もし人間が目の代わりに緑色の眼鏡をかけていたなら、彼らが見る世界はすべて緑色だと信じ込むだろう。――ハインリヒ・フォン・クライスト
グラスを持つ片手がまた震え始めた。
帝都の場末の安酒場。外ではルーシからやってきた辺境伯令嬢の豪華絢爛なパレードが歓声を巻き起こしている。色とりどりの紙吹雪が青空の下で舞い踊り、酒場は昼日中だというのに飲んだくれで溢れていた。しかし、私の心はいまだ古城の薄暗い石畳に縛り付けられている。
皇帝フリードリヒ。全帝国臣民が崇拝し、敬愛する存在。簒奪者ヴァルデマールを打ち倒し、ついにかつて裏切ったルーシの商人をさえ慈悲深く赦した地上の王。
しかし、私はあの者がそんな聖人ではないことを知っている。あれは天使の姿をした悪魔だ。私が公爵に虐待されながらも必死で覚えた知識を一笑に付し、公爵の切り札である紋章さえも紙きれにしてしまった男。剣術も騎士道も一顧だにしない。ちょこまかと逃げ回り、容赦なく砂でこちらの目を潰し、執拗に急所を狙ってくる。極めつけはゴミを見るような冷たいサファイアの瞳だ。直接対峙した私だからわかる。あれは高貴な生まれの陛下なんかではない。いわば路地裏のドラ猫が玉座に座っているようなものだ。普通ならそんなことはあり得ない。だからこそ恐ろしい。
「さあもっと飲むのだ同胞よ! 陛下がご結婚をするというこの良き日に、我らを差し置いて誰が盛り上げるというのだッ!」
私の向かいの禿げ頭を光らせた大男、偽フリードリヒ1世が勢いよく空のグラスをテーブルに叩きつけた。この男は辺境伯に吹き込まれた戯言を真に受け、今も忠誠心に燃えている。救いようがない。
「ぼ、僕はもう飲めませんよ!」
「何をいう! そのような体たらくでは陛下の影武者は務まらんぞ! ほら飲めッ!」
「なんで祝う必要があるんですか……! またあの化け物に関わったら、今度こそ死んじゃいますよ……!」
半泣きで1世に無理やり酒を飲まされているのは役者崩れの偽フリードリヒ2世だ。こいつのいいたいことは痛いほどよくわかる。あの狂人たちの視界に入るくらいなら、一生この酒場で震えてた方がマシだ。
「ええい情けないやつめ! だからいまだ役者としても売れずに燻っているのだ!」
「それをいったらあなただってただの日雇いの気印じゃないですか!」
「何をいう! 我こそは陛下に命を懸ける男、偽フリードリヒ1世であるぞッ!」
「ダメだこの人、話通じない! 3世さん、なんとかいってくださいよ!」
思えば、私の人生は不運の連続だった。親に孤児院に捨てられてからというもの、碌な目に遭った試しがない。そしていつも、嫌な知らせが来るときは私の片手は震えるのである。
私はこちらに助けを求めてくる2世の訴えを無視してぬるい酒を胃に流し込んだ。
頼む、もう二度と私の人生にあの悪魔たちを関わらせないでくれ。
静かに、私の隣に目深にフードを被った男が座った。その奥には目つきの悪い悪党、ヨーゼフ・ハーゲンの顔があった。
「やっと見つけた。お前ら仕事だ。目標はあの令嬢を落とすこと。やってくれるか?」
ああ、神よ。なぜ私にこうも苦難を与えるのですか。
役者へのアルハラの手を止めた大男が、どっかりと席に座りなおした。追加のエールを掲げ、声を張り上げる。
「無論! 宰相の勇気に希望を見た男、偽フリードリヒ1世! 陛下のためとあらば、どんな首も落として見せましょうぞ!」
「ちげえよ! 彼女の心を落とせっつったんだ! 殺すな!」
「委細承知ッ!」
1人闘志に燃える1世を見てため息をついた宰相が、こちらに問いかけるような目を向けてくる。その目の下の隈は以前よりも濃くなっていた。あれは同情を誘う化粧だ。私はこのような小細工には騙されない。
「2世、3世、お前らはどうする? 正直、俺はこのアホよりもお前らを当てにしているんだが」
