酒カスアラサー女勇者 〜酔生夢死じゃ終われない〜 作:空想の墓場
迫る陰りなど知る由もなく、帝都はいつも通りの騒がしさに満ちていた。
魔導院を後にしたエステルとソヴァは、アイテムの補給のため露店の立ち並ぶ商業区にいた。ダンジョンから魔導院までノンストップだった2人にとっては、つかの間の休息の意味合いも兼ねていたことだろう。
ようやく訪れた憩いのひと時。エステルは待ちかねたとばかりに懐から一升瓶を取り出し、それに頬ずりしたりしている。街の往来で始まった奇行をみっともなく思ったソヴァは、少し頬を赤らめ、あたりに視線を巡らせた。
活気あふれる商人たちの呼び声と、人並みが起こすざわめき。その喧騒は、来るもの拒まずどころか嫌がっても引きずり込むほどの強引さを持ち合わせていた。
しかし、そんな利己主義の渦中にあって。川の真ん中にぽっかりと浮かぶ中州のように、人ごみの中で2人の周りにだけ露骨な距離が空けられていた。視界の端でそれを認めたソヴァが苦々しい顔で言う。
「……そんなに匂いますかね」
「さあ? 私は慣れた、というか嗅覚が破壊されてるからわかんないけど。少なくともニコちゃんの部屋に言った後はいつもこんな感じになるよお」
「やっぱり避けられてるの匂いのせいじゃないですか」
呑気に答えるエステルの横を年若い婦人が通り過ぎる。婦人はぎょっとして2人を振り返ると、顔をしかめながら口元を押さえて数歩距離をとった。
まるで汚物を見たような反応だった。気にしていないふうを装ってはいるものの、流石のエステルも胸のあたりがズキズキ痛むのを感じていた。いくら高レベルになろうと、メンタルへのダメージは防げない。
「まあ、あんな煙モクモクの部屋にいたらそりゃ匂い移りますよね……。宿屋、入室拒否されたらどうしよう」
「錬金術で作られたアイテムをカテゴリーごとにまとめた魔道具図鑑ってのがあるんだけど、錬金タバコは『毒・薬』カテゴリーにぶち込まれてたよ」
「いよいよ国家公認の毒ガス兵器じゃないですか。なんであの人野放しにされてるんです?」
「それ以上に他のアイテムが便利ってことなんじゃない?」
だとしても普通に犯罪な気もするが。捕まっていないからには何かよくわからんがセーフということなのだろう。そう思うことにしておく。
ソヴァは自分の袖で顔を覆うようにして服に染みついた匂いを確認する。ニコレットの部屋を退室して数時間ほど経ち、ようやく回復してきた嗅覚がかすかな刺激臭を感じとった。勇者の鋭敏な感覚をここまで破壊できるアイテムもそう多くない。
露店の店主たちからは文字通り煙たがられ、犬猫には好かれない匂いをまといながら店を回ること数時間。ひとまずアイテムの補充を済ませ、時刻は夕暮れを指していた。
「思ったより早く済みましたね」
「なんか、予定より早く用事が終わった後の心の余裕的なサムシングは何なんだろうね。このまま飲みにでも行っちゃおうか」
「行きませんしもう飲んでるじゃないですか。ひとまず今日は解散して、明日にでも調査を――」
言いかけて、ソヴァは口元に手を当てる。少し間があって、前言を撤回した。
「――あ。もう一つ、やっておきたいことを思いつきました。一日貰ってもいいですか?」
「え? それはもちろん、ソヴァちゃんのタイミングでいいけど。他なんかあったっけ」
「いえ、個人的に準備しておきたいだけなので」
「ま、本当に魔族が入り込んでるんだったら今更慌てたって仕方ないしね。一日二日早めるよりは念入りに準備した方がいいんじゃない?」
エステルの言葉もある意味では正しいが、どうしても能天気に聞こえてしまう。ソヴァは微妙な表情を見せる。事の重大さが分かっているのかいないのか。少なくとも、深刻に考えている人間は街の往来で酒瓶を逆さにして内容物を飲み干したりはしないはずだ。
