書いていたら長くなってしまったので、
5話は前後半構成となります。
先に前半を掲載しますが、
後半はもう少しお時間頂ければと思います。
グラスを三つ。
それぞれに氷を入れて、伝えられた種類の液体を注いでいく。
今日は何にしようとか、当たり前の選択も考えず。
適当に目に付いたボタンを押下し、最後のグラスを埋めた。
一瞬飲み物に映った表情は酷く活力のないもので。
それではいけないとすぐに無理矢理の笑顔を作り、器用にグラスを席まで運んでいく。
「お待たせ!ダイヤ姉がメロンソーダ、お姉がコーラでよかったよね?」
「うん!ありがとう、ノルちゃん。」
「お、今日はサイダーにしたんだ。ノルちゃんにしては珍しいね?」
「まあ、何となく。」
向かい側に座るキタサンとダイヤに飲み物を渡し、何気ない会話をノールは交わす。
皐月賞からおよそ2週間が経過した、ゴールデンウィークの1日目。
クロワデュノールは久しぶりに姉二人との穏やかな休日を過ごしていた。
特別遠出はせずショッピングへ来ているだけだが、それは次走に"日本ダービー"を控えたノールを慮ってのこと。
疲れを残してコンディションを落とさないようにという、思い遣りからの選択だった。
「三人でファミレスなんて久しぶりっ。」
「前は確か...ダイヤ姉を見た店員さんが血相を変えて、お店の高いメニューを順番に出して来たんだっけ?」
「そうそう。まさかサトノ家のお店なんて思わな...んっ!?」
「ど、どうしたのキタちゃん?」
昔話に花を咲かせようとした矢先、ドリンクを口にしたキタサンが突然噎せてしまった。グラスを訝しげに見つめ嗅いだ後、キタサンはしてやられたと笑ってノールの方を見た。
「ノルちゃんってば、これコーラにコーヒー混ぜたでしょ?」
「え?」
「悪戯なんてホントに久しぶり!まだまだ子どもだなぁ、ノルちゃんは。次はあたしの番だからね!」
「...はは。引っ掛かるお姉が子どもなんじゃない?大体、宣言したら悪戯にならないでしょ。」
「...?」
キョトンとした表情の後言い返すノール。
本当は悪戯をしたつもりはなく、一度ボタンを押し間違えて、それに
上の空であることを悟られないよう、取り繕ったが故の間。
その僅かな変化に違和感を覚えるダイヤだが、結局グラスを一気飲みするキタサンに苦笑いを浮かべる。
「...最近はどう?練習は上手く行ってる?」
「うん。大丈夫だよ。タイムも悪くないし、怪我とかも心配ないから。」
「なら、よかったけど...。」
可も不可もない返答にとりあえずの相槌を打ち、普段通りに見えるノールを観察する。
そもそも、このお出かけはキタサンとダイヤが妹分の近況を確認する為に提案した物だった。
クラシックGⅠ、皐月賞にて。
断然の一番人気に推されたクロワデュノールは、最終直線で親友のミュージアムマイルに抜かれて2着。
レース人生で初めての"敗北"を喫した。
周囲の期待を裏切り放心状態になり、ウィニングライブではまったく笑顔を見せることのなかったノール。
幸いミュージアムマイルの強さが正当に評価された上に、ハイペースかつ不利があった中での2着は十分に称賛に値するというのが世間の結論であった。
その為目に見えて批判されることはなく、むしろ応援の声の方が多いのだが。
二人はどうしてもレース後の落ち込んだ様子が頭から離れず、ずっと心配に思っていたのだった。
「心配しなくても大丈夫だって。ミューズがスゴいのなんて分かってたことだし。レースに絶対なんてない。負けは、負け。次頑張ればいいだけなんだから。」
「...そっか。そうだね。」
「ダイヤ姉は過保護なんだって。私もうちっちゃくないでしょ?」
笑顔で淡々と皐月賞を回顧する姿に思い違いだったかと納得しかけるが、どうにも頷けない"何か"を隠している気がする。
一人で判断が出来ず、ダイヤは隣の親友に視線で助けを求める。
キタサンは何も気にしていないような穏やかな表情のまま、ごく自然に会話を続けた。
「じゃあダービーは大丈夫だね!ノルちゃんの晴れ姿、今から楽しみだなぁ!」
「...うん、頑張るよ!皐月賞に続いて着内には入れると思うし、次に繋がれば」
「着内?」
「え...?」
その一言に反応し、キタサンの顔から笑みが消える。
その変貌振りに動揺するノールと対照的に、ダイヤは自分たちの予想が間違っていなかったことを悟った。
「着内には入れるっていうのは、どういうこと?」
「どうって...皐月賞は2着だったから、ダービーもいい成績で」
「...ノルちゃんは無敗の三冠ウマ娘を目指してたんだよね?それが皐月賞を負けたからって、もうダービーも勝てないって諦めてるの?」
「そんなこと言ってないでしょ!?」
「キタちゃんちょっと言い過ぎだよ...!」
目標を語る際に出た着内という言葉は、ノールが
しかし、ダイヤもキタサンの捲し立てるような責め口調は予想外だったらしく、声を荒げるノールを庇おうとする。
「ノルちゃんはそれでいいの?一生に一度のダービーを、勝ちたくないの?」
