バンッ、ターン。バンッ、ターン。
揺れる馬車の中で、俺はくるみ割り人形のように右手を動かし続けていた。書類を確認し、決裁印を押し、横の木箱に放り投げる。その無限ループである。
窓の外からは、地響きのような行軍の足音と、「フリードリヒ殿下万歳!」という熱狂的な歓声が絶え間なく聞こえてくる。
北のハゲ、西の三文役者、南の贋作、そして少将。全ての競合勢力を完全にすり潰し、その残党と領地を吸収し続けた結果、我らがカタリナ陣営は帝国の半分を飲み込む超巨大勢力へと膨れ上がっていた。
その総兵力、実に10万。
10万である。言葉にするのは簡単だが、これは1つの移動する巨大都市だ。10万人の胃袋を満たすための小麦、馬の飼葉、擦り切れた軍靴の補充、武器の修繕費、そして日々の給与。
その天文学的な数字のすべてを管理する決裁権が、なぜか総司令官であるこの俺、ヨーゼフ・ハーゲンの細腕に重くのしかかっていた。
「総司令官! 朗報だ!」
馬車の扉が勢いよく開き、血の匂いと硝煙を漂わせたクリエムヒルトが満面の笑みで飛び込んでくる。……もはや走行中の馬車にこいつが飛び乗ってくるぐらいでは動じなくなってきた。
「先遣隊が帝都防衛線の要であるパンゼン砦を陥落させたぞ! 敵将は我が軍の圧倒的な威容と殿下の御旗を見るなり戦意を喪失し、無血開城した!」
「……ああ、そう。ご苦労。で、その砦の備蓄食糧はどれくらいあった? 捕虜の数は? まさかまた無計画に兵士として吸収してないだろうな? 一昨日の時点で兵糧の残りが危険水域なんだぞ?」
「ふははっ! 案じるなヨーゼフ。降伏した帝国正規軍3千名が、新たに殿下への忠誠を誓い我が軍に加わった! 皆、真の皇帝の下で戦えると感涙に咽び泣いているぞ!」
「ふざけんな! また食い扶持が増えたじゃねえか!」
俺はインク瓶を床に叩きつけそうになるのを必死で堪え、新たな3千人分の兵糧請求書に震える手でハンコを押した。
破竹の勢い。連戦連勝。
世間や後世の歴史家から見れば、俺は戦うこともなく進軍を続ける希代の天才軍師だろう。だが実態は、ただの異常に肥大化したブラック商会の経理担当だ。勝利すればするほど首が絞まる軍隊なんて聞いたことがない。
ふと視線を上げると、向かいの席でカタリナが退屈そうに頬杖をついていた。
「……外はうるさいね。ボクはただ、ヨーゼフと一緒にいたいだけなのに」
「お前が方々であんな化け物じみたカリスマを見せつけるから10万の狂信者が釣れたんだろうが。自業自得だ」
「ふふっ。そうだね、共犯者クン?」
だが、このふざけた自転車操業にもいよいよゴールが見えてきた。馬車の窓から顔を出すと、地平線の彼方に巨大な防壁に囲まれた世界最大の都市である帝都の威容がぼんやりと霞んで見えた。
あそこにいるラスボス、簒奪者ヴァルデマール帝を引きずり下ろせばこの終わらない事務作業と狂った詐欺劇から解放され、念願の隠居生活が待っている。
しかし、俺の胃痛の最大の原因は、10万の軍勢でも、帝都に構える正規軍でもない。この10万人の命綱である金を握っている、たった1人の男。俺が先ほどから血を吐く思いで承認し続けている莫大な請求書の束の宛先には、すべて同じ紋章が刻印されていた。
――ルーシの豪商にして成り上がり辺境伯、アレクセイ・スメルジャコフ。
あの強欲な油狸が、俺たちが帝国の半分を支配するまで巨大化したこの最高のタイミングで、ただ黙って財布係に徹するわけがないのだ。
数日後。ついに俺たちは帝都の城壁の前に到達した。歴史ある巨大な石造りの防壁、その上に翻る帝国正規軍の旗。10万の軍勢が包囲陣を敷く様は圧巻だが、俺の胃は限界を突破していた。
城門は固く閉ざされ、降伏の気配は微塵もない。それどころか、城壁の上から巨大なメガホンを通した、威厳に満ちた重厚な声が響き渡った。