そうして一升瓶を空にした彼女は、未だ機能しない鼻を擦って。
「……匂いがないと、ただの水みたい」
しょぼくれた、半泣きでぼやくのだった。
――翌日。魔導院のとある一室にて。
ニコレットはドアがノックされる音で目を覚ました。粗末なソファの上に投げ出していた上体を持ち上げる。体の節々、果ては自分でもどこか分からない意味不明の関節から空気の破裂するような音が鳴った。
最近は仕事が立て込んでおり、こうして研究室に寝泊まりすることも日常茶飯事だった。そんな中で舞い込んだ未知のアイテム調査の依頼。つい興が乗ってしまったばかりに、とりわけ昨日は夜更かししてしまった。
ぼんやりする頭は使い物にならないが、とりあえず惰性のルーティンに従って体を起こす。立ち上がった勢いのまま雑多に散らばったデスクの上からシガーケースを探り当てると、中からタバコを一本取り出し口に含んだ。
短い祝詞を唱え、指先に灯した炎で火をつける。ゆっくりと大きく息を吸い込み、吐き出す。その動作を何度か繰り返すうちに興奮物質が油田のごとく産生され目が冴えてくる。
そうして、ニコレットがチルい起床ルーティンをたしなんでいる間もずーーーーっとコンコンコンコン。鳴りやまないノックに青筋を走らせる。流石にしつこい。
居留守を使うことも考えたが、扉の向こうの誰かはそれで諦めるような人間ではない気がした。ニコレットはさも億劫そうに重い足取りでドアへ向かう。
――誰だこんな朝っぱらから、と内心ぼやく。実のところもう朝と呼べる時間帯ではなかったが、生活サイクルが終わっている彼女にとっては寝起きに水を差されたことに変わりない。
同僚かやたら偉そうなクライアントだろうか。むさくるしい光景を覚悟しつつもドアを開けると、そこには昨日会ったばかりの少女が立っていた。
「……ニコレット先輩、寝癖ついてます。もしかして寝てました? もう昼ですよ?」
「知らん。私が起きてから2時間以内が朝なんだよ」
「どの国の標準時ですか。というか、昨日より部屋散らかってませんか? ダメですよちゃんと片づけないと」
「うるせぇ騒ぐな頭に響く。チッ……。とりあえず入れ」
痛む頭をさすりながらニコレットは言う。見た目は幾分マシでも、口うるささはクライアントと同じかそれ以上だ。このまま出入り口で騒がれても面倒だと判断したニコレットはソヴァを部屋に招き入れた。彼女は視線だけで背後を振り返りながら悪態を吐く。
「お前な、アポなしで来んなよ。こっちだって準備があんだろ」
「朝も一度伺ったんですが、返事がなかったので……」
「そりゃお前、アポとってもいいですかって連絡が無きゃ寝てんだろ」
「アポのアポが必要なんですか!?」
それではいたちごっこだろう。勇者はみんなこうもマイペースなものなのかと辟易したソヴァがうなだれる。
やがて元居たソファに戻って来たニコレットは、どかりと音を立ててその場に座り込む。咥えたタバコをふかしつつ、背もたれに両腕を掛けた姿勢で問いかけた。
「で。何の用だよ」
彼女の横柄ともとれる態度からは相手への敬意や気品などはみじんも感じられなかったが、今回ソヴァはあくまで頼む側である。喉元まで出かかった勇者の何たるかというお説教は呑み込んで、自分がやってきた目的を告げる。
「状態異常に抵抗できる魔道具をお借りしたくて伺いました。ほら、アイテムでは解除はできても予防はできませんから」
「ああ? んなのオマエのセンパイがそばについてくれてんだから心配いらねーだろ」
「もし戦闘になったとして、余計な気を使わせて足を引っ張ることになるじゃないですか」
「連携うんぬんはそっちで話し合うことだろ。アタシは忙しいんだ。ガキのお守りしてる暇ねーんだよ」
「……昼まで寝てる時間はあるくせに」
「あーもうやーめた。絶対貸さねー」
「ああごめんなさい、私が悪かったですから」