「勝ちたいに決まってる!でも、日本ダービーはお姉たちやイクイノックスさんでも勝てなかったレースなんだよ!?皐月賞2着だってイクイノックスさんと同じで、私にしては頑張った方なの!だからダービーもいいところまで行ければ」
「ノルちゃん。」
取り繕っていた仮面が外れ本音を吐き出すノールに、キタサンは普段とは違った声音を返す。
遮られても黙らずにはいられない。
そんな迫力が今のキタサンからは感じられた。
「あたしに勝ちたいって...超えたいって言ってくれたよね。あれは嘘だったの?」
「嘘じゃな」
「ううん、嘘だよ。今のノルちゃんに、そんな気持ちは少しも残ってない。」
「そんな、こと...」
「同じだからいい?出来るだけ頑張る?ダメだよ、それじゃ。善戦も健闘も意味なんてない。あたしたちは、勝つ為に走るんだよ?」
「っ...」
未だかつて見たことのない姉の姿と厳しい言葉に、ノールは反論することすら出来なくなっていく。
ダイヤも口を挟む余地を見つけられないようだった。
「絶対に負けない。絶対に勝つ。そう思えないなら、その覚悟がないなら。ノルちゃんにトゥインクルシリーズを走る資格はないよ。」
「っ...!」
「キタちゃんっ!」
いつも優しく温かいキタサン。
誰より慕う大好きな姉なら、きっと自分の傷に気付いて慰めてくれるはず。
そんな期待をノールが抱いていなかったと言えば嘘になる。
だがそれは、あまりに正反対の対応で裏切られることになった。
"夢を追う価値も資格もない"と切り捨てられ、ノールは視界を滲ませ拳を握り締める。
ムカついたからではない。
それがどうしようもなく、
「お姉みたいに強くないんだよ...私はっ...」
「待ってノルちゃん!?」
堪らずファミレスから出ていくノールをダイヤが呼び止めるが、キタサンは真剣な面持ちを崩すことはなかった。
心配するどころか更に傷つけるような彼女の振る舞いに、ダイヤは珍しく憤りを露にする。
「キタちゃんらしくないよあんなの...どうしちゃったの?あれじゃノルちゃんが可哀想だよっ!」
「...ごめん、ダイヤちゃん。でも、ダメなんだ。」
問い詰めようとして、いつの間にか普段のキタサンに戻っていることに気付く。
悲痛な表情は今の自分を見ているようで、彼女もまたダイヤと同じ心持ちなのがすぐに分かった。
「もうあたしたちじゃダメなんだよ。ノルちゃんを大切に思うなら、あの子を信じるしかない。話すべき人は他にいるから。あたしたちもそうだったでしょ?」
「......うん。分かるよ、キタちゃん。トゥインクルシリーズは、一人で走るモノじゃないから。」
ノールはキタサンを"強い"と評したが、そう見られるまでに幾度となく挫折を経験している。
ダイヤもまた、天才でありながら後一歩届かない悔しさに打ちひしがれたことがあった。
自分では無理かもしれない。
限界かもしれない。
そう不安に襲われたにも関わらず、彼女たちは立派にトゥインクルシリーズを走り切った。
それは何故か。
どうしてそう出来たのか。
今こそ気付く必要があると思い、キタサンはノールを突き放したのだった。
「お疲れさま、キタお姉ちゃん。」
「ダイヤちゃんあたしっ...ノルちゃんに嫌われちゃったらどうしよぉ~...!?」
「もうっ。一人で無理するからそうなるんでしょ?」
先程までの威厳が嘘のように泣きべそをかいて後悔する幼なじみを、溜め息混じりに慰めるダイヤ。
自分も年少に厳しくする練習をした方がいいのだろうかと頭を捻っているところへ、次々に大量の料理が運ばれてきた。
「...キタちゃん。次からお説教は、食べ終わってからにしてね?」
「うぅっ...妹が成長期ぃ...」
――――――――――――――――――――
『"ドゥラメンテ二冠達成ーーっ!!阻む者は誰もいなかった!!"』
「~!」
声は上げずに、しかし身体は正直に大興奮。
夜の寮部屋内。
マスカレードボールは持参パソコンをかじりつくように見つめていた。
モニターには日本ダービーのレース映像。
それもドゥラメンテが勝利したもので、彼女が今日これを見るのは既に10回目にもなる。
毎回まるで初めて見たような反応を静かにした後、無言で巻き戻し再視聴をし始める。
11回目に入ろうとするマスカレードを眺め、ソールはほにゃっとした笑顔を浮かべる。
「ぼうるちゃんはホントにドゥラメンテさんが好きだね~。」
「!...憧れ、なので...///」
夢中になっているのを見られ恥ずかしかったのか、マスカレードはおずおずと動画を停止させる。
自分も菊花賞の前にキタサンの動画を見ていたことを思い出し、またもや郷愁に駆られるソール。
髪を梳かしながら、少し真面目な話をしようと思い立つ。
「ダービー、いよいよだね。」
「はい。アタシが勝ちます。ドゥラメンテさんみたいに。」
怯まず凛々しい顔でそう宣言する姿は、以前までのマスカレードとはまったく違う。
どこかドゥラメンテに似ているように思えて、嬉しいようで寂しいような心地になる。
「ドゥラメンテさん、ダービーが終わったらだったよね...。」
「...大丈夫です。また、会えます。」
