洞窟内の空気は、奇妙なほどに弛緩していた。
先ほどまでの殺し合いが嘘のように、魔防隊と人型醜鬼たちの間には、どこか呆れたような空気が漂っている。
離れた場所で頭を抱えている黒い着物の男――黒嶺真護へと視線を移す。
「男の人型醜鬼……そうか、この男がお前の言っていた友人か」
「そうです! 黒嶺真護! 俺の幼馴染です!」
優希は縛られたまま、必死に頷いた。
京香は鋭い眼光で真護を観察する。ボロボロの衣服、しかしその奥に秘められた尋常ではない膂力と霊的エネルギー。
日万凛や八千穂といったエリート隊員たちと四対一で対峙し、生き延びているだけでなく、無傷でこの奥深くまで同行してきたのだ。
(本当に何があるかわからないとは思っていたが……男の人型醜鬼とは。それに、日万凛達と一緒にここへ来たということは、皆を言葉で説得したか、あるいは……力で抑え込んだか)
京香の戦術眼が、真護の「底知れなさ」を正確に測り取っていた。
しかし、当の「底知れない男」は今、まったく別のベクトルで凄まじいエネルギーを消費していた。
「アンタ何考えてんだよ! 優希拉致ってくるなんざよ! 魔防隊と全面戦争する気か!?」
真護は顔を真っ赤にして、和倉青羽に説教をかましていた。
さきほどまでの死神のような冷徹さは微塵もなく、完全に「度を越したイタズラをした姉を叱る弟」の図である。
「別にいいじゃない。シンちゃんも優希と会えて嬉しいでしょ? 結果オーライってやつだよ!」
「オーライじゃねえよ! 一歩間違えたら全員生き埋めだぞ!」
悪びれる様子のない青羽に対し、真護はクソデカ溜息を吐きながら天を仰ぐ。
そのやり取りを少し離れた場所から見ていた優希は、思わず遠い目をした。
(あぁ……苦労してたんだな、真護……)
昔から、青羽は豪快で型破りな性格だった。その度に割を食うのは、面倒見の良い真護だったのだ。
魔都という地獄に落ち、異形の姿に成り果ててもなお、真護は「青羽に振り回される苦労人」のポジションから抜け出せていないらしい。優希は親友の不憫さに、ほんの少しだけ涙した。
だが、この弛緩した空気を、京香が凛とした声で引き締める。
「……そこまでだ」
組長の威厳を纏った声に、真護も青羽も口を閉ざす。
京香は倒れた天花を背に庇いながら、青羽に向かって真っ直ぐに告げた。
「お前たちが優希の家族や友人であることは理解した。……今退くなら、見逃してやる」
それは、魔防隊の組長としては破格の譲歩だった。
本来なら醜鬼は問答無用で殲滅対象である。だが、天花の意思、優希の存在、そしてこれ以上の戦力消耗を避けるための、京香なりの冷徹かつ合理的な判断だった。
しかし、青羽は不敵な笑みを崩さない。
「アタシらが暴れるのは変わらないわよ」
「……仲間も消耗している。もう一人は戦闘の意思なし。投降するか?」
京香の視線が、満身創痍で『熊童子』に寄りかかる波音とココ、そして戦う気配のない真護に向けられる。
戦力差は明白だった。
日万凛、八千穂、朱々、サハラも再び武器を構え、青羽たちを包囲する形をとる。
圧倒的な不利。それでも青羽は、鼻で笑って言い放った。
「冗談」
ピリッ。
再び、洞窟内に極限の緊張感が走る。
真護が「おい、青羽さん!」と止めに入ろうとした、その刹那だった。
『──やぁ、降臨だよ』
声が、した。
いや、「声」という物理的な音波を超えた、脳髄に直接響くような、甘ったるくも禍々しい響き。
その瞬間、空間の温度が一気に数十度下がったかのような錯覚に陥った。
真護の全身の産毛が逆立つ。
京香も、日万凛も、八千穂も、全員が言葉を失い、声のした「上空」――崩落してぽっかりと空いた洞窟の天井を見上げた。
紫色の淀んだ空を背に、二つの影が浮かんでいた。
一人は、和服のような装束をし、楽しげな笑みを浮かべる小柄な影。
もう一人は、褐色の肌で長身の女性の姿。感情の一切を排した冷徹な顔立ちの影。
八雷神(はちらいじん)。
『紫黒』と『壤竜』。
魔防隊のデータに存在しない、魔都における絶対的な「神」の勢力。
通常の醜鬼とは次元が違う、真の絶望が、そこに顕現していた。
「なっ……!?」
京香が刀を抜くよりも早く、事態は動いた。
上空にいたはずの屈強な影――壤竜の姿が、かき消えた。
ドムッ!!