ソヴァがぽそりとつぶやいた悪口がしっかりニコレットの耳に入る。彼女もまたそれなりに高レベルの勇者であり、常人をはるかに上回る五感を備えていた。そっぽを向いて拗ねる成人女性と、その機嫌をとる少女という絵面は中々に見苦しいものがある。
どちらが人生の先達か分からなくなるやり取りが行われること数分。ようやく口を聞いてくれるようになったニコレットが煩わしげに言う。
「それこそアタシじゃなくてエステルに相談しろよ。実戦経験じゃアイツの方がずっと上だ」
「先輩に言ったら気合でレジストできるとか言いそうですし……。それに、一度情けない姿を見せているので相談しにくいというか……」
「面倒くせぇ奴だなお前も」
ニコレットは苛立たし気に頭を掻きむしる。人間関係だとか、後進育成だとか、メンタルケアだとか。そういうのが大嫌いだから研究職に身を置いているのに、なぜ自分が新人に絡まれているのか。しかも自分を含まない二人組の事情などなおさら知ったことではない。甚だ不愉快だった。
彼女は咥えたタバコの端を噛み潰すと、大きく息を吸い込んだ。えづきたくなるほどの嫌な辛さが肺を満たし、赤血球が一酸化炭素に支配される。脳をショートさせることで悪感情を強制的に振り払う、寿命と引き換えの究極奥義だった。
ため息も兼ねて煙を吐き出す。視界を遮る濃霧を払いつつ、ニコレットはデスクの引き出しを開け、内部を漁った。
「オラよ」
「わっ」
舌打ちをして取り出したアイテムを投げ渡す。ソヴァはそれをわたわたと何度か手のひらでバウンドさせたあと、ようやく手の内に収めた。
ソヴァが受け取ったものを確認すると、それは黒縁のメガネだった。フレームはがっしりと重厚で、レンズはビン底より分厚い。野暮ったいメガネを光に透かしながら、不思議そうに尋ねた。
「メガネ……? これで毒を防げるんですか?」
「バーカ。んな訳ねぇだろ」
「は?」
「それは『魔道具の使い方が分かる魔道具』だ」
既にニコレットは資料を見比べる作業に戻っていた。ソヴァの方には一瞥もくれず、部屋の一画を指さして吐き捨てる。
「その辺に使わん魔道具がまとめてある。適当に探して持ってけ」
「……こういうの、まとめてあるって言いませんよ」
指の示す先を目で追うと、追いやられたとしか形容できない多様な荷物が部屋の隅に放置されていた。研究資料だろう羊皮紙を下敷きにして置かれた木箱には、魔道具たちがガラクタ同然の扱いで詰め込まれている。
ソヴァは直感した。この人片づけられない人だ、と。これはまとめてあるのではなく、ただどかしただけ。その無精さを示すように、木箱のふちにはうっすらと埃がたまっていた。
「使えりゃなんでもいいんだよ。文句言うな」
「そうですね。じゃあ、お借りします」
「おう。そしてはよ去ね」
しっしっと手を払って急かすニコレットの背後を通り抜け、ソヴァは魔道具の品定めに入る。先ほど渡されたメガネをかけてみると、魔道具を作動するためのスイッチやトリガーに自然と焦点が合い、起こる結果の簡易的な説明が視界の端に表示された。
便利な道具もあったものだと感心しつつ、木箱の中から一つ一つ魔道具を取り出してみる。しかし、こんな扱いを受けているだけあって効果もそれなりのものしかない。
「『目玉焼きの黄身を中央に揃える道具』、『歯磨き粉をちょうどいい分量出せる道具』、『靴下の左右を間違えない道具』……。ゴ……じゃない。ガラクタばっかりですね」
「使わない道具って言ったろ。文句言うな」
「あっ。これとか使えそう。『ハッカの匂いの消臭スプレー』」
「やめとけ。もともと気付けに使われるくらいなのにそいつは強化魔法で香気が数倍になってて、ほとんど催涙スプレーレベルで……。ってオイ、なんでこっち向けてんだ」
「正直この部屋かなりタバコ臭いので。ニコレット先輩に吹き付けてもいいですか?」