「見せたいね、ダービーウマ娘になるところ。」
「はい...最強を証明して、安心して留学に向かって欲しいんです。だから、アタシが勝ちます。」
指導者となる勉強の為、ドゥラメンテは海外に留学することが決まっていた。
出発は6月の頭。
日本ダービー終了直後となる。
タイミングの良い4月にしなかった理由は明白だ。
留学は一時的な物とはいえ、ドゥラメンテがマスカレードのトゥインクルシリーズを見守れるのは、これが最後かもしれない。
だからこそ、ここだけは絶対に譲るわけにはいかない。
世代の頂点である"ダービーウマ娘"の称号。
かつてのドゥラメンテと同じその栄誉を手にし、憧れに"自分は大丈夫だ"と証明したい。
それ故に、今のマスカレードは並々ならぬ気合いで練習に打ち込んでいるのであった。
「ふふっ、わたし連絡先知ってるから。ぼうるちゃんが寂しそうにしてたら逐一報告してあげるね?」
「や、やめてくださいっ!迷惑になっちゃいますよっ!///」
慌てる様子はやっぱりよく知る後輩ちゃんで、さっきまでの頼もしい雰囲気はすぐに消えてしまう。
やはりまだまだお節介が必要かなと思い、とある懸念事項について触れることにする。
「...リバティちゃんのこと、もう大丈夫?」
「......。」
もう二週間程前になる。
香港で行われたGⅠ、"クイーンエリザベスⅡ世カップ"にて。
トリプルティアラウマ娘である、リバティアイランドが故障。
そのレースで勝利したダービーウマ娘"タスティエーラ"がレース後すぐに引き返し、リバティを補助したことで命の危機は免れたものの、現役復帰は絶望的と報じられていた。
同じスクールの先輩であるリバティの不幸はマスカレードにとってもショックであり、知ったその日は食事も摂れなくなる程だった。
本来ならマスカレードを献身的に励ます立場だが、ソールにとってもリバティは大切な同期。
タスティエーラからその病状を詳しく聞いていたのもあって、彼女自身もマスカレードを労る余裕がなかった。
いつの間にか普段通りになっていたので追求しなかったが、実は今でも気落ちしているのではないかと密かに心配していたのだった。
「平気です。すごく残念で、すごく心配ですけど...アタシはダービーのことだけを考えなくちゃいけません。それでアタシが集中出来なかったら、リバティさんは怒ると思うので。」
「そっか...そうだよね。」
気高く負けず嫌いな彼女ならば、確かに"心配無用である"と突き放すに違いない。
それに気付いて自分で立ち直るとは、マスカレードはメンタル面でも成長し続けているようだ。
過保護な自分が少し恥ずかしくなって、ソールは枕を抱いて赤くなった顔を隠す。
「...って、もっともらしく言ってますが。実はもう、アルヴさんに怒られたんです。」
「へ?アルヴさんに...?」
「"他にやるべきことがあるでしょう。あなたが気にしていれば、彼女の怪我が治るの?"って。」
「あはは...手厳しい...。」
"アドマイヤグルーヴ"。
エリザベス女王杯を連覇した名ウマ娘で、トリプルティアラウマ娘であるスティルインラブの最大のライバル。
エアグルーヴたちと交流があるのは知っているが、普段は素っ気なく他人を気にするタイプではない。
まるで、"氷の花"。
そんな近寄り難いイメージをソールは抱いていたのだが。
マスカレードはソールの言葉に頭を振って、嬉しそうに話を続ける。
「励ましてくれたんです。ドゥラメンテさんもエアグルーヴさんも辛そうで、余裕がないのは分かってました。でもアルヴさんは違って、わざわざアタシの様子を見に来てくれて。自分だって本当は、悲しくて悔しいはずなのに...。」
リバティが三冠を達成した時、確かにアルヴが微笑んでいたのを覚えている。
自分が果たせなかった偉業を成した後輩に、短くでも"おめでとう"と伝えていた姿を知っている。
そんな彼女が毅然とした態度を見せているのに、自分が落ち込んでいるわけにはいかない。
そう思ったからこそ、マスカレードはダービーに集中することが出来ていたのだった。
「色んな人たちの想いが、ぼうるちゃんを強くするんだね。」
「はい。頼ってばかりで情けないですが...一人じゃないのが、幸せだって思います。」
「ふふっ。そっかぁ。」
託された想いを力に変え、マスカレードは強くなっていく。
いつかきっと、自分も追い越していくのだろう。
喜びとも悲しみとも分からない気持ちが心を満たし、堪らず大好きな後輩をぎゅっと抱き締めた。
「そ、ソールさんっ?」
「わたしの気持ちも連れて行ってくれる?一生に一度のダービーで負けちゃった、わたしの悔しさも一緒に。」
「...はいっ。ソールさんの分も、アタシが勝ちますっ。」
「ありがと、ぼうるちゃん。」
「わわっ///」
願わくば、
そんな悲痛な気持ちを隠すように、ソールはマスカレードを強く抱き続けるのだった。
――――――――――――――――――――
「はぁ...。」
茜色に染まる空を眺めながら、原っぱに座り込み溜め息をひとつ。
客観的に見て、どう考えても悩んでいる様子の自分が酷く滑稽に思える。
