夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について 作:矢上鉋
バイトの初日。
初めての労働の大変さに、あっという間に時間は過ぎていった。
「今日はバイトが終わったら、また家に来なよ。準備できたからさ」
「この前言ってたやつ?」
「そう、”とっておきの方法”ってやつ」
”とっておきの方法”一体どんな内容なのか、想像もつかない。
「……一応、自分でも勉強してるけど、楽譜を覚えるのって難しいね。見ながら弾くなんて、まだまだ無理だと思う」
「楽譜読める人でも、演奏に挑む時はちゃんと覚えたりするからね。初見の楽譜を見て演奏できるのって、かなりレベル高いことだよ」
実際に勉強してみると、一筋縄じゃいかないことを痛感した。
千聖さんから借りているバイエルでさえ、今の僕には高難易度なものに見えているんだから。
「でも、一人で頑張ってて偉い! この後、その成果を見せてもらわないとね」
「成果って、この前と大して変わってないよ」
やっぱり独学で学ぶのには限界があった。地道な勉強は実を結んでいるはずだけど、どうしても焦ってしまう。
でも、やるしかない。少しずつ進んでいくしかない。
勉強時間を増やそうと決意すると、店の扉が開いて来客を知らせた。
「あ、お客さんだ。悠、あの女の子がレジへ来たらさっき教えたとおりに対応してみて」
「うん、分かった」
店内にはいつの間にか小学生くらいの女の子が1人、ピアノを真剣に眺めていた。真っ赤なランドセルを背負い、制服の襟元を正した姿が妙に大人びて見える。
「熱心にピアノ見てるね」
「私も覚えがあるなー」
「あ、こっち来たよ千聖さん」
「1人かな? 親御さんは見えないね」
「あの、少しいいでしょうか?」
ぱっちりとした大きな瞳がこちらを見上げている。飾り気のないシンプルなカチューシャが目立って、さらさらな髪の毛に視線が向いてしまう。
白い襟に赤のライン、濃紺なワンピースは
レジカウンターの正面、僕たちを見上げる形で女の子が話し掛けてきた。
「はい、どうしました?」
「ピアノのことを聞きたくて、今度おじい……いえ、祖父がピアノを買ってくれるので下見に来たんです。ただ違いとかがあまり分からなくて」
「そうだったんですね。お一人ですか?」
「はい、学校帰りだったので」
「そうなんですね。じゃあ一緒に商品のほうへ行きましょうか。そこで説明しますね。店長、ちょっと接客対応でレジ離れますね」
「はーい、よろしくね」
子供相手でもちゃんと敬語で接客するんだと感心していると、千聖さんはレジを裏にいる店長に任せていた。
そして小学生の女の子を先頭にして僕と千聖さんはピアノコーナーへ向かう。
「こういうピアノが欲しいっていうのはありますか?」
「ピアノ教室に通っているんです。コンクールにも出ていて、練習を家でもしたいんですが……」
「お家にピアノは無いってことですか?」
「いえ、キーボードならあります。でも祖父がもっといいのを買ってくれるって今度こっちへ遊びに来てくれるんです」
「良いお爺ちゃんですね」
「はい、コンクールで良い結果を出せたご褒美なんです!」
花が咲いたような笑顔というのはこういうのを言うんだろうな。
眩しい笑顔を浮かべて女の子は嬉しそうに微笑んでいる。
「じゃあ、機能がたくさんあるものより、木製の鍵盤に近い弾き心地のものがいいですね」
「そういうのがあるんですか?」
僕も全く同じ感想を覚えながら、近くにあったピアノの鍵盤を押してみる。意識して弾いてみると、確かにキーボードよりはグランドピアノに近い。
「いま、そこのお兄さんが弾いたのがさっき言った木製の鍵盤に近い製品ですね。弾いてみますか?」
「……いいんですか?」
「大丈夫ですよ」
千聖さんに促されて女の子はおずおずって感じでピアノの前に座って演奏を始めた。ひとつひとつの音をしっかり弾こうと一生懸命弾いている。
「ピアノ教室で使うピアノに近い弾き心地だったんじゃないですか?」
「……キーボードとは全然違いました」
「そっちのお兄さんの後ろにあるのも、同じタイプですよ」
そう言って僕の後ろのピアノを千聖さんが指差した。
そして、女の子がこちらを向いて千聖さんから視線を外す。すると、千聖さんが良いこと思い付いたと笑みを浮かべる。
その表情に嫌な予感が過った。
「今度は音を聞いてみますか。あのお兄さんピアノすごく上手だから、ちょっと弾くとこ見せてもらいましょう」
「ピアノ弾けるんですか? 聴いてみたいです!」