「その3世というのはやめろ。不本意だ」
「じゃあなんて呼べばいいんだよ……」
「ぼ、僕は絶対にお断りしますから!」
やにわに役者が立ち上がり、聞いたことのない声量で叫んだ。即座に1世が彼の肩を揺さぶる。
「何を寝ぼけたことをッ! 眼を覚ませッ! 刮目せよッ!」
「い、嫌だ! もうあんな惨劇には立ちたくない!」
「……俺から詳しいことはいえないが、陛下とエヴァンジェリーナ嬢の結婚が相成った場合、ライデンシャフト准将によって帝国は火の海になる」
「喜んでやらせていただきます!」
すぐさま手のひらを返して敬礼する2世。これだから小心者は。
できることなら金輪際関わりたくなかったが、こうなってしまっては避けようがないだろう。私は深いため息をついて、ハーゲンに向き合った。
「気乗りしないがしょうがない。策はあるんでしょうね? ハーゲン帝国宰相」
「もちろんだ。まず、お前らにはあの令嬢の好みの貴公子になってもらう――」
数時間後、私たちは宮殿の中庭を覗き見れる生垣の裏にいた。美しく手入れされ、様々な色の花が咲き誇る庭では優雅なお茶会が開かれている。その中央に鎮座する一輪の黄金の薔薇、フリードリヒ陛下がエヴァンジェリーナ辺境伯令嬢と座っていた。背後にはしかめっ面のライデンシャフト准将が、軍刀を握っては離すを繰り返している。
ルーシの強欲商人、アレクセイ・スメルジャコフ辺境伯の片足を准将が切り落としたのは有名な話だが、今回は彼が恭順の証として実の愛娘を差し出してきたらしい。それゆえ、准将は今すぐにでも切り殺したい相手を護衛するという屈辱を耐えているのである。ああ、恐ろしい。
私たちに与えられた任務はただ1つ。理想の貴公子として辺境伯令嬢に近づき、今も陛下にべたべた触っている彼女の注意を逸らすこと。惚れさせられたら完璧だという。しかし、そのためにはあの公爵を殺した准将の間合いに入らないといけないわけで……はっきりいって自殺行為だ。
ハーゲンが三文役者の背中を押した。生垣から無理やり押し出された彼に向って口を開いた。
「ほら、早くいってこい。お前見栄えは良いんだから、なんか甘い言葉でもかければいちころだろ」
「そ、そういわれましてもぉ」
膝を笑わせながら陛下のテーブルに近づく2世。めかしこんだ彼を、血走った目で准将が睨みつけた。途端に腰を抜かした2世が這いずってこちらに戻ってくる。いわんこっちゃない。ハーゲンが小声で怒鳴るという意味不明な芸当をした。
「なぁに逃げ帰ってんだ! ちょっと近づいてこしょこしょっというだけだろうが!」
「で、でも准将がぁ……」
「ふざけんな! それをいったら俺なんかクリエムヒルトに何回も殺されかけてるわ!」
それはハーゲンが異常なのではないかと思ったが黙っておく。あの殺戮マシーンに殺意を向けられて生き延びている宰相こそが異常なのだ。小市民を装っているが、少しでも油断したら私はミュンドゥング公爵のように殺されてしまうだろう。
突然立ち上がった大男が、真っ赤な薔薇をくわえて飛び出していった。
「ええい腑抜けめ! 血は人間の証、愛の絆! 我こそは愛のために血を流す男! 真の貴公子とは何たるか、とくと目に焼き付けろッ!」
「む、面妖な!」
しかし、1世が准将の視界に入った瞬間、跳び膝蹴りを食らってしまった。禿げた大男は宙を舞い、噴水の中に落ちてしまう。その間、僅か5秒。令嬢には気づかれてすらいない。心なしか皇帝がこちらを見る目が遠い。
気の立っている准将の射程範囲に入ったのだから、当然の帰結である。隣でハーゲンの顔が青ざめた。
「本当に何をされている方なの? ……はあ。畜生。もう残っているのはお前しかいない。公爵仕込みの教養と気品でなんとかできるだろ? なんとかできるっていってくれ!」
「善処する」
「頼むぞマジで!」