ミュージアムマイルは制服が汚れるのにも構わず、その場に寝転んだ。
「ちっ...なんだってんだよ...。」
皐月賞を勝利して数週間。
始めはクラシックを制した興奮と喜びに浸れていたのだが、それはすぐに別の不快感に上塗りされることになった。
同室のクロワデュノールだ。
三冠を期待されていた彼女を打ち破ることこそミューズの目的。
それを果たしたことで、ある程度彼女から距離を置かれると覚悟はしていた。
しかし、ノールがそのような態度を取ることはなかったのだ。
全て、いつも通り。
よき友人、クラスメイト。
変わらず接して来るノールは笑顔を絶やさず、何事もなかったかのように振る舞ってくる。
それが、堪らなく
「オレは別に...くそっ...」
苛立ちを解消するように雑草に八つ当たりし、再び大きな溜め息を吐く。
帰る気にもならず、いっそこのままここで寝てやろうかと思い始めていると。
「夕焼けが好きなの?」
「っ!?」
突然視界に入って来た顔に驚き、緑生い茂る原っぱを二転三転する。
草だらけになった身体に構わず、近付いて来た誰かを確認する。
確認して、ミューズは無意識に息を呑んだ。
「ごめんね?驚かせるつもりはなかったんだけど。ふふっ、身体中草だらけになっちゃったね。大丈夫?」
「っ...えっと...」
ノールよりもはっきりと鮮やかな青鹿毛の髪。
流星は綺麗に真ん中を割っており、紫がかった宝石のような瞳は夕焼けを受けて、より一層輝いて見える。
たとえ私服であっても、ミューズが彼女を見間違えることなどあり得ない。
「...シーザリオ、さん...?」
「こんばんは、ミュージアムマイルちゃん。」
"シーザリオ"。
日米オークスを制覇した唯一のウマ娘。
彼女はミューズにとって、"憧れ"とも言うべき存在だった。
「...オレ、そんなに深刻そうな顔してましたか?」
「え?」
「通りすがりで声掛けたくなるくらい、あれだったのかな...と。」
ミューズの考える限り、彼女にシーザリオとの接点はない。
憧れと言ってもモニター越しに見ていただけで、シーザリオがこちらを認識出来るわけがない。
お人好しがたまたま通り掛かって心配してくれただけ、そう思うのが当然だ。
「うーん、ちょっと違うかな。」
「違うんですか?」
「確かに、悩んでるなぁと思いはしたけど。ずっと話したかったんだよ?あなたと。」
「っ...知られてるとも、思ってませんでした。」
温度が急上昇する顔を必死に誤魔化し、ミューズは動揺する気持ちを何とか抑えようとする。
一般人が有名人に認知されていたようなもので、柄にもなく緊張してしまう。
そんなミューズの気持ちを知ってか知らずか、シーザリオは隣に座って、文字通り腰を据えて話をするつもりのようだった。
「トレーナーのチームに見学に来てくれたんだってね。」
「あ、あ~...でも、結局入らなかったんで...すみません。」
「謝る必要なんてないのに。ミューズちゃんが選んだ道なんだから。皐月賞すごかったね。今更だけど、おめでとう。」
「あ、ありがとうございます...///」
色々とバレている上にレースまで見られていた。
恥ずかしさと嬉しさで別人のように照れてしまうミューズ。
でも、ただチームを見学しただけでそこまで注目してくれるようなことがあるのだろうか。
疑問はどんどん膨らんでいく。
「間違っていたらごめんね。もしかして、
「...何で、そう思うんです?」
入学して間もない頃。
ミューズがシーザリオたちのトレーナーを訪ねたのは、たったの一回。
トレーニングや指導を見て感激していた様子で、その場にいたウマ娘たちは絶対に入ってくれるだろうと確信していたらしい。
それなのに、彼女はそのただ一度でチームに入ることを止めてしまった。
その理由に、シーザリオだけが思い当たる節があったのだ。
「昔、スクールに見学に来てくれたよね。妹さんと一緒に。」
「!...覚えてたんですか...。」
子どもの顔を覚えるのは得意なんだと笑い、懐かしむように当時の様子を語り出す。
「始めは楽しそうにしてたのに、ミューズちゃんは私を見るとすぐに辛そうな顔をして...最後までちゃんとお話出来なかったよね。」
「...失礼な態度をしてたんなら、謝ります。」
「失礼だなんて。妹さんと一緒に来てたでしょ?あの子から"お姉ちゃんは先生のファンなの!"って聞いてたから。だから、ちゃんとお話してみたかったなぁって。」
「フェスの奴チビの頃から余計なことを...!」
シーザリオはトゥインクルシリーズを引退後、子どものウマ娘を指導するスクールの"先生"を志している。
彼女が勉強がてら手伝っている育成クラブに、ミューズたち姉妹が見学にやって来ていたのだ。
交わした言葉は、最初の"初めまして"だけ。
それでも、シーザリオはミューズを覚えていた。
自分を見ていたその目に、並々ならぬ想いを感じていたから。
「もっと早く話したかったんだけど...トレセン学園にいられる時間も限られちゃってて。だから今日、ミューズちゃんを見つけられてよかった。大きくなったね。また会えて、本当に嬉しいよ。」
