夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について   作:矢上鉋

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第十話 バダジェフスカ

 “とっておきの方法”――それは次の勉強会までに準備しておくね。そう千聖(ちさと)さんに言われた時、朱鷺ノ宮(ときのみや)さんが作戦があると言っていたことを思い出した。

 2人は全然タイプが違うけど、意外なところで共通点がある。

 

 ただ、今の僕はそんな風に呑気に共通点を見つけている場合じゃない。

 千聖さんとはあれから一度も予定を合わせることができず“とっておきの方法”っていうのを教わっていない。

 だから僕は僕で頑張らないと――そう思って1人楽譜の勉強をして過ごすうちに、週末がやってきた。

 

 朱鷺ノ宮さんとの撮影の日だ。楽譜はまだマスターしていない。

 今日まで見た夢のストックで何とかなるはずだ。そう思いながらも、内心では不安がつきまとっている。

 

「あの、篠原です。朱鷺ノ宮さんと約束をしていて」

「篠原様ですね。伺っております。左手に見えますエレベーターで6階までお上がりください」

「はい、ありがとうございます」

 

 前回と同じビル、同じ受付の人に対応されてエレベーターで6階に向かう。

 エレベーターに乗り込んでボタンを押す。階層表示の数字がひとつずつ点灯していく。

 

「悠貴くん、お待ちしていました」

「朱鷺ノ宮さん、今日も待っててくれたんだ」

「はい、この一週間楽しみにしていたんですよ」

 

 先週もこんな感じで出迎えてくれた。朱鷺ノ宮さんに笑顔で歓迎されると、不安な気持ちもすぐに吹き飛んでしまう。

 僕の演奏が求められて嬉しい。弾き始めたきっかけを考えると、大きな変化が僕に起きていた。

 

 今日も頑張ろう。晴れやかな気持ちで、朱鷺ノ宮さんと一緒にスタジオへ向かう。

 

「今日はどんな曲を弾いてくれるんですか?」

「最初は『乙女の祈り』かな。この曲、好きなんだ」

「『乙女の祈り』テクラ・バダジェフスカの曲ですね。私も好きな曲です」

「ばだ……じぇ、ふすか?」

 

 朱鷺ノ宮さんが口にした作曲者の名前は、聞き馴染みのないものだった。僕は自信なく、その名前をカタコトで繰り返した。

 

「うふふっ、私たち日本人には発音しにくい名前かもしれませんね」

「ちょっと噛みそうだった」

「『乙女の祈り』の作曲者の名前なんです。『テクラ・バダジェフスカ』生まれ年に諸説あってはっきりしないんですけど、この曲は彼女が10代の頃に作曲したものと言われています」

「10代、すごいね」

 

 僕とほとんど年の変わらない女の子がこんな曲を作ったのか。耳に柔らかく残っている祈りの旋律。同年代だからこそ感じるものがあったのかな。

 もし同じ年に作曲していたとしたら……到底想像もつかない。でも、だからこそ尊敬と同時に親近感が湧いた。

 

 作曲者、バダジェフスカという人物像を少し知っただけなのに、『乙女の祈り』をもっと好きになったような気がする。

 

「ええ、私もそう思います。ですが……彼女は祖国のポーランドでは近年まで殆ど評価されていなかったんです」

「え、どうして」

「当時は芸術性が重視される時代でした。本格的な音楽教育を受けられていなかった彼女のピアノは受け入れられなかった。あんなに美しい旋律なのに……」

「そんな……」

「陽の目を浴びなかった天才は多くいます。鮮烈に歴史に名を残した天才がいる一方で、苦悩と挫折に満ちた天才達もまた多く、それこそ歴史に名を刻むことすらできずに消えていった人もいたでしょう」

 

 どこか悲しそうに朱鷺ノ宮さんはバダジェフスカのことを語った。

 それは彼女を思ってのことか、それとも何処かに自分を重ねているからか、僕には分からなかった。

 

「悠貴くんのバダジェフスカ、『乙女の祈り』すごく楽しみです。今日は弾いてくれるんですよね?」

「え、ああ、うん。そのつもり」

「演奏する曲は悠貴くんにお任せしていましたけど、私の大好きな曲を弾いてくれるのとっても嬉しいです」

「……ご期待に添えるよう頑張るよ」

 

 さっきの影が差したように見えた表情は、まるで気のせいだったように朱鷺ノ宮さんは花が咲いたような笑顔を浮かべていた。

 

「着きましたよ。『乙女の祈り』、聴かせてもらえますか?」

 

 その声にハッとして前を見ると、いつの間にかスタジオの前に到着している。

 

「あと、お願いがあって……今日は悠貴くんができる範囲で構わないので、何曲か収録してストックをお願いしたいのですが大丈夫でしょうか」

「す、ストック?」

 

 背筋が凍った。全身が強張る。どうして、バレるはずないのに、どうして朱鷺ノ宮さんが僕の夢のストックのことを……。

 

「以前お話したチャンネルを運営していく上での作戦のためなんです。ある程度のストックがあると助かるのですが……」

「ああ、そのストック。うん、大丈夫。頑張って弾いてみるよ」

「その? 他にもストックの話をしたでしょうか?」

「いや、こっちの話! 気にしないで」

 