ゆっくりと歩み寄る。テーブルに、准将に、陛下に近づくほど手の震えが酷くなっていく。本当に世界は不条理に溢れている。しかし、何度も味わえばそれは日常になる。
准将が私の姿を認め、軍刀に手をかけた。天災だ。私は嵐の中で波に攫われないことを祈っている船乗りに過ぎない。動こうとした准将を、フリードリヒが不気味な薄ら笑いを浮かべて、目で制止した。結局、やつからしたら私は宰相が用意した新しい余興なのだ。
私は皇帝に引っ付いているエヴァンジェリーナの前に立った。彼女の不躾な瞳が、死んだ目をした私を捉える。宰相が用意した台本を朗々と読み上げた。
「お初にお目にかかります、エヴァンジェリーナ嬢。私はハンス・ドリッテ・フォン・ゲフェルシュトと申します。以後お見知りおきを」
静かに一礼する。公爵に杖で殴られながら叩き込まれた完璧な貴族の作法だ。しかし、青ざめた顔や指の震えは誤魔化せない。これは失敗かと思った矢先、令嬢が頬を薔薇色に染めた。
「まあ、なんて憂いを帯びた、ミステリアスな殿方……」
どうやら彼女のロマンス脳というフィルターを通すと、私のトラウマからくる死んだ目と震えは、儚くも影のある没落貴公子に変換されるらしい。本当におめでたい頭をしている。
私は宰相の書いた三文芝居を忠実に演じ続けた。「あなたの美しさは庭園の花々すら霞ませる」だの「できることなら今夜2人きりで食事をしたい」だの、歯の浮くような台詞を囁く。
作戦は成功しかけていた。令嬢はうっとりとしたため息を漏らし、陛下――あの化け物から離れてこちらに身を乗り出している。
しかし、悲劇は唐突に訪れた。
「ハンス様はとても気品があって素敵ですわ。きっと、フリードリヒ陛下のように気高く情熱的な騎士道精神をお持ちなのね……」
気高く、情熱的な騎士道精神?
令嬢の甘い声が鼓膜を震わせた瞬間、私の脳内で何かが決定的にショートを起こした。
気高い? 騎士道? 誰が?
一瞬にしてフラッシュバックする、古城での凄惨な記憶。剣術の型などお構いなしに顔面へ投げつけられた泥と石礫。そして容赦なく急所を狙いすまして蹴り上げてきた、あのドラ猫のえげつない一撃。
私の中で、何かが音を立ててプツンと切れた。
あの時のように錯乱して叫んだりはしない。ただ視界から温度が消え、冷たい虚無が訪れるだけだ。
顔には貴公子の微笑みが張り付いているはずだ。しかしグラスを持つ手の震えはガタガタと限界を超え、中のワインが激しく波打っている。
「……ええ。本当に高潔な方です」
自分の口から信じられないほど滑らかに壊れた言葉がこぼれ落ちていく。
「相手の油断を誘ってから容赦なく目潰しの砂を投げつけ、的確に急所を蹴り上げてくるあの無駄のない動き……あれこそが帝王学の極致……ふ、ふふふ……」
令嬢が信じられないものを見るような目を向けてきた。
私の虚ろな瞳の奥にある諦観に触れてしまったからだ。ロマンス小説には決して出てこない、純度100パーセントの絶望。
「ひっ……!」
令嬢はドレスの裾を翻し、青ざめた顔で逃げ去っていった。その背中を追うこともせず私はただ激しく震えながら笑い続けた。
邪悪の化身が面白そうにクスクスと笑い、准将が「貴様、陛下の御前で何を気味の悪い笑い声を……!」と軍刀を抜きかけている。
私はこぼれた酒をハンカチで上品に拭き取りながら踵を返し、遠い目で生垣の裏へと戻った。
「……だから、関わりたくないと言ったんです。ハーゲン帝国宰相」
「お前ら雁首揃えて何やってんだよおおおおっ!」
生垣の陰で、宰相が頭を抱えて地面に突っ伏していた。
未だに噴水で伸びている1世と腰を抜かして動けない2世を拾って帰ろうとすると、私たちのいる生け垣とは別の生け垣から、1人の少年が飛び出していった。その手には最新鋭の武器であるはずのリボルバーが握られている。その銃口は令嬢に向けられていた。