「っ...ははっ...嬉しいのは、こっちですよ。」
自然に頭を撫でられるが、何の不快感もミューズにはない。
まるですごく昔から一緒だったような、そんな懐かしさが心を包む。
「...辛い思いをさせて、ごめんね。」
「な、何がですか?オレは別に」
「きっと私は、
「......」
口を噤むしかなかった。
きっと"スクールやチームに入らなかった理由を聞きたい"という話だと思っていた。
それがこうも見事に図星を突かれるとは考えておらず、ミューズは返す言葉が見つからなくて押し黙ってしまう。
「走れなくなった私を、見たくなかったんだよね。次見に行けばもしかしたら...そう期待してくれても、私はあなたを裏切ることしかしなかった。だからスクールにもチームにも、入ろうとはしなかった。」
「...すごいな、やっぱり。そこまで分かるんですか、先生ってのは。」
幼少の頃、初めて憧れたウマ娘は僅か二年でトゥインクルシリーズを去っていった。
ヒーローを失い泣いていた彼女を救ったのは、その冬にデビューしたシーザリオその人だった。
何か不思議な縁を感じたのか、ミューズはシーザリオに惹かれ彼女のレースを追うようになり。
桜花賞では僅差の敗北に本気で悔しがり、オークスでの戴冠を自分のことのようにはしゃいで喜んだ。
アメリカンオークス制覇に至っては、興奮し過ぎて人生初の徹夜を経験する程。
ミューズにとって、まさに彼女はスーパースター。
永遠に消えない輝きを、これからも応援していける。
そう思っていた矢先に、シーザリオは怪我で引退となった。
二度目の喪失感。
自分が見ていたせいか?とまで思い悩み、落ち込んで。
ミューズはしばらくレースを見られなくなった。
そこからもう一度彼女を引き上げてくれた"三人目"も、前の二人と同じ運命を辿って。
自分は誰にも憧れてはいけないのだと、幼い少女は諦めたのだった。
「ガキでも、分かったんです。幸せそうに先生してるあなたを見て、"もういいんだな"って。本人が前見て歩いてるのに、関係ないオレが引き摺ってるなんてバカみたいじゃないですか。」
「それは」
「"走ってるあなたが好きなんです。もう昔の話だなんて、そんな顔をしないでくれ。"今でも、そう言いたくなるんですよ。だから入らなかったんです。育成者の道を歩むあなたをすごいと尊敬して、応援出来ないんだ...憧れる資格なんて、オレにはないんです。」
ずっと誰にも言えなかったことを、まさか本人に伝える時が来るとは。
取り繕うことも忘れて、ミューズは
シーザリオにとっては納得のいく過去であっても、その選択が今もミューズを苦しめている。
予想していたとはいえ、返す言葉が見つからなかった。
「だから、オレは決めたんです。勝てなくてもいい。少しでも長く、楽しく。トゥインクルシリーズを走っていようって。誰がどう見てもやり尽くしたって、そう思えるまで走ってやるって。」
「...うん。それはすごく大事なことだと思う。それが本当は、一番いいよね。」
「...でも、それもいつの間にか変わっちまったんですよ。...変えられた、っていうか。」
「いい出会いがあったんだ...。」
「...はい。いい奴です、アイツは。」
言いたいことを伝えられて満足したのか、話題は"今の"悩みにシフトしていく。
悩みとは、ノールについてだ。
シーザリオの雰囲気がそうさせるのか、ポツポツと打ち明けられるミューズの心。
同室となって共に生活し、競い合って。
自分とは違う、真っ直ぐに憧れを追う姿が眩しく思えていたこと。
彼女を応援したい一方で、彼女と競い超えたいという気持ちが強くなったこと。
自分の理念すら捨てて、皐月賞で怪我をしても構わない程の全力を尽くしたこと。
そうして掴み取った勝利の代償が、眩しさを失った友の姿であったことを。
「アイツは強いから大丈夫だと、勝手にそう思ってました。全力でぶつかって、それで負けるなら笑って祝ってやろう。勝ったら誇りに思って、更に強くなるアイツにどこまでやれるのか試してやろうって。楽しみだったんです...。」
なのに、待っていたのは自分に遠慮して、無理矢理に取り繕った笑顔で。
どう接すればいいのか考えて、自分は
ただ、見ているだけ。
そんな毎日に疲れて、ミューズは今日この場に逃げ出して来ていたのだった。
「接し方が分からないなんて、ガキみたいな悩みですよね...。あーあ、情けねー。」
「...同室で、ライバルで。一番の友だち。...ふふっ。何だか思い出しちゃうな。」
ミューズの悩みを聞き切って、不謹慎だと思いつつシーザリオは微笑んでしまう。
彼女にもちょうど似たような経験があったからだ。
「私もね、そういう親友がいるんだ。私たちは桜花賞で、負けたのは私だったけど。」
「..."ラインクラフト"さん、ですよね?」
「うん。クラフトと一緒に走れたのは、桜花賞の一回だけ。距離の適性も違ったし、お互いに本気の勝負は桜花賞が最初で最後だって、分かってたんだと思う。」
「めちゃくちゃ勝ちたかったんじゃないですか?」
