夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について   作:矢上鉋

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第一話 初めての鍵盤と初恋の人

 僕、 篠原 悠貴(しのはら ゆうき)はピアノに触れたことがない。

 それなのに毎晩、夢の中の僕は知らない舞台の上でプロの演奏家のようにクラシック音楽を奏でていた。

 

 鍵盤を押し込む感触も、ペダルの硬さも、響く音も、全てがリアルな感覚として残っている。

 

「あの夢……ピアノ弾いていないのが、悪いことみたいに思わせてくる」

 

 毎晩見るせいで、現実でピアノを弾いていない僕が悪いみたいに思ってしまう。

 そんな考えを肯定するように、今もピアノの音が頭の中で鳴り続けている。

 

「……頭、痛い」

 

 今朝夢で見た曲だ。まるで、早く弾けと訴えかけるように頭が痛む。

 寝ても覚めてもクラシックに蝕まれる感覚、頭痛は酷さを増す一方だった。

 

「駅のストリートピアノ、あれ弾いたら治まってくれるかな」

 

 普通に考えたら、触ったことすらない僕が弾けるわけない。だけど、実際にピアノに触れたらこの音が止んでくれるかもしれない。

 街で一番大きな駅にあるストリートピアノ、あのピアノで僕が弾けないことを証明する。

 

 そうすれば、きっとあんな変な夢は見なくなるはずだ。

 

 「あった」

 

 駅と商業施設を繋ぐ、吹き抜けがあるイベント広場に出る。その片隅、天窓から差し込む光がグランドピアノを照らしていた。

 不思議なことにピアノを目にした途端、頭の中の音が止む。「それでいい」と言われている気がして、少し不気味だった。

 

「わかった。弾けばいいんだろ」

 

 ラッシュ時間はとっくに過ぎ、辺りの人影はまばらだ。寝坊したせいで遅刻確定だけど、今日はかえって好都合だ。

 

 ピアノへ近づいても、誰も僕に注目していなくて気が楽だった。

 試すにはうってつけのタイミングだ。

 

「……確か夢ではここから始めてたよな」

 

 ゆっくりと鍵盤に両手を添えると、指先に熱が灯る。強烈な既視感。まるで最初から知っていたように、夢で弾いた曲の弾き方が頭に浮かぶ。

 

 そんな馬鹿なことあるはずない。頭では否定してるのに、気が付けば僕の指は吸い込まれるように鍵盤を押し込んでいた。

 

 「……マジか」

 

 まるで指が勝手に動き出したような感覚だった。弾いている感覚はあるのに、この手が自分のものではないような不思議な気分だ。

 

 夢と同じようにピアノが弾けている。ペダルを踏む感覚も、鍵盤を押し込む感触も、全ての動作に既視感がある。感じたことのない不思議な気分がする。

 それでも指を止めようとは思わず、演奏を続けてしまう。

 

「……っ」

 

 いつの間にか周りに人が集まり、僕の演奏を聴いている。

 

「……あの人」

 

 足を止めている観客の中に、何故か目を引かれる人がいた。

 光を反射する金色の髪。レイヤーの入った毛先が内側に跳ねて、どこか狼をイメージさせる。白いセーターに黒のレザージャケット、背負ったギターケースが頭を飛び越えて存在感を主張している。

 そんな人が大きなサングラスを上げて、目をまるくしていた。

 

 ――知っている。

 

「千聖さん!?」

 

 姉さんの友達で、僕の初恋だった人。 水無瀬 千聖(みなせ ちさと)さんだ。髪の色は変わっているけど、間違いない。

 最後に会った時よりも、何倍も綺麗になってる。

 ヤバい。こんなの不意打ちだ。

 

「あれ、やめちゃった」

「えー、せっかく聴いてたのに」

 

 演奏が曲の途中で止まり、周囲がざわめき出す。だけど今の僕には千聖さんの姿しか目に入らなくて、周りの声が遠のいていく。

 心臓が早鐘を打ち、体温が一気に上がる。何か言おうとしたけど、言葉が詰まって声にならなかった。

 

「やっぱり悠だ。ピアノ、弾けたんだ」

「……うん、ちょっとね」

「いや、大したもんだったよ。すごいじゃん」

「あ、ありがとう」

 

 おいでと、手招きされて千聖さんのいる反対側の壁際へ。他の人たちは、もう演奏しないと判断したのか次第に散っていった。

 壁に背を預けた千聖さんと向き合う。さっきと違って平常心を取り戻したのか、アーモンドのような瞳を楽しげに細めていた。

 

「昔はピアノなんて弾けなかったじゃん。いつの間に弾けるようになったの?」

「……俺もう高校生だし、昔のままじゃないよ」

「そっか、悠も高校生か。おっきくなったね。背も追い抜かれちゃったし」

 

 千聖さんは自分の頭の上に手をやって僕の身長と比較するように動かした。昔は僕のほうが背が低くて、よく頭を撫で回されたっけ。

 

 でも懐かしい再会だと喜んでばかりいられない。ピアノを習ったこともないし、そもそも触ったのだって今日が初めてだ。

 

「えい」

「いたっ」

「ね、抜かれちゃってるでしょ」

「おでこ突く必要あった?」

 

 おでこを押さえる僕を見て千聖さんは嬉しそうに微笑む。

 急に目前に迫った左手には、銀のブレスレットが天窓から差し込む光を反射していた。

 

 昔はこんなの着けてなかった。よく似合ってるけど、遠い世界に行ってしまったみたいで複雑な気分だ。

 