重い衝撃音。
真護が瞬きをした次の瞬間には、壤竜はすでに地面に降り立っていた。
そして、その両腕は――。
「がっ……!?」
「あ、ぐ……!」
左右の大きな掌で、青羽と波音の首を、それぞれ軽々と鷲掴みにしていた。
「青羽さん!! 波音!!」
真護が絶叫する。
速い。あの青羽が、そして波音が、反応すらできずに首を取られている。
壤竜は、もがく二人の首を締め上げながら、冷酷な声でポツリとこぼした。
「いい生命力だ。念のため、このまま持って帰ろうか」
「放せェッ!!」
真護が浅打を抜き放ち、トップスピードで壤竜の懐へと飛び込む。
だが、その切っ先が壤竜に届くより早く、真護の目の前に紫色のノイズが走った。
「あぁ、コイツはダメ。不純物が混じってるから」
いつの間にか、小柄な影――紫黒が真護の目の前に浮遊していた。
紫黒が指先を軽く振るう。
たったそれだけの動作で、不可視の巨大なハンマーで殴られたかのような衝撃が真護を襲い、彼は後方へと数十メートル吹き飛ばされた。
「ぐはっ……!!」
「真護!!」
岩壁に激突し、血を吐く真護。
その圧倒的な暴力の前に、八千穂が銃を構えたまま震える声で叫んだ。
「コ、コイツら……仲間ではないのか!?」
人型醜鬼の青羽たちを攻撃したのだ。魔防隊の仲間、あるいは醜鬼同士の内ゲバか。
状況が理解できない八千穂に対し、紫黒は心底不愉快そうに眉をひそめ、すぐにまた無邪気な笑顔に戻った。
「そんな中途半端な奴らと一緒にされちゃ困るなぁ」
紫黒は両手を広げ、まるで舞台俳優のようにクルリと宙でターンを決める。
その体から放たれるプレッシャーは、先ほどまでの真護の卍解すら霞むほどの、絶対的な『格』の違いを見せつけていた。
「僕たちは八雷神! 醜鬼達を束ねる存在さ! 神様だから崇めていいよ♪」
狂気を孕んだポップな宣言。
それは、この場にいる全員への「死刑宣告」に等しかった。
「がはっ……、ふざけんな……!」
瓦礫の中から、真護が立ち上がる。
額から血を流しながらも、その瞳には漆黒の炎が宿っていた。
家族同然の仲間が、目の前でゴミのように扱われている。
孤児院の頃から、彼は絶対にそれだけは許せなかった。
「優希……そこから動くなよ」
真護の全身から、青白い霊力が間欠泉のように噴き上がり始める。
それは、魔防隊との戦いで見せたものとは比べ物にならない、本気の殺意だった。
「……オイ、そこの自称神様」
刀を前に真っ直ぐ構え、左手を添える。
紫黒が「ん?」と小首を傾げた。
「オレの大事なモンに触れて……生きて帰れると思うなよ」
洞窟の空気が、軋むような音を立てて悲鳴を上げる。
魔都の神と、黒き死神。
真の絶望を前に、黒嶺真護の真価が問われようとしていた。