天才幼馴染の学び合い 作:ひまんちゅ
図書室の奥。
咲と宮地が定位置になりつつある。二人とも、ノートの開き方が“本気の人”のそれだった。
「今日は何やるの?」
咲が聞く。
澪はペンを置いて、言った。
「線形代数の入口。怖いって言われるやつ」
宮地が即反応する。
「行列?」
「そう。けど、行列は後。先に“意味”。
線形代数は、たくさんの数を一気に動かす道具」
悠真が補助する。
「一気に動かす、って言うと、ゲームの“範囲攻撃”みたいな?」
「例えが雑」
「でも伝わる」
澪はノートに矢印を書いた。
「今日の合言葉。
“行列は、空間を変形する機械”」
咲が首をかしげる。
「空間……?」
「点の集まり。座標平面。
たとえば、(1,0) と (0,1) っていう二つの矢印があるとする」
澪は、二本の矢印を描く。
右向きと上向き。教科書の冒頭に載っていそうな図。
「これが“基底”ってやつ。世界のものさし。
この二つが、変形でどう動くか決めたら、他の点も全部どう動くか決まる」
宮地が「えっ」と言う。
「なんで?」
澪は、咲の方を見て、ゆっくり言葉を選ぶ。
「どんな点も、(1,0)と(0,1)の組み合わせで作れるから。
たとえば(3,2)は、3回右+2回上」
悠真がすぐに乗る。
「レゴのブロックみたいだ」
「そう。
で、もし(1,0)が“右上”に伸びて、(0,1)が“左上”に伸びるように変形したら、(3,2)も同じ割合で引っ張られる」
咲が目を丸くする。
「つまり……“ものさし”の変化が、全部に影響する?」
「うん。
そして、その“ものさしの変化”をまとめて書いたのが行列」
澪は2×2の行列を書いた。
a b
c d
「この四つの数字は、だいたい“変形のレシピ”の部品」
宮地が言う。
「でも計算が面倒っていう印象が……」
悠真が机に肘をついて言った。
「計算は、慣れたら作業。意味が分かると怖くなくなる」
澪は、さらっと追い打ちをかける。
「本当に怖いのは、意味を知らないまま計算すること」
咲が小さく笑った。
「朝霧さん、それ名言っぽい」
「名言じゃなくて事実」
悠真が澪を見て、少しだけ茶化す。
「澪、こういう時だけ厳しいよね。前世で数学教師だった?」
「前世の話やめて」
澪は言いながら、でも手元の図は丁寧だった。
咲と宮地が視線を落とすと、澪はさらに噛み砕く。
「じゃあ、具体例。
2 0
0 1
これは、横方向だけ2倍に伸ばす変形」
咲が「それなら分かる」と頷く。
宮地が言う。
「じゃあ、
0 1
1 0
は?」
澪が即答する。
「xとyを入れ替える。鏡みたいなもの。
(3,2)なら(2,3)」
宮地が「おお」と声を漏らす。
悠真は笑って言った。
「行列って、数学の中でも珍しく“視覚で分かる”分野だよな」
澪は頷いた。
「視覚で分かるのに、記号のせいで嫌われる。もったいない」
そのとき、図書室の入口で誰かが少し迷う気配がした。
背の低い一年生の女子。制服のリボンがまだ硬い。
「……すみません。ここ、勉強会……?」
咲が「あ」と声を上げ、悠真が軽く手を振った。
「来たね。どうぞ」
澪は何も言わないまま、椅子を一つ引いた。
受け入れる動作だけが、やけに自然だった。