想想戦記―想いが力になる世界で、俺は戦う― 作:berunarudo
「お母さん、あれなに?」
まだ幼い声だった。
空の向こう。
町の一角から、黒い霧のようなものが立ち上っている。
母親は足を止め、不安そうに目を細めた。
「……何かしら」
嫌な予感がしたのだろう。
すぐに子供の肩を抱く。
「危ないから、お家に入っていなさい」
「うん、お母さん」
僕は素直に頷いた。
けれど、その時にはもう体の奥に違和感があった。
「……お母さん」
「なあに?」
「体が、痛いよ」
母親の顔が強張る。
しゃがみ込み、額に手を当てる。
「大丈夫よ。病院はもうすぐだから」
その声は優しかった。
でも、震えていた。
「この子は……大丈夫なんですか?」
母親の声は、すがるようだった。
白衣の男は苦い顔をする。
「分かりません。原因不明です」
「そんな……」
「今、町では正体不明のウイルスが流行しているんです。症状にもばらつきがあって、まだ何も……」
「じゃあ、この子は助からないんですか!?」
思わず声が荒くなる。
ベッドの上で、僕は母の顔を見上げた。
「お母さん……なんで泣いてるの?」
母ははっとして、無理やり笑顔を作った。
「大丈夫よ」
震える手で、僕の頬を撫でる。
「お母さんが、絶対になんとかしてみせるわ」
その言葉だけを、僕は信じていた。
だが、世界はあまりに唐突に壊れた。
「なんだこいつら――ぐあっ!?」
「やめろっ……!」
悲鳴が響く。
血の匂いが広がる。
病院の中で、何かが起きていた。
母が振り返る。
「あなたたちは何者――」
「知る必要はない」
次の瞬間、刃が閃いた。
母の胸から血が噴き出した。
「……え?」
僕の視界が止まる。
母の身体が揺れ、崩れ落ちる。
「お母さん?」
理解が追いつかない。
「どうしたの?」
母は血を吐きながら、それでも必死に手を伸ばした。
「……早く、逃げて」
「どうして?」
少年は泣きそうな顔で首を振る。
「お母さんも行こうよ」
母は、最後の力で微笑んだ。
「愛しているわ……」
その言葉が、最後だった。
「……お母さん?」
返事はなかった。
「お母さん」
「お母さん?」
「お母さん!!」
その瞬間だった。
世界が、深淵に呑まれた。
黒い何かが、病院を、町を、空を、すべて覆っていく。
光が消える。
音が消える。
人の気配も、ぬくもりも、全部沈んでいく。
少年は間一髪、その深淵に呑まれなかった。
けれど、目の前で母は沈んでいった。
手を伸ばしても、届かない。
「いやだ……」
声が震える。
「いやだ、いやだ、いやだ……!」
泣き叫ぶ。
けれど、世界は何も返してくれない。
残ったのは、冷たさと絶望だけだった。
やがて。
ぬるり、と異形が現れた。
怪物だった。
黒く歪んだ身体。
裂けた口。
人の悪意だけを煮詰めたような姿。
僕の前に立ち、ゆっくりと口を開く。
もう、生きる意味なんてなかった。
母はいない。
何もかも終わった。
僕は涙で濡れた目を閉じた。
これで終わるなら、それでいいと思った。
だが――
次に聞こえたのは、怪物の断末魔だった。
どさり、と重い音。
恐る恐る目を開ける。
怪物は、すでに斬り捨てられていた。
血の代わりに黒い煙を上げ、崩れていく。
その向こうに、一人の青年が立っていた。
刀を手にした男。
静かで、けれど不思議と目を離せない存在だった。
青年は僕を見て、短く言った。
「大丈夫かい」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「私が来たからには、もう大丈夫さ」
その瞬間だった。
僕を覆っていた深淵に、初めて光が差した。
ほんの少しだけ。
でも確かに、救われた気がした。
その男の名は、楽座落葉松。
彼は僕を拾った。
生き方を教えた。
戦い方を教えた。
知識を与えた。
そして、名前までくれた。
ノイズ。
それが、自分の新しい名になった。
落葉松はよく語っていた。
「私はこの世界を、もっと良くしたいんだ」
楽しそうに笑いながら。
「もっと面白い世界にする」
「ワクワクするだろう?」
その目は、いつだって遠くを見ていた。
僕にはよく分からなかった。
でも、その声を聞くのは好きだった。
あの人が語る未来は、壊れた自分にもまだ何かあると思わせてくれたから。
落葉松様だけが、自分を拾ってくれた。
落葉松様だけが、自分を見つけてくれた。
落葉松様だけが、深淵の中にいた自分に手を伸ばしてくれた。
だから。
だからこそ。
「そんな落葉松様すら……」
現在。
ノイズの目が、どす黒く染まる。
「貴様らが私から奪うというなら――」
その声は震えていた。
怒りだけじゃない。
喪失の恐怖。
また失うことへの怯え。
救いを奪われる痛み。
全部が混ざっていた。
「僕が全部壊す」
空気が変わる。
ノイズの周囲に、黒い想力が渦を巻き始める。
目が、さらに禍々しく光る。
「戯眼――」
その力が解き放たれる。
「狂想残響《きょうそうざんきょう》」
黒い衝撃が、広間全体に響いた。