「もちろん。大好きで大切な親友だからこそ、一番負けたくなかった。だから、ギリギリで勝てなかったことが悔しくて悔しくて。」
「オレも悔しかったです...アタマ差でしたもんね。」
ミューズの言葉に嬉しげな笑みを浮かべ、"でもね?"とシーザリオは続ける。
「悔しいのと同じくらい...ううん、それ以上に、嬉しかった。"私の親友はすごい!クラフトと走れてよかった!"って。」
「それは、お二人がすごく仲がいいからで...」
「私たちは確かに勝つ為にレースを走ってる。でも、負けたからって全部無駄になるわけじゃない。心から尊敬出来るライバルと競って、励まし合って。"また走ろう、約束だよ!"って笑い合う。そうやって繋いでいくのが、トゥインクルシリーズなんだと思うの。」
「ライバルと、走る...」
ライバルとの研鑽こそ、真に意味のあるレースである。
シーザリオはそう告げて、もう一度ミューズの頭を優しく撫でる。
「大丈夫。こんなに想ってくれるミューズちゃんの気持ちを、きっとクロワちゃんは分かってくれるから。素直に言ってごらん。あなたは、どうしたい?」
「......走りたい、です。アイツと、クロワと...もっとたくさん...!」
瞳を濡らし、一番の願いを見つけたミューズ。
シーザリオは頷き立ち上がると、
「では、ただ信じて待てばいい。お前の親友は強い。必ず更なる力を得て決戦の舞台へとやって来るだろう。お前はそれを、持てる全ての力で以て迎え討てばいい。手心こそ、友への最大の侮辱と心得なさい。」
「...はいっ!」
トゥインクルシリーズを走っていた頃の気勢で飛ばした激励は、ミューズの心に確かに届いた。
シーザリオの手を取り立ち上がる彼女の顔に迷いはなく、燃えるような夕陽が彼女の闘志を表しているように見えた。
『私が勝つっ!絶対にっ...!!ダービーウマ娘になるんだあぁぁーーーっっ!!!』
「!......この、声...。」
突然向こう岸から聞こえて来た叫び声は、ミューズにとって酷く聞き馴染みのあるものだった。
その声が意味することに気付き、涙と笑顔が同時に沸き起こる。
「ふふっ。ほら、やっぱり。強い子だね、あなたの親友は。」
「っ...はいっ...だから...オレは、アイツに勝ちたいんです!」
憧れになれずとも、"先を生く者"として道を示したシーザリオ。
彼女との対話を胸に、ミュージアムマイルは一生に一度の決戦へと向かうのだった。
――――――――――――――――――――
「お疲れ様でした!お先に失礼します!」
「お疲れさまです、ノールちゃん。」
「お疲れ。」
練習を終え部室を後にするノール。
明るい挨拶に笑顔で応えて見送った後、トレーナーとクロノは同時に溜め息を吐き出す。
「...どう思う?」
「分かりやすく落ち込んでくれていた方が、幾分か気が楽だったでしょうね...。」
「だよな...。」
日本ダービーを二週間前に控え、ノールのトレーニングは順調に進んでいた。
正確には
本人は上手く誤魔化しているつもりだろうが、皐月賞の敗北を引き摺っていることなどトレーナーたちにはお見通しだった。
「タイムは出ていますし、練習もきっちりとこなしてくれています。だからこそ、違和感があるわけですが。」
「真面目なノールが本当に前向きなら、皐月賞の分析をしつこいくらいにするはずだ。なのに、実際は腫れ物みたいに触れたがらない。これ以上傍観してるわけにはいかないな。」
迷惑を掛けまいと本音を隠しているわけだから、その気持ちを尊重し、ギリギリまで本人自身で立ち直る可能性を信じよう。
それが二人の方針だったわけだが、今日までのノールを見ればそれが現実的ではないのは明らかだ。
「俺から話してみる。ダメだったら、最後は頼む。」
「トレーナーさんなら大丈夫です。私の、自慢のトレーナーさんですから。」
「プレッシャーすごいな...。」
"トレーナーさんが何とかしてください。"
いつの間にか尻に敷かれ始めたことを実感し、トレーナーは気合いを入れ直す。
ニコニコと手を振り送り出され、ノールを追って栗東寮の方へと向かうことにした。
トレーナーは寮には入れない為、受付に彼女が帰っていないか問い合わせる。
しかし、どうやらまだ帰って来ていないらしい。
ついでに同室のミュージアムマイルも不在の為、二人でどこかに出掛けたのではないかと食堂を見ることにした。
だが、そこにもやはりノールはいない。
そもそも今のメンタルでミューズと仲良くお出かけなど出来るのだろうか。
最悪電話をすれば居場所は分かるわけだが、事前に話があると伝えば彼女は身構えてしまうだろう。
彼女の気持ちを理解する為にも、出来る限り自分で見つける必要があった。
食欲がなく、落ち込んでいて。
一人になりたいとしたら、ノールならどこへ行くか。
少し考えて、トレーナーは学外に出てみることにした。
ロードワークの時、いつも通っている川がある。
朝焼けが綺麗に見られて、"これはきっと夕陽も映えるに違いない"と思っていた場所だ。
小走りで向かうと、そこには予想通り見事な夕映えの景色が広がっていて。