『――愚かなる帝国の将兵たちよ。目を覚ますのだ』
簒奪者、皇帝ヴァルデマール。
本物のフリードリヒ殿下を暗殺した張本人にして、世界で唯一カタリナが偽物であるという真実を確信している男だ。
『余は問う。貴様らが今、口にしているパンは誰が買ったものだ? 貴様らが握る剣は、誰が鍛えたものだ?』
城壁からの問いかけに、10万の軍勢がざわめく。俺は馬車の中で「チッ」と舌打ちをした。そこを攻めてくるとは。
『見よ! 貴様らの背後にある無数の輜重馬車を! そこに刻まれているのは帝国の紋章ではない。ルーシの商人、アレクセイ・スメルジャコフの紋章だ!』
痛い。痛すぎる。我が軍の最大の弱点をピンポイントで抉ってきやがった。
『その者は我が甥フリードリヒなどではない! 我らが祖国を、私欲でルーシの植民地にしようと企む外国商人の傀儡である! 貴様らは愛国者ではない! 祖国を売り渡す侵略者の手先に成り下がったのだ!』
静寂。そして、どよめき。
俺たちの軍は、帝国への愛国心と真の皇帝への忠誠という熱狂だけで膨れ上がってきた風船だ。その中身がルーシの資金だと暴露された瞬間、風船は急激にしぼみ始める。
「……おい、嘘だろ? 俺たちの給料、ルーシの商人から出てたのか?」
「殿下は、外国勢力に国を売るおつもりなのか……?」
前線から、帝国出身の兵士たちの動揺がさざ波のように伝わってくる。ルーシ出身の傭兵たちと、帝国兵たちとの間で不穏な視線が交差する。物理的な矢や大砲よりも恐ろしい。大義名分をへし折る正論という名の砲撃だ。
「ええい、卑怯者のたわ言に耳を貸すな! 構わん! 全軍突撃ィ! あの城壁を物理的にぶち抜いてくれる!」
クリエムヒルトが剣を抜いてわめいているが、兵士たちの足は重い。士気が崩壊しかかっている軍隊で城攻めなど不可能なことは素人の俺にでも分かる。
終わった。完全論破だ。このままでは軍が空中分解して自滅する。畜生、苦労してここまで来たってのに……。
俺が頭を抱えた、まさにその時だった。
「お困りのようですな、総司令官殿」
ノックの音もなく、馬車の扉が開いた。なぜ俺の周りの連中はノックを知らないのか。
豪華な毛皮のコートを羽織り、10本の指すべてに宝石をはめた肥満の男。この危機の原因にして成金辺境伯、アレクセイ・スメルジャコフが三日月のように目を細めて立っていた。
「……辺境伯。ずいぶんと悠長なご登場ですね。閣下の投資が紙屑になりかかってるんですよ」
「いやいや、そう悲観するものではないようですぞ。ただ、帝都のヴァルデマールからわし宛てに『殿下の首を差し出せば、帝国の全関税を免除する』という大変魅力的な手紙が届きましてなあ」
「……マジかよ」
俺は奥歯を強く噛み締めた。
この油狸、味方が一番弱っているタイミングを見計らって、堂々と裏切りをチラつかせに来やがった。やけに金の流れがこいつ中心に回っていると思っていたが、さては俺たちが偽物どもを潰し回っている間に、臨時帝都で着々と準備していたな。どこまでも食えない野郎だ。
「大衆は現金なものですなあ。帝都は目前。しかし、プロパガンダのせいで我が陣営の信用は暴落寸前。……さて、総司令官。商談の時間だ!」
辺境伯は下卑た笑みを浮かべ、俺の机の上に分厚い債権の束を置いた。
「わしが軍を引けば殿下は『自力で外国勢力を追い出した愛国者』になれる。その代わり……戦後の帝国の関税と中央銀行の支配権を全てわしに寄越せ」
武力ではなく金利と信用で国家の喉首を絞め上げる悪魔の契約。