小学生のお客さんの手前だと断るわけにもいかない。
余計なことをって、視線で訴えるが千聖さんは全然気にした様子はなくニヤニヤしていた。
「じゃあ、ちょっと弾いてもらいましょう。お願いねバイト君」
「……はい、先輩。でも、何を弾けば」
「いいのがあるの。ちょっと待ってて」
千聖さんは近くの楽譜コーナーに行って何かの楽譜集らしきものを手に取った。
いや、まだ楽譜を見ながら演奏は無理だ。千聖さん、一体何を考えているんだ。口に出せない文句を頭に浮かべていると、本人はニコニコと上機嫌な感じで楽譜を持って戻ってきた。
「これ、前に弾いてくれた曲の楽譜」
「前にって、駅でってこと?」
「これなら弾けるでしょう。本当は今日のバイトが終わってからのつもりだったんだけど、良いタイミングだと思って」
「千聖さん……うん、これなら大丈夫」
いきなり知らない曲を弾けって言われるかと思った。
この曲、千聖さんと10年ぶりに再会した時に弾いていた曲だ。
『ショパン《ノクターン第2番》Op.9-2』
そう本には書かれている。この曲があの日、僕が弾いた曲の名。
千聖さんが言っていた”とっておきの方法”って、夢に見た曲を楽譜を見ながら弾くことだったんだ。
それなら確かに楽譜を見ながら弾ける。今までよりも、ずっと理解が進みそうな予感がする。
「じゃあ、始めるね」
あの日と同じように鍵盤の上に指を乗せる。冷たい感触だけど、僕の指は熱を持って旋律を奏でるのを待ちわびていた。
楽譜に目をやる。そのまま、あの日と同じように演奏を始めた。
すると不思議な感覚がした。夢で見た曲だから楽譜が無くても弾くことはできる。だけど、楽譜を目にしていると音符と音が結びついていくように頭に入ってくる。
「……すごい」
女の子がポツリと呟いたような気がした。それが定かではないくらいに、楽譜に集中していた。
ああ、駄目だ。もう楽譜が終わってしまう。次のページにしないと、でも鍵盤から手が離せない。
「あ」
「ほら、続けて。」
千聖さんが僕の演奏に合わせて楽譜を捲ってくれる。また旋律が視覚から脳へ叩きつけられるように入ってくる。僕は夢中になって演奏を続けた。
そして、気がつけば最後の一音を奏でていた。
「千聖さん、これが”とっておきの方法”……?」
「凄いですお兄さん!」
「え……あ、ありがとう」
千聖さんの言う”とっておきの方法”の正体が分かって振り向こうとすると、さっきの女の子が目と鼻の先まで近づいてきて興奮した様子で僕のピアノを褒めてくれた。
「今のショパンでしたよね。私、今ちょうどピアノ教室で習ってるのもショパンなんです」
「ふふっ、バイト君の演奏気に入ってくれたみたいですね」
「あ、ごめんなさい。わたし、はしゃいじゃって」
千聖さんが声を掛けてくれたら女の子は我に返って小さく萎むように後退りした。
大人びた感じの子だし、我に返って恥ずかしくなったんだろう。
「わたし、このピアノにします。このピアノで練習して、さっきのお兄さんみたいに弾けるようになります!」
「私は良いと思うな。悠は?」
僕のように弾けるようになりたい。そう女の子が口にする。自惚れじゃなければ、憧れてくれているんだろう。
照れくさいけど、胸に暖かいものが込み上げてくる。
「……良いんじゃないかな」
「あの、お兄さんの名前教えてもらってもいいですか? わたし、
「えっと、
「私は
「悠貴さんに、千聖さん。今日は本当にありがとうございました」
美音ちゃんは深く頭を下げて感謝の言葉を送ってくれた。小学生とは思えない礼儀正しさに、この子に恥じないピアノを弾けるように僕も頑張ろうって気になる。
「おじいちゃんに買ってもらうピアノも決まったので、今日はもう帰りますね。このあと、塾があるんです」
「気をつけてね」
「また来ますね。悠貴さん、千聖さん」
「は~い、またのお越しをお待ちしてますね」
美音ちゃんが店の出口に向かう。扉の取っ手を持った彼女はこちらに振り返って、大きく手を振ってくれた。
さっきまでは年齢より大人びて見えたのに、今だけは小学生らしい無邪気さを見せる。そのギャップに少し驚かされながら、僕と千聖さんも笑顔で手を振り返した。
「悠、良かったね」
「……うん」
千聖さんの柔らかな声にうなずきつつ、胸の奥に残る暖かさを噛みしめる。
あの日、痛みから逃避するために僕はピアノを始めた。続ける内に、気が付けばピアノの楽しさに目覚めていた。
あの子の憧れになれたのかな。
そう思うと――誇らしくて、またピアノのことが好きになっていた。