「やってみろ。それこそ本物の毒ガス食らわしてやる」
ほぼ毒ガスの錬金タバコを常用している彼女の言う本物の毒ガスともなれば、その殺傷力はどれほどのものか。任務に殉ずるならともかく仲間の毒ガスで死んだなんて笑い話にもならない。ソヴァはしぶすぶスプレー缶を下ろした。
その後も木箱をガサゴソあさってみたものの、やはりまともな道具はなかなか見つからなかった。使い方は分かるのに、使い道が分からない。そんな不思議な現象と格闘すること数分、なんとかそれっぽい道具をいくつか見つけることに成功した。
それらのアイテムで抵抗できるのは基本的な状態異常だけなうえに、効果自体強力ではないが、それでもノーガードよりは幾分マシだろう。ソヴァは手にした怪しげなネックレスやら指輪やらを弄びながら。
「これ、借りて行ってもいいですか?」
「適当に持ってけって。別に持ってったっていい」
「それは悪いです。ちゃんと返します」
「良いっつってんだろ。なんならその箱ごと持ってけよ」
「さては私を無料の廃品回収業者だと思ってます?」
体よく不用品を押し付けようと画策していた企みはあっけなく看破されてしまう。不機嫌になったニコレットが追い払うように右手を払う。
「用が済んだら早く帰れ。お前らからのアイテムを調べてたせいで、本業に支障が出てんだ」
「それは……すみません。それと、その節はありがとうございます。昨日はお礼を言いそびれてしまいました」
「突然しおらしくすんな気持ち悪い。……別に、エステルにはいくつか借りがあるからな。それを返しただけだ」
追い返すため露悪的に放った言葉。しかし、予想外に生真面目な反応にニコレットは調子を崩される。続く言葉はぶっきらぼうだったが、そこには少なからず照れ隠しの意図があった。
やがてドアの前に立ったソヴァだったが、出ていくでもなくニコレットとドアを何度か見比べ、何か言いたげに口元を歪める。痺れを切らしたニコレットが机を指で叩きだしたころ、ようやくソヴァはおずおずと口を開いた。
「あの、少しだけいいですか?」
「……はあ。まだなんかあるのか?」
「ニコレット先輩って、せんぱ――エステル先輩と昔からの知り合い何ですか?」
「まあ、一応は同期だな。アタシとアイツは、同じ年度の選抜試験を通過して勇者になったんだ」
「だったら、少し聞きたいことが」
ソヴァはその場でくるりと半回転し、再びニコレットに向き直る。タブーに触れるかのように、今までよりも少しだけ声を潜めて問いかけた。
「勇者エステルと言えば、史上最年少で魔将討伐に成功した大英雄です。それなのに……。なんであんなふうになっちゃってるんですか?」
「なんだ、知ってたのか? いやまあ、協力者名簿やらに載ってることではあるし知ってて不思議でもねーが」
魔将――言うなれば、魔族にとっての勇者に相当する存在だ。しかし、決して勇者と同格というわけではない。
犠牲を覚悟のうえ、勇者数人がかりでどうにか、というレベルの相手だった。それ故に討伐事例もほとんどなく、それこそ6年前エステルが討伐に成功して以来、話題にも上がらなくなっている。
当時、弱冠21歳。本来であれば経験を積んだ勇者がパーティを組んで行うほどの偉業を、エステルは成し遂げていた。だからこそ、酒場でごろつきたちとクダを巻いているような人種であるはずがない。ソヴァが疑問に思うのも当然のことだった。
唐突にぶつけられた疑問にニコレットは眉をひそめる。少し考えてから、投げやりに答えた。
「なんでってもな。大方、プレッシャーに耐え切れなくて酒に逃げたってとこだろ。アイツはあれで臆病なところがあるからな」
「……臆病?」
「どこがだよと思う気持ちも分かる。けどな、シラフだと意外と小心者なんだよアイツは」
「そんなはずありません。そんな人が勇者になれるわけないじゃないですか」