護衛たちは皇帝を狙われていると勘違いして見当違いの動きをしている。これは……終わった。令嬢は殺され、帝国のメンツは丸潰れ、スメルジャコフ辺境伯との友好関係も終止符を打たれるだろう。私が鮮血を覚悟した、まさにその時だった。宰相が生け垣から飛び出し、横から暗殺者を押し倒した。銃声が鳴り響き、明後日の方向に銃弾が飛んでいく。騒然となる会場。
遅れて衛兵が暗殺者を取り押さえると、宰相は真っ先に令嬢の元へ飛んでいき、血の気が引いた顔で叫んだ。
「エヴァンジェリーナは無事か!?」
彼のこの行動は、一見すると辺境伯との同盟を案じた保身からの反応のようだ。しかし、あの奸臣はそれだけのために命を懸けるような男ではない。これには緻密に計算された舞台が書き割りの裏に隠れている。
おそらくではあるが、あの暗殺者は宰相の仕込みだろう。わざと自らの手の者に彼女を襲撃させ、自らが身を挺して守ることで命の恩人を演出する。帝都での戦いでも使ったやつの常套手段だ。私たちが失敗したときの保険として準備していたのだろう。或いは、私たちはただの前座か。
事実、宰相の企みは見事にはまっていた。エヴァンジェリーナは頬を紅潮させ、とろけた顔をハーゲンに晒している。皇帝に魅了されていたのは嘘のように、今では宰相に夢中だ。
対して皇帝はというと……私はフリードリヒを盗み見て背筋を凍らせた。そのサファイアのような瞳は、今や全ての光を失い、絶対零度の様相を呈している。その視線の先はエヴァンジェリーナに手を握られているハーゲンに向けられていた。
その理由はわからないし、わかりたくもない。とにかく、あのような常識の埒外の存在に関わるのは私には荷が重すぎる。私は宰相の神算鬼謀と皇帝の悍ましい覇気に矮小な身を震わせて、偽物たちを引きずって帰って行った。私たちにふさわしいあの酒場へと。
「おい誰だよ油狸の娘をぶち殺そうとしたやつは! 出てこいよ畜生が! その面はっ倒してやる!」
俺はなんとか纏わり付いてくる辺境伯令嬢を撒いて、這々の体で逃げ込んだ執務室で絶叫した。もう絶叫しなきゃ気が済まなかった。用意した偽物どもは揃いもそろって役立たずだし、ついでに護衛は准将も含めてみんな令嬢をノーマークしていた無能だし、咄嗟に暗殺者を捕まえたら面倒くさいのに惚れられるし、カタリナは怖すぎて直視できないしで、もう散々だ!
なんで俺の思ったとおりに事が進まないんだよ! いや、進んではいる! でもそれが毎度斜め上なのは何なんだ!
何とかエヴァンジェリーナをカタリナから引き離すことには成功したが、今度は俺についてきやがった。あいつは犬にくっつく植物か何かなのか?
俺が頭を抱えていると、音もなく執務室の扉が開いた。顔を上げると、真顔で俺を見下ろすカタリナと目が合った。その無機質の瞳が俺の冷や汗を加速させる。
「やあボクのヨーゼフ。何かいうことはあるかい?」
「じ、事故だ……」
「うん、じゃあこれも事故だよね!」
カタリナは慈しむように俺の手に触れると、目にも留まらぬ早業で縛ってしまった。気がつけば足も細い縄で縛られてしまう。バランスを崩して倒れ込む俺を、優しく抱き留めたカタリナが微笑んだ。
「というか、なんであんな女なんか庇ったんだい? 女の子なら誰でも良いのかな?」
「あいつが死んだら辺境伯からの金が……」
「うん、で? キミはボクという者がありながらあんな浮気染みたことをしておいて、まだそんなつまらない言い訳をするんだ。ふーん、へーえ……」
ゆっくりとカタリナの端正な顔が近づいてくる。嗅ぎ慣れた甘い匂いが暴力的に主張する。
「ボクで上書きしてあげないと……それで、キミはどこをあの女に触られたのかな?」
「……手だけだ」
「嘘をついたって無駄だよ! ほら、ここだろう! それともここか!」
「ぎゃーやめろおおおおお!」