「いた...!」
そんな景色に不釣り合いな表情で俯く、ノールの姿があった。
元気でやる気に溢れた彼女とは正反対の沈んだ雰囲気に、トレーナーの表情は自然と強張ってしまう。
これではいけないと頬を摘まんでから、努めて明るく、そのいつもより小さく見える背中に声を掛けた。
「ここ、空気もよくて気持ちいい場所だよね。」
「と、トレーナーさん!?いつからそこに...」
「ちょっと、話したいことがあって。隣、いいかな?」
「...はい。」
後ろめたいところと言うと聞こえが悪いが、ノールにはトレーナーが何の話をしに来たのか予想が出来たようだ。
笑顔を見せることはなく、俯いたまま返事をする。
「改めて、すまなかった。俺がもっといい作戦を出せていたら、今君にそんな顔をさせないで済んだはずだ。」
「...トレーナーさんは悪くないです...全部、私の責任ですから...。」
まずは謝罪を口にするが、ノールは逆に自分を責め始めてしまう。
とにかく彼女の本音を聞くのが先決。
トレーナーは単刀直入に話題を進めることにする。
「
「!......やっぱり、お見通しだったんですね。」
「君のトレーナーだからね。皐月賞から今まで、ずっと苦しんでいるんだろう?聞かせてくれないかな、ノールの抱えているモノを。」
トレーナーに全てバレていたことを知って観念したのか、ノールは自らの心情を少しずつ言葉にしていく。
「私は、みんなの期待を裏切ってしまいました。もう二度とあんな思いはしたくない...そう思うと、恐くて...情けない、ですよね。一回負けたくらいで...お姉にも怒られちゃいましたよ。」
膨らんだ期待を、一瞬で無に帰してしまった感覚。
いくら頑張っても、絶対に届かないと分かってしまったゴール前。
初めての敗北は、想像以上に重く彼女の心にのし掛かっていた。
「勝たなきゃダメだ...頑張らないとって思うのに、どうしてもあの瞬間が頭から離れなくて...!もう、どうやって走ったらいいのかも分からないんですっ...!」
今までは上手く行き過ぎていただけ。
そう不安を抱えていたノールには、皐月賞の敗北が自信を失う決定打にさえなっていた。
二度と勝てないかもしれないという恐怖は拭えず、その輝いていた瞳を黒く塗り潰してしまう。
「...自分を信じる、ってさ。めちゃくちゃ難しいことだよ。どれだけ周りがスゴいって言ったとしても、根拠は結局自分になってしまうし。」
スカートの裾を掴んで苦しそうにするノールに対し、トレーナーは微笑みを崩さない。
彼女は苦しい胸の内を打ち明けてくれた。
次は自分が頑張る番だと、伝えたいことを頭に思い浮かべていく。
「さっき、"勝たなきゃダメだ"って言ったよな?責任感がある君らしいけど、そう思って走ったのは皐月賞だけなんじゃないか?」
「...三冠を取りたいと思ってましたから。」
「うん。他のレースだって、勝てるかどうか不安はあっただろう?じゃあ、何で勝てたんだろうな?」
「......分からないですよ…ミューズがいなかったからじゃないですか...?」
気持ちだけで勝てる程、レースは甘くない。
しかし気持ちが後ろ向きでは勝てるものも勝てなくなる。
考え方の転換がノールには必要だった。
「意地悪な質問ですまない。ただ、分かって欲しいんだ。大事なのは初めて負けたってことじゃなくて、"一回でも勝った"ってことだよ。」
「一回でも、勝った…?」
「一回だろうが勝利は勝利で、立派な実力の証明だ。それを君は3回も経験してるんだ。どうやって走ったらいいか分からないって?思い出せばいいんだ。君は何を考えて走ってたんだい?」
「...そんなの...そんなのっ...分からないって言ってるじゃないですか...!」
「
「......え...?」
予想外の言葉にキョトンとした表情になるノール。
それが面白かったのか、トレーナーは苦笑いしつつその意味を説明し始める。
「"勝たなきゃいけない"って、前提として勝って当たり前って考えがあるだろう?そんなレースなんてないのにな。」
「で、でも...」
「今までがむしゃらに走って来て気付いてなかったんだろうけど。勝てるかどうか分からなくても、勝って前に進みたい。少しでも夢に近付きたい。それが君の、一番強い想いだったんじゃないかな?」
「......。」
『あの人が勝ったこのレースで、私は私の夢に挑む資格が欲しい!戦って負けるなら仕方ない...でも怪我をしたわけでもないのに逃げることなんて出来ません!』
思い当たる節があり、過去の自分の言葉が胸に響いた気がした。
逃げたくない。戦いたい。勝ちたい。
そう願って走った記憶が、確かにノールの中にある。
「どんなに強いウマ娘だって、絶対の自信なんてあるわけがない。だけどそれでも勝つウマ娘っていうのは、別の"絶対"を持っていなくちゃいけないんだ。」
「別の絶対...」
「ミュージアムマイルが言ってたやつさ。負ければ負ける程、"勝ちたい"という欲求は強くなるって。つまりそれこそが、ウマ娘にとって一番大切な想いなんだ。根拠や自信じゃない。ただ願い食らいついて、ボロボロになっても掴み取りたいという気持ち。」