「ごめんね。つい、会えたのが嬉しくて……でも大げさだよ悠も、痛くなかったでしょ?」

「反射で声が出るってあるでしょ」

「ふふっ、そうだね」

 

 昔からこんな風に優しく笑う人だった。あの時とは髪の色が全然違うけど、金髪もよく似合ってる。昔から凛とした人だったけど、今もその印象は変わらない。

 

 格好良くて、優しい僕の初恋の人。小さい頃は姉さんと3人でいつも一緒だった。

 

「再会は嬉しいけど……こら、サボりか? 高校生くん」

「寝坊しちゃって、どうせ間に合わないからちょっとくらい良いかなって」

「そんなことだろうと思った。優里香は起こしてくれなかったの?」

「姉さん、普段から大学で早いから……起こされたような気はするけど」

 

 この感じ、懐かしいな。千聖さんは姉さんよりも僕に姉らしく接してくれていたのを思い出す。

 姉さんが私よりお姉ちゃんっぽくてズルいって、むくれていたっけ。

 

「私も二度寝して、この時間だから一緒だね」

「千聖さんも? 人のこと言えないじゃん」

「ふふっ、大学生はいいの」

「……大学生も駄目でしょ」

 

 千聖さんとは小3の頃、あることがきっかけで疎遠になってしまった。

 中高と同じ学校だったけど、年が3つ離れているから通う時期は被っていない。本当に久しぶりの再会だけど、あの頃のように話ができている。自分でもテンションが上がっている自覚があった。

 

 お互い二度寝がきっかけでの再会。ただの偶然なんだろうけど、そんな些細な共通点が心を弾ませる。

 

「さっきのピアノ、あれ本当に良かったよ。クラシック専門?」

「別に専門とかじゃないよ。ゆ……何となく耳に残ってたの弾いただけだから」

「……耳コピであれって、マジで言ってる?」

「え……ち、違う違う! ちゃんと練習した曲だから、ただ何となく頭に浮かんだのがあの曲だったから弾いただけで」

 

 咄嗟に嘘をついてしまった。罪悪感が弾んでいた心を一気に叩き落とす。

 だけど、僕が初めてピアノに触れたのは今日が初めてだ。夢で見た曲をそのまま弾けたとは流石に言えない。今は練習した曲ってことにするしかなかった。

 

「……ふーん、そっか。だいぶ頑張って練習したんだね。そういうレベルの音だった」

「そんな風に言われると照れるな。ありがとう千聖さん」

 

 一瞬、千聖さんの目が鋭くなる。もしかして嘘がバレたのかと心臓が跳ねた。

 この人には昔から嘘が通じなかったのを思い出す。さっきまで再会を懐かしむ楽しい空気が一変して、冷や汗が背中を伝う。

 

「今度一緒にやろうよ。悠となら楽しそう」

「一緒に!?」

「うん一緒に。いや?」

「いやじゃないけど……えっと、練習しときます」

「ふふっ、よろしい」

 

 良かった。一瞬空気が張り詰めたように思ったけど、気のせいだったみたいだ。

 胸を撫で下ろしたのも束の間、致命的な問題に気が付いた。夢で見た曲なら弾けるはずだ。でもそれ以外は?

 

 駅ビルに流れている流行りの曲。何度も聴いたはずなのに、さっきのクラシックと違って弾くイメージがまるで浮かばない。

 

 これは、猛勉強が必要かもしれない。

 もし千聖さんの言葉が社交辞令じゃなかったら、大変なことになってしまう。

 

「もうこんな時間、名残惜しいけど行かなくちゃね。お互い学校だし」

「う、うん」

「……連絡先、優里香に聞いてもいい? お互い今は立ち話してる時間なさそうだし、こっちから連絡するから」

 

 やっぱり社交辞令じゃない。もし楽譜が読めないと千聖さんに知られたら不味い。一緒に演奏しようって楽しそうに言ってくれた千聖さんに、どんな顔をさせてしまうだろう。

 楽しみだと言って微笑む表情を曇らせてしまうかもしれない。

 それだけは嫌だった。

 

「楽しみにしてるね」

「楽しみ?」

 

 それに、また弾かないと今は治っている頭痛が再発すると思う。

 指先が物足りないと訴えるように熱を灯している。このまま弾かなければ、またあの苦しみが襲ってくる確信があった。

 

「すごく楽しみ。悠もそうだと嬉しいな」

「……俺も、すごく楽しみにしてる」

 

 楽譜も読めないのにピアノを弾ける。素人の僕にはわからないけど多分ありえないはずだ。

 千聖さんに「これ弾こう」って楽譜渡されたら、それだけで終わってしまう。考えただけで寒気がする。千聖さんに失望されたくない。

 

 だから、まずは楽譜を読めるようにならないと。

 

「ふふっ、その前に学校だね。電車、次の乗らないと午前中の授業に間に合わないよ」

「え……やばい! ごめん、俺もう行くよ」

 

 スマホを取り出して時間を確認し、僕は慌てて走り出した。

 

「転ばないように気をつけなね!」

「気をつける! またね千聖さん!」

「またね。いってらっしゃい、悠」

 

 秋の風が全身を通り抜ける。爽快感すら覚える心地よさの中、階段を駆け下りる。

 この気持ちよさの理由は、きっと頭の中の音が止んだからだけじゃない。千聖さんとの再会、これから何かが変わっていく気がしていた。

 

 その予感は、すぐに現実のものとなる。

 ストリートピアノが、僕の人生を大きく変える『天才ピアニスト』との出会いの場所になることを――今の僕はまだ知る由もなかった。

 




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