俺は血の気が引くのを感じながら、隣で眠そうにあくびをしている元スリの皇太子と、目の前で葉巻をうまそうに吸う強欲なパトロンを交互に見比べた。ここで首を縦に振れば帝国は事実上、この油狸の私物になる。しかし、この詰んだ盤面をひっくり返す方法は、もう最悪の八百長しか残されていなかった。
……いや、待てよ。そもそも俺の目的はこのスリのガキを帝位に即けて、後はドロンして悠々自適に暮らすこと。帝国が油狸のへそくりになろうが、カタリナのおもちゃになろうが知ったこっちゃない。
「……なるほど。帝国の関税と中央銀行の支配権ですか。よろしい、全権を譲渡しましょう」
俺が即答した瞬間、馬車の空気が凍りついた。
クリエムヒルトが信じられないものを見る目で俺を睨みつけ、軍刀の柄を握りしめる。
「き、貴様ッ! 正気かヨーゼフ! 殿下から全財産と国家の主権を奪い、この下劣な男に帝国を売り渡すというのか! ついに本当の軟弱者に落ちぶれたか!」
「黙ってろ大佐。これは商談だ。コストにリターンが釣り合えばそれでいい。そもそも、ここで辺境伯に裏切られたら確実に勝てない」
大佐の怒声などどこ吹く風で、俺はインク壺にペンを突っ込んだ。
そもそも、この帝国が誰のものになろうと俺の知ったことではないのだ。俺の最終目標はカタリナを玉座に座らせて、多額の退職金をもらって平和な田舎で隠居すること。
カタリナ陛下がスッカラカンの文無しになろうが、辺境伯が裏の支配者になろうが、俺の隠居生活には1ミリも影響がない。むしろ、辺境伯に借金を押し付けて逃げられるなら万々歳だ。
「……ほう。少しは渋るかと思いましたが、話が早くて助かりますな。やはりハーゲン殿は、帝国の腐った貴族どもよりよほど現実が見えている」
辺境伯は目を丸くした後、心の底から嬉しそうに腹を揺らして笑った。
こいつは損得でしか他人を測れない。だからこそ、国家の誇りより自分の保身を優先する俺が御しやすいと踏んだのだろう。
「ですが辺境伯。ただ契約書にサインするだけじゃあ、外で騒いでる10万の兵士と城壁の上の叔父上は騙せませんよ」
俺は白紙の羊皮紙を引っ張り出し、ペンを走らせる。
「あんたにはこれからこの軍を去ってもらいます。それもただコソコソ逃げるんじゃない。殿下の威光に恐れをなし命からがら逃げ出す強欲なルーシの商人として、10万の軍勢と帝都の民衆の目の前で盛大に尻尾を巻いて退散してもらう」
「……なるほど。公開処刑という名の壮大な喜劇ですな」
俺の意図を瞬時に理解した辺境伯が、ニヤリと悪魔のような笑みを浮かべる。俺は一気に書き上げた劇の台本と帝国の全経済権を譲渡する裏契約書を、辺境伯の前に並べた。
「ええ。殿下には帝国を外国の支配から救った真の英雄になっていただき、あんたには無様に敗北した強欲商人を演じてもらう。……もちろん、その屈辱的な演技のギャラがこの帝国中央銀行の支配権というわけです」
「クククッ! 素晴らしい! 安い、安すぎるぞハーゲン殿! 一時のプライドを捨てるだけで、帝国全土の金庫の鍵が手に入るとは! 商売とはかくあるべきだ!」
俺と辺境伯は、クリエムヒルトが今にも俺を斬り殺しそうな目で睨みつける中、固く、そして汚い握手を交わした。
「じゃあ、打ち合わせは終わりだ。さっそく表に出ましょうか。……殿下。起きてください」
俺は、向かいの席でうたた寝をしていたカタリナの肩を揺さぶった。カタリナは目をこすりながら、寝ぼけ眼で俺を見上げる。
「……ん、終わった? ヨーゼフ」
「ああ。今からお前に過去最大の舞台を用意してやる。お前は今から、帝国のプライドのために自分の最大のパトロンを容赦無く切り捨てる冷酷で高潔な覇王を演じるんだ」
「ふふっ。いいよ。キミが望むならボクは誰だって切り捨てるさ」
カタリナは妖しく微笑み、マントを翻した。
さあ、開演だ。
真実を嘘で圧し潰す、世界で一番タチの悪い詐欺の総仕上げである。