、先ほどまでのボロボロの男ではなかった。
纏っているのは、漆黒のロングコートのような装束。ボロボロだった着物は、洗練された戦闘服へと姿を変えている。裾がノコギリの刃のようにギザギザと波打ち、風もないのに揺らめいている。
そして、その手に握られているのは、浅打ではない。
鍔が「卍」の形をした、全てが漆黒の日本刀。
柄尻からは黒い鎖が伸びている
「天鎖斬月」
真護がその名を告げる。
その瞬間、世界から音が消えた。
速い、などという次元ではなかった。
日万凛の動体視力も、八千穂の時間操作の思考速度も、すべてを置き去りにする「刹那」。
気づいた時には、目の前に黒い刃があった。
「――ッ!?」
日万凛の瞳孔が限界まで開く。
喉元、わずか数ミリ。
漆黒の切っ先が、彼女の皮膚に触れるか触れないかの距離でピタリと止まっていた。
一歩でも動けば斬られる。
息を吸うだけで喉が裂けるかもしれない。
そんな極限の死の恐怖が、日万凛の全身を支配した。
いや、日万凛だけではない。
背後にいる八千穂、朱々、サハラ。彼女たちの首元にも、目には見えない「死の線」が引かれたような感覚があった。
この男は、その気になれば一瞬で四人全員の首を刎ねることができたのだ。
それをしなかったのは、単なる慈悲か、それとも――。
真護は、刃を引くこともなく、静かに日万凛を見下ろしていた。
その瞳は冷徹だが、決して残虐ではない。深い知性と、何かを探るような光が宿っている。
「お前ら」
真護が口を開く。
その声は、卍解前よりも静かで、だからこそ恐ろしかった。
「一体何しにここへ来た?」
問いかけ。
ただそれだけの言葉が、重い鉄槌のように日万凛の心に響く。
殺しに来たのではないのか?
魔防隊を殲滅しに来たのではないのか?
いや、この男の目的は「排除」ではない。「守護」だ。
洞窟の奥にいる何かを、あるいは誰かを守るために、ここに立っている。
日万凛は、喉の奥が張り付くような渇きを覚えた。
恐怖で声が出ない。
だが、言わなければならない。
自分たちがここに来た理由。
命を懸けてでも成し遂げなければならない使命。
東家の娘として、いや、七番組の副組長として、ここで言葉を飲み込むわけにはいかない。
震える唇を、噛み締めて無理やり開く。
「優希を……」
掠れた声。
だが、日万凛は顔を上げ、真護の瞳を真っ直ぐに見据えた。
この黒き死神の圧力に屈することなく、その意志を言葉に乗せる。
「優希を……助けに来た……!」
その言葉が落ちた瞬間、真護の眉がピクリと動いた。
殺気が、ほんの僅かに揺らぐ。
「……優希を?」
真護が低く聞き返す。
黒い刀身に映る日万凛の顔は、恐怖に歪んでいたが、その瞳だけは決して折れてはいなかった。
それは、大切な仲間を想う、揺るぎない覚悟の光だった。