「はあ? なんでだよ」
「なんでって……」
ソヴァはその質問に答えることができなかった。正解が分からなかったから、ではない。
それは、あまりにも当然のことだったからだ。『あなたはどうやって歩いていますか?』という質問に明確な回答が無いように、勇者という称号が勇敢な者に与えられる称号であることは考えるまでもない事実だと思っていた。
なぜそんな当たり前のことを聞くのかと疑問符を浮かべるソヴァにニコレットは畳みかける。
「募集要項に怖がりはダメとか書いてあったか? 規則にあったか? なかっただろ?」
「それはまあ、そうですけど……」
そういうことではないだろう、などという反論はできそうもない空気だった。ソヴァは肩をすぼめて、ロジハラの嵐をやり過ごそうと試みる。
「そうだ、昔話をひとつ教えてやろう。エステルのやつ、昔は饅頭を怖がって食わなかったことがある」
「……は? 小話じゃなくてですか?」
「違う。北方の大陸に派遣されたときの話だ。向こうには余った食材をまとめて生地で包んで食う郷土料理があるんだが……。北方じゃ昆虫食が盛んでな。何が入ってるか分かったもんじゃないとか抜かしてビビり散らかしてたんだ。ウケるだろ?」
「ええ……?」
ソヴァが困惑の声を上げる。これまでも情けない姿は何度か見てきたが、輪をかけてしょうもない。憧れていたイメージ像はすっかり崩れきった。
「つまりはそんなもんだ。勇者だろうが何だろうが怖いもんは怖い」
「確かに。人格者しか勇者に慣れなかったらニコレット先輩は精神鑑定で落ちてそうですもんね」
「どういう意味だオイコラ。昨日から思ってたが、お前割と失礼だよな」
「ニコレット先輩にも怖いものがあるんですか?」
「……今はお前の無神経さが怖いかな」
怖いもの無しかこいつは。ニコレットは嘆息する。自分も大概無礼者だという自覚が彼女にはあったが、それを遥かに超えるナチュラルノンデリを目の当たりにして気圧されていた。
礼儀のなっていない新人の教育は
「人間の文明ってのは、目の前の不便や恐怖に打ち克つために作られてきたもんだ。つまりは不の感情も、前進への原動力になりうる。錬金術なんかその最たる例だろう」
ニコレットが人差し指をピンと立てる。それは、教師が生徒を指名するときのように。
「ここで問題。怖いものが全くない人間がいたとする。その人に勇気はあるといえるか?」
「そういう言い方をするってことは、無いって言いたいんですよね?」
「メタ推理だがまあいい。怖いものなしにあるのは、無知と傲慢だ。勇気とは、『恐るべきものと恐るべからざるものとを識別することなり』――。何が本当に問題なのかを判断し、怖くとも理性的に立ち向かうことこそ、勇気ある行いだ」
「はあ」
納得しているのかいないのか、ソヴァはあいまいに頷いた。ニコレットも、別にこれ以上詳しく説明してやるつもりはなかった。椅子に深く座り直し、もういいだろうとばかりにそっぽを向いた。
「……ま、それが行き過ぎてもあんな感じになっちまうけどな。要はバランスだ」
ニコレットはタバコを一本取り出し、指先に火を灯す。ブスブスという耳障りな音が何度か響くのみで一向に燃え移らない。
どれだけの熱を浴びても、タバコの方が湿っていたんじゃ吸えやしない。吸えないタバコがただのゴミであるとするならば、熱を失った人間もきっと同じだ。
小さく舌打ちをして、湿気たタバコをクズ箱に放り込もうとした寸前で。わずかに立ち上る煙に気付いて、未練がましくそれを灰皿にとどめておくことにした。自分の貧乏性に笑いさえ起こる。
燃え尽きたタバコは戻らない。けれど、湿気ているだけなら乾かせばまた吸えるかもしれない。そう思い直して。
願わくばどうか、あの失礼な新人が泣き濡れた頬を乾かす清涼な風でありますように。無神論者の彼女にしては珍しい、らしくない祈りを捧げた。