「......勝ちたい...どれだけ無謀で、恐くても...勝ちたいって気持ちだけは、無くしちゃいけない...?」
「そうだ。君はその強い気持ちを、もう既に知ってるはずだ。」
「...!」
『私はお姉を超えたい!イクイノックスさんを超えたい!無理でも何でも、やらなくちゃ...!諦めない!絶対にっ!諦めたりするもんかぁーー!!!』
前にも一度、ノールが勝負を諦めようとしたことがある。
その弱気を覆したのは、"憧れに勝ちたい"という強い願いだった。
あの時もトレーナーの叱咤激励で立ち上がり、二度とこの決意を忘れまいと心に誓ったはずなのに。
敗北を引き摺り、いつの間にか大切な決意まで頭から消してしまっていた。
そんな弱い自分を、ノールは心の底から恥じた。
今ならキタサンの言葉も真に理解出来る。
勝ちたいという気持ちを忘れ、"善戦出来れば"などと安易に口にしてしまった。
あの時の啖呵を聞いていたのだから、キタサンが叱責するのは当たり前ではないか。
「私は、バカだ...大バカだ...。」
明確に彼女の中で何かが変わったのを感じ、トレーナーは最後に自分の素直な気持ちを話すことにする。
「...ノールはさ、日本ダービーって何で特別扱いされてるか分かるか?」
「え...一生に一度で、世界共通の称号...だから?」
「なるほど。でもそれ聞いた時さ、俺は"みんながそう言ってるだけでしょ"って思ったんだ。」
「......ぷっ...す、すみません...私もそう思ってたので、つい...。」
少し前の自分と同じ発言がトレーナーから飛び出し、思わず笑ってしまうノール。
彼女に笑顔が戻ったのが嬉しくて、トレーナーもその笑みを強める。
「でも、今は違うんだ。その
「お味噌?」
「まさに決め手だよ。ダービーは特別。そう思うトレーナーとウマ娘が多い以上、嫌でもダービーの存在は大きくなる。しかもそれは一生に一度しか経験出来ない。そうなれば、みんなはどう思ってダービーに望む?」
「...絶対に勝ちたい?」
「大正解。つまり、日本のどのレースよりも強い、勝ちたいっていう気持ちが、一番集まるのがダービーなんだと思う。ウマ娘、トレーナー、それにお客さんも。全員が
「ははっ。頂点決定戦って感じですね。」
「うん。夢の頂点、ってやつかな。」
ダービーを思い出し悔しがるキタサンたちの姿が浮かび、"夢の頂点"という表現がピタリと填まる。
それ程までに皆が想いを懸けたという事実こそが、日本ダービーの価値である。
トレーナーの説明に納得出来たからこそ、ノールは彼に聞かなければならなかった。
「トレーナーさんはなりたいですか?"ダービートレーナー"に。」
「...トレーナーなら、絶対に目指せって言われる目標だからね。興味がないなんてことはないよ。」
ノールの質問を否定しなかったトレーナーだが、すぐに"だけど"と続ける。
「俺じゃなくて、
「似合う、ですか...?」
「ああ。だって君の夢は"みんなの王者"だろ?」
トレーナー契約をしたあの日。
夢を必ず果たすと宣言した、クロワデュノールというウマ娘に彼の人生を変えられた。
止まっていた時間が動き出し、心の底から彼女の力になりたいと思えた。
だから、全ては彼女の為だ。
トレーナーとしての称賛なんてどうでもいい。
ウマ娘を第一に考える、昔から変わらない彼のポリシーだった。
「みんなの一番強い想いが集まる、最高峰のレースなんだよ?それに勝てば、きっとみんな認めざるを得ない。最強は誰か。王者は誰かってね。だから、絶対に勝ちたい。勝たせたいんだ、君を。」
「っ...出来ますか?こんな、情けなくて...弱い私に...っ」
始めから今までずっと、無条件で自分の為に力を尽くしてくれるトレーナー。
こんな姿を見せて尚その気持ちは変わらないのかと、分かっていても聞いてしまった。
そんなノールを真っ直ぐ見つめて、彼はかつてと同じように頷いた。
「当たり前だ。俺は君を信じる。君が君を疑っても、俺は絶対に諦めない。最後に勝つのは、一番強いのは」
そこまで聞いて、十分だと思った。
バシンッ!と控え目に言ってもすごく痛い音で頬を叩き、涙を拭って。
ノールは空気を胸一杯に吸い込む。
「私が勝つっ!絶対にっ...!!ダービーウマ娘になるんだあぁぁーーーっっ!!!」
遥か先まで届くような大声量。
吐き出した言葉に自信はなく、根拠もない。
ただ、勝ちたい。
純粋なそれだけの気持ちを込めて、決意を空に撃ち放つ。
その景色を決して忘れない為に。
今日という日を自分に刻み付ける為の、
誓いの咆哮だった。
「君を絶対に、ダービーウマ娘にしてみせる。」
自らもまた誓いを立てるトレーナー。
握り締めた拳は固く、ノールも同じく痛い程に拳を握り締める。
ついに一体となった、担当ウマ娘とトレーナーの心。
その真価を問われる瞬間が、後少しでやって来る。
6月1日、日本ダービー。
頂点を決める運命の日は、すぐそこに。
第5話後編『夢の頂点』へつづく。