 びっくりした。僕の夢で見たストックのことを言われているのかと思った。

 チャンネルに上げる用のストックの話か。朱鷺ノ宮さんの作戦にはある程度チャンネルに動画がある状態が良いって言っていたもんな。

 そうだよな。バレる訳ないよね。キョトンした反応をしている朱鷺ノ宮さんの姿に一気に緊張した身体の力が抜けた。

 

「じゃあ、早速弾いてみようかな」

「撮影の準備はできています。いつでも大丈夫ですよ」

 

 話題を切り替えるために、やや強引にピアノへ向かう。

 以前の収録の時と同じ状態のピアノの前に座り、僕は鍵盤を優しく、撫でるように旋律を奏でた。

 

 ああ、やっぱりこの旋律は良い。柔らかく、そして温かい。

 朱鷺ノ宮さんも同じように考えてくれてるといいな。演奏中だから彼女の様子が良く分からない。でも、それで構わない。今はこの旋律に身を委ね、朱鷺ノ宮さんが聴いている。その事実があるだけで十分だ。

 

 指先から音が生まれていくのが、こんなに気持ちいいって知らなかった。

 意思を持つように襲ってくる痛みは好きになれないけど、ピアノに向かわせてくれたことは感謝してもいいかもしれない。

 

 なんて考えていると、あっという間に演奏は終わってしまった。

 

「悠貴くん、お疲れ様でした」

「朱鷺ノ宮さん、どうだったかな。今の『乙女の祈り』気に入ってくれたらいいんだけど」

 

 朱鷺ノ宮さんから声を掛けてくれたので喋っても大丈夫だろう。彼女に聴いてもらいたいと思っていたバダジェフスカの『乙女の祈り』の感想が知りたかった。

 

「とても素敵でした。バダジェフスカの『乙女の祈り』悠貴くんの演奏はとても繊細で、暖かくて……あっという間に終わってしまいました」

「……良かった。気に入ってくれたみたいだね」

「ええ、とっても」

 

 真正面から褒められるとくすぐったい気持ちになる。

 慣れていないのもあるけど、朱鷺ノ宮さんに褒められるとぞわぞわって変な感覚になってしまう。ただ、決して嫌という訳ではなかった。

 

「今から編集の時に聴き返すのが楽しみです」

「そういえば、前に撮影した曲って編集は終わった?」

「2曲とも編集は終わりましたよ」

「まだ投稿はしないんだったっけ?」

「作戦がありますから。最低でも10曲はストックが欲しいところですね」

 

 作戦がどういったものなのか僕は知らない。朱鷺ノ宮さんが自信たっぷりに語っていたから勝算はあるのだろう。

 でも気になるよな。作戦って何をするつもりなんだろうか。

 

「うふふ……悠貴くん、作戦が気になっているって顔に出ていますよ」

「……気になっていないと言えば嘘になるよね」

「知りたいですか?」

「教えてくれるの?」

「作戦を実行するまで秘密にしておくつもりだったんです。でも、一緒にチャンネル運営をしていくんですから、悠貴くんにも知る権利はありますよね」

 

 確かに僕と朱鷺ノ宮さんはチャンネルを一緒に運営していく仲だ。

 ただ撮影場所に撮影機材、殆どの準備を朱鷺ノ宮さんがしている。僕はピアノを夢で見たまま演奏するだけだ。

 

 どこかで遠慮があったのかもしれない。だから僕は朱鷺ノ宮さんに作戦を聞かされた時、踏み込めなくて内容を聞けなかった。

 そして、それは朱鷺ノ宮さんも一緒なのかもしれない。彼女にとってピアノとはとても大きな存在であると、まだ数回しか会っていないけど痛いほど理解できる。

 

「作戦と大げさに言っていましたけど、内容は本当に大したことないんですよ」

「そうなの? なんか自信ありって感じだったけど」

「うふふ、効果は絶大だと思います」

 

 僕は演奏するだけと思っていたけど、その演奏を朱鷺ノ宮さんは何よりも求めている。だから朱鷺ノ宮さんにも一歩踏み込めずにいたのかもしれない。

 そこを超えて、朱鷺ノ宮さんは僕に向かって踏み出してくれた。

 

「このアカウントで『My etude』を宣伝するのが作戦なんです」

「え、これって……『Shizuru』の?」

 

 朱鷺ノ宮さんがスマホに表示させているのは『Shizuru』のアカウントだった。朱鷺ノ宮さんがプロのピアニストとして活躍していた時のものだ。

 それで僕たちの『My etude』を宣伝するのが作戦?

 

「自分で言うのも何ですが、フォロワーは多いですから」

「知名度のあるアカウントが紹介するなら……」

「はい、無名の人が始めるよりは話題になるはずです」

「でも、それって良いのかな?」

 

 このチャンネルは朱鷺ノ宮さんも運営に携わっている。それをプロの時のアカウントで宣伝するのって大丈夫なんだろうか。

 よく分からないけど、炎上したりするんじゃないだろうか。

 

「ズルいと思われますか?」

「いや、そこまでは思わないんだけど……何が原因で炎上するか分からないし」

「はい、とても正しい認識だと思います」

「それでも、『Shizuru』のアカウントで宣伝を?」

「リスクを飲み込んででも宣伝する価値がある。悠貴くんのピアノは多くの人に届くべきものなんです」

 

 そう語った朱鷺ノ宮さんの瞳は熱く燃えるように輝いていた。

 その眼差しに、僕はただ圧倒されて頷くしかなかった。

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